鉄雨の砦奪還作戦 後日談
鉄雨の砦における苛烈な制圧戦を終え、王都セプテントリオンへと帰還して数日が過ぎた頃のことである。
グラン・ヴァルディア王城の奥深く、統星の執務室には、落ち着いた静寂が満ちていた。磨き上げられた窓ガラス越しに差し込む午後の柔らかな日差しが、室内に浮かぶ微細な塵を黄金色に染め上げている。
その光の帯の先に、若き王子が静かに腰を下ろしていた。戦場での猛々しい甲冑姿はなく、落ち着いた執務用の衣服に身を包んでいる。彼は手元に広げられた地図や報告書に視線を落とし、ただ理知的な為政者としての空気を纏っていた。
そして、その執務机から数歩離れた場所に、ハズラは直立不動の姿勢で控えていた。
先の戦いにおいて、ハズラは魔眼を駆使し、分厚い鉄扉の向こう側に蠢く「生きた閂」の座標を正確に伝達した。その結果、味方の犠牲を出すことなく砦を陥落させるという、極めて難易度の高い要求を見事に果たしてみせたのだ。側近としての役目を全うできたという微かな安堵が、ハズラの胸の奥には確かにあった。
しかし、統星が手元の羊皮紙からゆっくりと顔を上げ、その黄金色の瞳でハズラを真っ直ぐに射抜いた瞬間、室内の空気はふたたび張り詰めた弦のように引き締まった。
「これからの戦いにおいて、常に誰かの馬に同乗しているわけにはいかない」
静かな、だが一切の妥協を許さぬ響きを持った統星の言葉が、石壁に反響した。
ハズラは小さく息を呑んだ。これまでの行軍や移動において、彼は常に統星の部下が操る軍馬の背に、二人乗りという形で同乗させてもらっていた。過酷な奴隷として生きてきた彼にとって、馬とは高貴な者や武具を身に纏った正規兵が操るものであり、己のような存在が自ら手綱を握るなど、夢にも想像したことがなかった。他者の広い背中にすがり、ただ目的地へと運ばれるだけの移動に、疑問を抱いたことすら一度もなかったのだ。
だが、統星の眼差しは、そのようなハズラの甘えを容赦なく切り捨てていた。
「自分一人で馬を駆れるようになれ」
それは、提案でも助言でもない。主君から側近へと下された、絶対の至上命題であった。
統星がハズラに求めているのは、ただ主君の背後で大人しく付き従うだけの庇護される存在ではない。戦場の全体像を俯瞰し、部隊の動きを最適化する「観測者」として、自立して盤面を見極める役割である。
刻一刻と死線が移動し、状況が目まぐるしく変化する戦場において、的確な判断を下し続けるためには、他者の操縦に自身の命運や位置取りを委ねるわけにはいかないのだ。自らの意思で瞬時に最適な場所へ移動し、誰の判断も介さずに戦局を見極める。そのためには、自由自在に戦場を駆け回れるだけの機動力が必要不可欠となる。
それは、軍事行動の理に適った、反論の余地がないほどに至極真っ当な理由であった。
自分の足で、いや、自分の手綱で戦場に立て。
その言葉の裏にある責任の重さと、主君から寄せられている期待の途方もない大きさに、ハズラは背筋が粟立つような緊張感を覚えた。未経験の技術を習得することへの恐怖や不安は確かにあった。振り落とされれば命を落とすかもしれない猛獣を、自分の意思で御さなければならないのだから。
しかし、統星の掲げる「世界統一」という壮大な覇道を共に歩むためには、決して避けては通れない壁である。
ハズラは深く頭を下げ、主君の言葉の重みを深く噛み締めながら、その命令を己の新たな使命として静かに受け入れたのだった。
◇
数日後、休日のグラン・ヴァルディア王都の城下町は、多くの民で溢れかえり、活気に満ちていた。
高く澄み渡った青空の下、大通りには無数の露店が軒を連ね、香ばしく焼けた肉の匂いや、甘い果実の香りが入り混じって漂っている。平原を駆ける騎馬民族としての荒々しい活気と、豊かな国土がもたらす恩恵が、街の喧騒からひしひしと伝わってくる。
行き交う人々が笑顔で言葉を交わす中、ハズラの足取りはどこか重く、周囲の賑わいから切り離されたように沈み込んでいた。
彼の頭の中は、統星から下された「単独での乗馬」という難題で完全に占められていた。
戦場を俯瞰する観測者として、自らの意思で移動する機動力が必要なのは頭では理解している。だが、奴隷として泥に塗れて生きてきたハズラにとって、筋骨隆々とした軍馬は恐ろしい獣でしかなく、どうやって心を通わせ、どう扱えばいいのか見当もつかなかった。
誰かに教えを乞うにしても、適任者が思い浮かばない。
真っ先に顔が浮かんだのは、統星の幼馴染であり、豪快な武を誇る将である天狼だった。彼は騎乗の達人でもある。しかし、あの丸太のような腕を持つ彼に頼み込んだところで、「細かいことは気にするな、馬の息吹を感じて気合で乗れ!」と豪快に背中を叩かれて終わる光景が容易に想像できた。
天狼のような天性の感覚で動く武闘派の教えは、物事を理詰めで捉えようとするハズラには、到底理解できない言語のようなものだ。
誰か、もっと理路整然と、身体の動かし方から論理的に教えてくれる者はいないだろうか。
そう思い悩みながら大通りの喧騒を歩いていたハズラは、ふと、前方の歩調が不自然に乱れていることに気づいた。
ごった返す人混みの中で、まるでそこだけ見えない結界が張られているかのように、人々が避けて通る空間がある。
その中心に、ひときわ異質な空気を纏う影があった。
小柄で華奢な背中。首元に無造作に巻かれた長いマフラー。そして何より、その背丈に不釣り合いなほど長大な長刀を腰に差した姿。
非番の刹那だった。
彼女が放つ、人を寄せ付けない鋭利な刃物のような冷気が、周囲の民衆に無意識の畏怖を抱かせ、自然と彼女の周囲だけがぽっかりと空いているのだ。
刹那の後ろ姿を見た瞬間、ハズラの足がピタリと石畳に縫い付けられたように止まった。
先日の鉄雨の砦での出来事が、鮮明な映像となって脳裏をよぎる。閉ざされた城門の向こう側、檻に囚われた彼女の生存を確認するために魔眼を通した結果、彼女の勝手な勘違いから「女性である」という致命的な秘密を暴露され、意図せず聞いてしまったのだ。
暗い回廊の袋小路で「他言すれば斬る」と凄まじい殺気を向けられ、気まずすぎる沈黙を共有したばかりである。できれば今は、世界で一番顔を合わせたくない相手だった。
ハズラは思わず踵を返し、人混みに紛れて逃げ出そうとした。
しかし、彼は小さく首を横に振り、ぎゅっと拳を握りしめて己を奮い立たせた。
統星の期待に応えるためには、残された猶予はない。今度の遠征までに、なんとしても一人で馬を御せるようにならなければ、側近としての居場所を失うかもしれないのだ。背に腹は代えられない状況だった。
意を決したハズラは、大きく深呼吸をすると、人波を縫うようにしてその小柄な背中へと小走りで近づいた。
「あの、刹那さん」
背後から恐る恐る声をかけると、長いマフラーをふわりと揺らして刹那が振り返った。
前髪の隙間から覗く、色素の薄い氷色の瞳がハズラを捉える。その瞬間、彼女の陶器人形のように端正な顔に、あからさまな嫌悪と警戒の色が浮かんだのがはっきりと分かった。
秘密を共有してしまったことへの気まずさからか、あるいは休日の静寂を破られたことへの苛立ちからか、彼女の纏う空気が、肌を刺すような微かに刺々しいものへと変わる。
「……何だ、貴様か」
一切の温度を持たない、極寒の底から響くような低い声が、街の喧騒を切り裂いてハズラの鼓膜を打った。
足がすくみそうになるのを必死に堪え、ハズラは背筋を伸ばし、真っ直ぐに彼女の冷たい目を見つめ返した。
「突然すみません。実は、刹那さんに折り入って頼みがありまして。……僕に、馬の乗り方を教えていただけないでしょうか」
「は?」
刹那の細い眉が、ひどく不快げに寄せられた。
彼女は忌々しそうに短く息を吐き出すと、氷のような視線でハズラを頭の先から足の先まで一瞥した。
「無駄だ。他を当たれ。私は人に物を教えるような性分ではないし、貴様のような素人の遊びに付き合う暇もない」
すげなく切り捨て、マフラーを翻して再び背を向けようとする刹那に対し、ハズラは慌ててその背中に言葉を投げかけた。
「遊びではありません。統星様からの正式な命令なんです。戦場で僕が一人で動ける機動力を確保するために、どうしても必要で……」
「ならば天狼にでも頼め。あいつなら喜んで引き受けるだろう」
振り返りもせずに歩き去ろうとする刹那の背中へ、ハズラは必死に食い下がった。
「天狼さんだと、きっと『気合だ』と言われて終わってしまいます。僕は感覚で動くのが苦手なんです。刹那さんの戦い方は、極限まで無駄を削ぎ落とした合理的な動きだと聞いています。馬の操り方も、きっと論理的で理にかなっているはずです。だから、あなたから学びたいんです」
ハズラは息継ぎも忘れて、必死に理屈を並べ立てた。半分は心からの本音であり、もう半分は彼女の合理主義的な一面を刺激するための、藁にもすがる思いの説得でもあった。
その言葉を聞いて、刹那の足がピタリと止まった。
彼女はゆっくりと肩越しに振り返り、ハズラを睨みつけた。その瞳の奥で、苛立ちの炎と、先日彼女自身が暗い回廊で口にした「貴様の指示には可能な限り従う」という不本意な誓約の記憶が激しく交錯しているのが読み取れた。
女性であるという秘密を握られている事実が、彼女の無碍な拒絶を鈍らせているのだ。
数秒の張り詰めた沈黙が流れた後、やがて刹那は深くため息をつき、長いマフラーを苛立たしげに直した。
「……少しだけだ」
呆れ半分に、渋々といった様子で承諾の言葉を口にした彼女の横顔に、ハズラは崩れ落ちそうになるほどの安堵の息を長く吐き出した。
◇
城の広大な演習場には、乾燥した土の匂いと、馬たちの発する特有の獣の匂いが満ちていた。
ハズラは今、グラン・ヴァルディア王国の誇る軍馬である首なし馬の背に、一人で跨っていた。
これまでの行軍において、彼は常に兵士の背中にしがみついていたため、馬の背から見下ろす高さや、駆け足特有の激しい揺れ自体に対する恐怖心は抱いていなかったつもりだった。
しかし、いざ自らの手で分厚い革の手綱を握りしめ、自分一人でこの巨大な獣を動かすとなると、これまでの経験とは全く勝手が違った。
「わっ……!」
デュラハン・ホースがわずかに前へ歩みを進めただけで、ハズラの体は前後左右に大きく揺さぶられた。
誰の背中も支えにならない孤独感と、冷たい地面へと振り落とされまいとする生物的な本能から、彼の身体には無意識のうちに石のような強い力みが生じていた。
ガチガチに硬直した筋肉は馬の柔らかな動きを吸収できず、緊張に縛られた視線は、白くなるほど握りしめた手綱や、頭部の存在しない馬の不気味な首元ばかりを彷徨ってしまう。
首がないため、前方視界は完全に開けている。それがかえって、前に何の障害物もないまま空間へ放り出されそうな恐怖を煽っていた。
視線を下に落としたことで、ハズラの姿勢は丸く前かがみに縮こまっていた。その不自然な体勢は、馬が前へ進もうとする慣性の力と完全に喧嘩をしてしまっていた。馬が少し速度を上げて小走りになっただけで、ハズラは鞍の上で酷くバランスを崩し、今にも鐙から足が外れて転げ落ちそうになる。
演習場の脇では、非番の軽装のままの刹那が、腕を組んでその様子を静かに眺めていた。
首に巻いた長いマフラーを風に揺らす彼女の氷色の瞳は、ハズラの不器用で無様な動きを冷徹に分析していた。やがて、見かねたように彼女の薄い唇が開かれた。
「下を見るな。手元を見るから姿勢が崩れるんだ」
張り詰めた空気の中に響いたのは、感情を一切排した簡潔な指摘だった。極限まで無駄を削ぎ落とした合理主義者である彼女の教え方は、ハズラの陥っている悪循環の核心を的確に突いていた。
「馬の動きに力で逆らうな」
刹那は静かなトーンを崩さぬまま、もがくハズラに向けて明確な解決策を提示する。
「自分が行きたい『遠く』を見ろ。そうすれば自然と上体が起き、馬の進む力に体がついていく」
それは、恐怖と力みで視界が極端に狭まり、目先のことしか見えなくなっていたハズラにとって、物理的かつ合理的な真理を突く助言であった。
刹那の簡潔で理にかなった指摘は、ハズラの強張っていた意識に冷水のようにスッと染み込んでいった。
言われた通り、ハズラは汗ばんだ手で握りしめていた手綱から意識を意図的に外した。そして、首の存在しない異形の馬の背から、遮るもののない真っ直ぐな前方――演習場の遥か彼方、石造りの城壁の向こうに広がる澄んだ青空へと視線を上げる。
ずっと遠くの景色を捉えようとすると、自然と丸まっていた背筋がスッと伸び、胸を張る正しい姿勢へと導かれた。視界が開けたことで空間の広がりを正しく認識できるようになり、肩や太腿に入っていた無駄な力みが、ふっと空気中へと溶け出していくのを感じる。
ハズラが恐る恐る軽く踵で合図を送ると、デュラハン・ホースは力強い足取りで前へと進み始めた。
先ほどまでは、馬が動くたびに体が置いていかれるような感覚に陥り、ただ必死にしがみついているだけだった。しかし今は違う。遠くを見据えて上体を起こしているため、馬が前へと踏み出す推進力――その強烈な慣性に、自身の重心がピタリと同調していた。
まるで自分自身の下半身が馬の胴体と一体化したかのような、不思議な安定感。鞍の上で大きく揺さぶられることはもうなく、馬の筋肉の律動が心地よい波のリズムとなって体に伝わってくる。
次第に馬は速度を上げ、演習場の乾いた土を力強く蹴り立てて走り出した。
前方を遮る馬の頭部がないため、向かい風が直接ハズラの全身を叩く。しかしそれは先程までの恐怖ではなく、自らの意思で空間を切り裂いて進むという、これまでに味わったことのない解放感と高揚感をもたらしていた。
「風を、切っている……」
ハズラは耳元で唸る風の音に負けないよう、小さく呟いた。
ただ他人の背中に隠れて運ばれていた時とは違う。自分が主体となって機動力を御し、見たい景色へと駆け抜けていくという確かな実感が、奴隷だった彼を真の「観測者」へと近づけていく。
演習場の片隅では、青磁色の瞳を細め、長いマフラーを風に揺らす刹那が、その様子を静かに見守っていた。
彼女は、先ほどまでの不恰好で無様な姿から一転して、馬の動きに身を任せて颯爽と演習場を駆ける少年の姿を、無言で目で追っていた。
やがて、演習場を半周して戻ってきたハズラが、手綱を引いてゆっくりと馬の足を止めた。その額には汗が滲み、呼吸は少し弾んでいたが、表情には確かな手応えと、一つ壁を越えた充実感が浮かんでいる。
刹那は一つ小さくため息をつくと、感情の読めないいつもの顔に戻り、ぽつりと呟いた。
「……まあ、初日にしては悪くない」
それは、他人を褒めることなど滅多にない彼女にとって、最大限の譲歩とも言える言葉だった。そっけない響きの中には、ハズラの素直な吸収力と論理的な理解力の高さに対する、微かな感心が含まれている。
「ありがとうございます、刹那さん」
ハズラが馬の上から真っ直ぐに頭を下げると、刹那はフンと短く鼻を鳴らし、再びそっぽを向いてしまった。
最悪の形で秘密を共有してしまったことから生じた、二人の間の張り詰めた気まずさ。しかし、不器用ながらも合理的な指導と、それに応える素直な上達を通じ、この休日の演習場には、ただの主君の側近と一介の剣士という立場を超えた、戦友としての僅かな歩み寄りが確かに生まれていた。




