鉄雨の砦奪還作戦 08
砦の最奥部、崩れかけた石壁に囲まれた薄暗い袋小路。
月の光さえも届かない、じめじめとした暗がりに強引に連れ込まれると、刹那はようやくその無音の足を止めた。
掴んでいたハズラの腕をバッと手放すと同時に、その肩をドンと強く突き飛ばした。
背中が冷え切った石壁に激突し、ハズラの肺から短い空気が漏れる。
逃げ場はない。目の前には、青磁色の瞳を鋭く細めた刹那が、唯一の退路を完全に塞ぐように立ちはだかっていた。
少年の表情は、まるで精巧に作られた人形のように静まり返っている。だが、その瞳の奥を覗き込めば、単なる感情の欠落ではない、焦燥と、刃物のような鋭い探究の光が激しく揺らめいていた。まるで、罠にかかった獲物の最も致命的な急所を探り当てようとするかのような、張り詰めた視線。
長く、息苦しいほどの沈黙が、袋小路の空間を支配した。
刹那はハズラから片時も目を逸らさず、一歩、また一歩と、じりじりと距離を詰めてくる。
互いの微かな呼吸音が聞こえるほどの至近距離。少年の身体から漂ってくるのは、生々しい血の匂いなどではなく、極限まで研ぎ澄まされた刃物特有の、冷たい金属的な匂いだった。
やがて、刹那の薄い唇がゆっくりと、重い扉を開くように開かれた。
「……一つ、聞く」
その声はひどく低く、いかなる温度も持たなかった。だが、その響きには決して聞き逃すことを許さない、呪いのような重みがあった。
「貴様、先ほどの戦闘中……あの忌々しい檻の中にいた私を、『眼』で視ていたな?」
それは質問というよりは、確認作業。あるいは、逃れられぬ事実を喉元に突きつける、処刑人の尋問であった。
ハズラはゴクリと息を呑んだ。
あの時。
分厚い鉄の扉越しに、ハズラは確かに自身の魔眼を発動させ、黒鉄の檻に囚われてしまった少年の姿を視認していた。
「生きた閂」となって扉を押し留めている敵兵たちの正確な位置を探り出すと同時に、先行して孤立した味方である刹那が、あの衝撃の中で生きているのか、その安否を確認するために視線を向けたのだ。
その視線に、少年は気づいていたというのか。あの極限の混乱と、血みどろの激闘の最中において。
だが、ハズラに嘘をつく理由はどこにもなかった。
ハズラは、心臓を射抜くような刹那の鋭い視線を正面から受け止め、隠し立てすることなく正直に頷いた。
「……はい」
ハズラは淡々と、事実のみを告げた。
「檻の中の刹那さんの位置と……無事に生存されているかを確認するために、視ていました」
ハズラの口から紡がれた、あまりにも素直で、淀みのない肯定の言葉。
「はい。視ていました」というその響きは、刹那の心臓にとって、喉元に鋭利な切っ先を突き立てられるよりも遥かに重く、深い絶望の一撃となって突き刺さった。
一瞬の完全な静寂。
刹那の全身から立ち上るように張り詰めていた殺気が、ふつりと音を立てて揺らいだ。
刹那は、ハズラを射抜くように見据えていた視線をわずかに逸らし、短く、しかし明確な苛立ちを含んだ音を唇の隙間から漏らした。
「……チッ」
痛いほどに鋭利な舌打ちだった。
刹那は、無意識のうちに長刀の柄にかけていた指を離すと、自身の青白い額を片手で乱暴に覆い、ひどい頭痛を堪えるかのように深く俯いた。
その氷のように静まり返っていた表情に、初めて人間らしい、そして生々しい苦渋の色が滲み出た。
「……不覚だ」
腹の底から絞り出すような低い声が、冷たい石壁に虚しく反響して消えていく。
「王子の側近を、この場で斬り捨てるわけにはいかん。……紫苑に続いて、これで二人目か」
刹那は額を押さえたまま、独りごちるように痛ましい声で呻いた。
石壁に背中を押し付けられたハズラの目前には、青磁色の瞳を再び鋭い刃のように細めた刹那が立っている。全身から放たれる肌を刺すような冷気と、肌を粟立たせる殺気が、ハズラの呼吸を無意識のうちに浅くさせていた。
刹那はハズラとの距離をさらに一歩詰め、吐息が直接肌にかかるほどの至近距離から、ドスの利いた、這うような低い声で警告を発した。
「いいか。……よく聞け」
その声は、物理的な温度を一切持たない氷の礫のように、ハズラの鼓膜を容赦なく打った。
「私が『女』であること……絶対に、他言は無用だ。もし誰かに漏らせば、貴様のその口を永遠に塞ぐ」
それは、微塵の冗談も含まれない明確な殺害予告だった。
刹那は、ハズラの魔眼によって、衣服の下に隠された肉体的な特徴のすべてが白日の下に晒されたのだと、微塵の疑いもなく確信していたのである。
しかし、その決死の警告を受けたハズラの反応は、刹那の悲壮な覚悟を根本から裏切るものだった。
ハズラは命の危機に恐怖して怯えるでもなく、あるいは他人の秘密を握った優越感に歪んだ笑みを浮かべるでもなく、ただ数秒の間、心の底からきょとんとした顔で、ぱちぱちと瞬きを繰り返したのだ。
そして、ひどく不思議そうに首を小さく傾げた。
「え? ……刹那さん、女性だったんですか?」
ハズラの口からこぼれたその言葉には、相手を欺くための演技や計算の色は、微塵も混じっていなかった。そこにあるのは、純粋な驚きと、ただの困惑だけだった。
ハズラの魔眼が見せる世界というものは、色彩を完全に失った無機質な風景と、その中で脈打つように燃える魂の火だけである。
硬い壁や衣服、そして柔らかな肉体さえもが、精巧なガラス細工のように半透明に透け、その奥底にある生命エネルギーの熱源だけが、赤橙色の光となって闇に浮かび上がる。
彼があの激戦の最中で視ていたのは、檻の中に囚われた刹那の「正確な位置座標」と、少年……いや、少女の命がまだ燃えているかどうかの「生死の確認」だけであった。
透き通ったガラスのような輪郭線の向こうにある、生物学的な性別や、肉付きの良し悪しといった個人的な情報は、生存確認という戦術的な目的においては全く不必要なノイズであり、ハズラの意識のフィルターには最初から引っかかっていなかったのだ。
「……は?」
ハズラのあまりにも純朴で、裏表のない問いかけに、刹那の氷点下の仮面にピシリと大きな亀裂が入った。
周囲の空気を凍らせていた鋭利な殺気が、嘘のように霧散し、代わりに間の抜けた声が彼女の唇から漏れ出る。
彼女は、信じられないものを見るような目で、ハズラの瞳を凝視した。
そこにあるのは、他人の秘密を知って狡猾に立ち回ろうとする光ではなく、全く知らなかった事実を突然聞かされて、ただただ驚いているだけの、限りなく無垢な光だった。
刹那の優秀な思考回路が、完全に停止した。
ハズラは知らなかったのだ。見ていなかったのだ。自分の身体のことなど、何一つ。
だというのに、自分は今、わざわざ殺気まで放って無知な彼を壁に追い詰め、あまつさえ墓場まで隠し通すべき最重要機密を、自らの口で高らかに暴露してしまったことになる。
これ以上ないほど見事な、完璧な自爆だった。
口を半開きにしたまま、刹那は言葉を完全に失い、石像のように硬直してしまった。
誰もいない回廊の隅で、気まずすぎる沈黙だけが、重く、そしてひどく冷ややかに二人を包み込んでいた。
殺気を放ってまで守ろうとした重大な秘密を、自らの早とちりによって鮮やかに暴露してしまった刹那。
そして、命を狙われるほどの重い秘密を、全く意図せず聞かされてしまったハズラ。
二人の間には、剣を交える時のヒリヒリとした緊張感とは全く質の異なる、身の置き所のない居心地の悪さだけが横たわっていた。
ハズラの「知らなかった」という反応が紛れもない真実であることは、その困惑に満ちた瞳の揺れを見れば明白だった。刹那ほどの達人が、未熟な少年の虚偽を見抜けないはずがない。
だからこそ、今の刹那には立つ瀬が全くなかった。彼女はハズラを脅すために無意識にかけていた長刀の鯉口からそっと指を離し、行き場を失った視線を、ただただ暗い宙へと彷徨わせた。
「…………」
その端正な能面のような顔には、珍しく微かな朱色が差していた。それは決して怒りによるものではなく、自身のあり得ない短慮に対する羞恥と、取り返しのつかない失態を犯してしまったバツの悪さからくるものだった。
だが、一度口から放たれてしまった言葉は、覆水のごとく盆に返ることはない。
たとえハズラが「見ていなかった」としても、今この瞬間、明確に「聞いてしまった」という事実は絶対に消えないのだ。
秘密を知られてしまった以上、もはやハズラを単なる「王子の側近」として軽く扱うことはできず、かといって口封じに斬り捨てるわけにもいかない。
彼女は、小さく、しかし周囲の空気を切り裂くように鋭く咳払いをした。
「……コホン」
それは、ガラガラと崩れかけた自身の冷静さを、無理やりにでも繋ぎ止めるための儀式だった。
刹那はハズラの視線から逃げるように、ふいと背を向けた。長いマフラーがふわりと舞い上がり、彼女の微かに赤い表情を隠す。
感情を削ぎ落とした仕事人の仮面を、彼女は必死になって被り直そうとしていた。
「……今の言葉も、すべて忘れろ」
背中越しに投げかけられた声は、先ほどまでの肌を刺すような殺気こそ完全に潜めていたが、依然として硬質で、他者を寄せ付けない拒絶的な響きを含んでいた。
それは論理的に考えれば到底不可能な注文であったが、彼女の誇りにとっては、どうしても譲れぬ一線なのだろう。
刹那は一歩、回廊の出口へと向けて足を踏み出した。
だが、すぐにその足を止め、肩越しにハズラを鋭く睨みつけた。その青磁色の瞳には、脅しとも懇願ともつかない、ひどく切実な光が宿っていた。
「だが……私の重大な秘密を握った責任は、きっちりと取ってもらうぞ」
あまりにも理不尽な要求だった。
勝手に勘違いし、勝手に自白して自爆したのは、他でもない彼女の方である。だが、彼女の思考回路の中では、ハズラの魔眼という異能が存在したがゆえに招いた事態として、強引に処理されているようだった。
ハズラが反論の言葉を紡ぐ隙も与えず、彼女は再び前を向き、早足で歩き出した。
その遠ざかる背中は、恥ずかしさから逃走するようでもあり、同時に、新たな契約を結んだ共犯者のようでもあった。
去り際、彼女は誰に聞かせるでもなく、吐き捨てるように呟いた。
「今後、貴様の作戦指示には……可能な限り従う。それで手打ちだ」
その言葉は、風のように速く、かすかだったが、ハズラの耳には確かに届いた。
それは、誇り高い彼女なりの最大の譲歩であり、秘密の口止め料としての不器用な契約提示だった。
王子の命令でさえ、気分が乗らなければ平然と無視する気難しい神速の剣士。そんな彼女が、一個人の、それも年下の少年の指示に従うと明言したのだ。
「女である」という致命的な弱みを握られているがゆえの首輪か、あるいは、誰にも言えない秘密を共有したことで生まれた奇妙な連帯感なのか。
ハズラが呆気にとられて見送る中、刹那の小柄な姿は音もなく夜の闇へと溶けて消えた。
後に残されたのは、ひどい気まずさと、そしてほんの少しの安堵を含んだ静寂だけだった。
こうして、誰にも知られることのない暗い回廊の片隅で、奇妙な力関係が結ばれた。
最強の矛を持つ気まぐれな剣士と、すべてを見通す目を持つ慎重な観測者。
二人の間に生まれた、いびつで、しかし強固な絆の始まりであった。




