鉄雨の砦奪還作戦 07
鉄雨の砦、最上階。かつてはここをねぐらとしていた盗賊団の首領が座していたであろう司令室は、今は主を失い、グラン・ヴァルディア王国の若き王子、統星の仮の執務室として静まり返っていた。
豪奢な装飾が施された高い窓の向こうには、黄昏時が迫っていた。空は血が滲んだような赤紫色から、深い藍色へとゆっくりとグラデーションを描きながら沈みゆき、一日の終わりを告げている。
眼下に広がる広場へ視線を落とせば、あれほど激しく火花を散らした剣戟の音や、命を削り合うような怒号は嘘のように消え失せている。今はただ、武装を解除され、太い麻縄で数珠繋ぎにされた捕虜たちが、肩を落として整然と連行されていく様が小さく見えた。重たい足を引きずる彼らの姿の脇を、砦に備蓄されていた物資を運び出す荷車の車輪が、乾いた音を立てて通り過ぎていく。戦火の余韻が残る風に乗って、焦げた木材の匂いと、勝利に沸く兵士たちの微かな談笑が窓の隙間から忍び込んできた。
統星は、戦利品である無垢材の分厚い執務机に肘をつき、手元の一枚の羊皮紙と無言で向き合っていた。
それは、出陣に際して王都で渡された、父王の勅命書である。仰々しい王家の紋章が刻まれたその文書には、統星という指揮官に対する「待機」の命令が、有無を言わさぬ筆致で記されていた。
『被害を出さずに包囲し、敵が干上がるのを待て』
ご丁寧に、期限は三ヶ月とまで指定されている。いかなる時も正規兵の損耗を極端に嫌い、石橋を叩いてなお渡らない父王らしい、堅実にして退屈極まりない命令だった。
統星は鼻の奥で短く笑うと、その勅命書を机の端へと無造作に押しやった。そして、真っ白な新しい羊皮紙を自分の正面へと引き寄せ、インク壺に浸した羽根ペンを滑らせ始める。
彼がこれからしたためるのは、本国で待つ父王への戦勝報告書である。
だがそれは、単に敵を打ち破ったことを知らせるだけの無邪気な通知ではない。明白な命令違反である「待機命令を黙殺し、即日攻略を強行した」という揺るぎない事実を、王国の未来を見据えた最も正当で完璧な判断であったと書き換えるための、緻密にして氷のように冷ややかな論理武装の文書であった。
カリカリ、と硬質なペン先が羊皮紙の表面を引っ掻く音が、薄暗くなり始めた室内に心地よいリズムを刻む。
父王の計算式は、常に軍事的な損耗率という目に見える数字にのみ依存している。砦に力攻めを仕掛ければ、確実に兵が死ぬ。ならば周囲を完全に包囲して餓死するのを待てば、兵は一人も死なずに済む。ゆえに、それが絶対的な正解であると信じて疑わない。
だが、その計算には、国家という巨大な有機体を維持するための決定的な変数が欠落していた。
時間と経済という、目には見えないが確実に流れ出ている血の代償である。
この鉄雨の砦は、単なる石の塊ではない。王国の物流を支え、東西を結ぶ大動脈の結節点に位置しているのだ。ここが盗賊どもに塞がれたということは、王都へ向かうはずの豊かな食料、建築資材、そして富を運ぶ商人の往来という国家の血液の循環が、物理的に断ち切られたことを意味している。
もし、父の言う通りに三ヶ月もの間、包囲を続けたとすればどうなるか。
砦の中にいる寄せ集めの敵は間違いなく干上がるだろう。だが、それと同時に王都の市場もまた完全に干上がるのだ。物資の不足によって物価は天井知らずに高騰し、交易を絶たれた商人は次々と破産に追い込まれ、力なき民は飢えに苦しむことになる。たとえ軍の損害がゼロであったとしても、国全体が負う内出血のダメージは計り知れない。
統星はペンを止め、再びインク壺の縁で余分なインクを落としながら、静かに思考の海へと潜った。
父王に対して、あなたの判断は致命的に遅すぎると、面と向かって書き殴るわけにはいかない。それはただの反逆であり、感情的な子供の癇癪と見なされるだけだ。
いま彼に必要なのは、得られた最高の結果をもって、命令違反という過程を完全に正当化し、反論の余地を奪うためのレトリックであった。
統星は、薄暗い部屋の中で爛々と黄金色の瞳を輝かせながら、滑らかな筆致で文字を紡いでいく。
『勅命の通り、我々は敵を無力化し、かつ味方の損害を皆無に抑えることに成功した』
そこに嘘は一言も書かれていない。
死者はゼロ。怪我人すら、門を突破して雪崩れ込む際に、足をもつれさせて転んだ者が数名いる程度だ。父王が何よりも懸念し、至上命題として掲げていた「兵の損失を防ぐ」という条件は、これ以上ないほど完璧にクリアしている。
統星は口元に微かな笑みを浮かべ、さらにペンを走らせる。
『また、三ヶ月にも及ぶ長期の包囲がもたらすであろう物流の完全停止が、我が国の経済に与える甚大な損失を深く鑑み、これを未然に防ぐべく、早期解決こそが最善であると判断いたしました』
『よって、敵の防備にわずかな隙が生じた一瞬の好機を逃さず、電撃的な制圧作戦を敢行。結果として、砦の防衛機能を一切損なうことなく、即座に街道の安全と物流を回復せしめました』
統星は書き終えた文章の並びを目で追い、深く満足の息を吐き出した。
自分は決して命令に背いた反逆者などではない。むしろ、父王が憂慮していたであろう「国益の損失」という真の懸念事項を、王が想定した以上の圧倒的な速度と精度で回避してみせたのだ。そのようにしか読み取れないよう、見事に論点をすり替え、自らの行動を昇華させている。
そして文書の結びには、父王の言葉を完全に封じ込める決定的な証拠を書き添える。
『獲得したこの鉄雨の砦、および庫内に没収した莫大な物資の目録を同封いたします。これらはすべて無傷のまま保たれており、即座に我が王国の貴重な資産として運用可能であります』
完璧な手際だった。
一人の死者も出さず、要衝の砦は無傷で手に入り、国の大動脈である物流は即日復旧を遂げた。さらには予想を上回る莫大な戦利品までついてくる。
これだけの圧倒的な成果を眼前に突きつけられれば、いかに保守的で堅物な父王であっても、作戦の過程における命令違反を咎めることなどできるはずがない。結果という名の抗いがたい暴力で、上層部の不満を跡形もなくねじ伏せるのだ。
統星は満足げに深く頷くと、文末に流麗な署名を入れ、赤茶色の封蝋を火で炙って慎重に垂らした。
まだ柔らかい蝋の上から、グラン・ヴァルディア王家の紋章が入った重厚な印章を力強く押し付け、報告書を完成の形へと導く。
この羊皮紙の一枚が、彼自身の揺るぎない立場を守る強固な盾となり、同時に父王の古びた常識を根本から切り崩していくための鋭い矛となるはずだ。
「……さて」
統星は羽根ペンを机の上に置き、大きく息を吐いて背もたれに深く体を預けた。
窓の外は完全に日が落ち、夜の帳が降りた砦には、あちらこちらに暖かな篝火が焚かれ始めている。風に揺らめく炎を静かに見つめながら、彼は心地よい筋肉の疲労感と共に、自身の手で掴み取った完全な勝利の味を、ゆっくりと噛み締めていた。
◇
血生臭い戦闘の喧騒と、その後の戦後処理による慌ただしい足音の波が、ゆっくりと遠ざかっていく。
勝利の報告書を仕上げるべく執務室へと消えていった統星の背中を見送った後、ハズラは一人、砦の分厚い城壁が落とす深い影の中へと身を寄せていた。
乾いた冷たい夜風が、火照りきった頬を優しく撫でていく。
ハズラはゴツゴツとした石壁に背中を預け、ずりと重たい身体を重力に任せて滑らせるようにして、その場にへたり込んだ。
張り詰めていた極限の緊張の糸がふつりと切れ、泥のような重たく粘り気のある疲労感が、足先から頭のてっぺんまで全身を容赦なく襲う。ハズラを悩ませていたのは、魔眼の連続使用によって蓄積した、脳髄の奥で鈍く響く疲労感だった。
ぎゅっと固く閉じた瞼の裏には、いまだに色彩を失ったモノクロームの世界と、敵兵たちが放っていた無数の「魂の火」の赤橙色の残像が、チカチカと不快なノイズとなって焼き付いている。
魔眼の使用は、ただ見るという行為を超え、指先から脳髄へと抜ける独特の負荷を伴うものだった。今はただ、何も見たくなかった。何も考えず、この熱を帯びた不快感が少しでも引いてくれるのをじっと待ちたかった。
「……ふぅ」
肺の底に溜まっていた熱い空気を短く吐き出し、膝の間に顔を深く埋めようとした、まさにその時だった。
不意に、首筋の産毛が逆立つ感覚を覚えた。
肌を刺す風の温度が、明らかに変わったのだ。それは冬の夜の冷気とは全く異なる、もっと鋭利で、物理的な質量を伴った「殺気」に近い極低温の冷たさだった。それが、ハズラの無防備な首筋を這い上がるように撫で上げた。
「――ッ?」
ハズラがハッと息を呑み、顔を上げようとするよりも速く、音のない暗い影が背後に迫っていた。
誰かがこちらに歩いてくる足音など、微塵も聞こえなかった。砂を踏む音すらない。気配さえも異常なまでに希薄なその影は、まるで砦の闇そのものが凝固して人の形を成したかのように、唐突にそこに在った。
「来い」
耳元で囁かれたその声は、研ぎ澄まされた氷の刃のように冷え切っており、一切の感情の揺らぎが削ぎ落とされていた。
返事をする間も、体が反応して拒絶する隙さえも与えられなかった。
ハズラの細い腕が、鋼鉄の万力のような指によってギリリと無慈悲に掴み上げられた。
骨が軋み、思わず顔をしかめるほどの凄まじい握力。一切の抵抗など許さないという絶対的な意志が、その冷たい指先からビリビリと伝わってくる。
「あ、あの……!?」
ハズラが驚きに目を見開き、抗議の声を上げようとすると、掴まれた腕にさらに一段と力が込められ、無言の激しい圧力によって言葉を封じ込められた。
影の主――神速の剣士である刹那は、抗うハズラを半ば引きずるようにして、人目の全くつかない回廊のさらに奥深くへと無言のまま歩き出した。
その歩調は常人よりも遥かに速く、それでいて一切の乱れがない。すれ違おうとした数人の兵士たちも、刹那の全身から放たれる尋常ならざる危険な冷気に完全に気圧され、誰一人として声をかけるどころか、目を合わせることすらできずに道を空けていた。




