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魔族王子に拾われた奴隷少年、魔眼で戦場を支配し世界統一の軍師になる  作者: 久能のの


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鉄雨の砦奪還作戦 03

 死をもたらす豪雨が止んだ直後、戦場には一瞬の真空のような静寂が舞い降りていた。


 ほんの数秒前まで、空を埋め尽くす数千の矢が唸りを上げていたことが嘘のようだ。鼓膜を打ち叩いていた風切り音が唐突に途絶え、あとには乾いた風が吹き抜ける音だけが残されている。地面に伏せて身を守っていたグラン・ヴァルディア王国の兵士たちは、恐る恐る顔を上げ、眼前にそびえる巨大な絶壁を見上げた。


 誰もが、我が目を疑わずにはいられなかった。

 近づく者すべてを無慈悲に穿ち、かつては難攻不落と謳われた「鉄雨の砦」が、沈黙している。

 見上げれば、城壁の上からは先ほどまでの整然とした殺気が消え失せていた。代わりに聞こえてくるのは、悲鳴と怒号、そして内部で暴れまわる何かへの根源的な恐怖が伝播していくざわめきだけだ。


 その混乱の中心にあるのは、分厚く閉ざされた正門だった。

 かつては王国の要衝として鉄壁を誇り、今は卑劣な盗賊どもの巣窟と化した黒鉄の巨扉。それが今、内側から悲鳴のような金属音を上げて震えている。

 無数の太い繊維が無理やりねじ切られるような、悲鳴にも似た凄まじい軋み音が戦場に響き渡った。それは、巨大な閂が物理的に断ち切られた断末魔であった。本来ならば数人がかりで操作するはずの重厚なロック機構が、神速の斬撃によって一瞬のうちに寸断されたのだ。

 腹の底に響くような重低音が大気を震わせる中、錆びついた蝶番が軋みを上げ、砦の正門がゆっくりと左右へ開き始めた。

 まるで巨獣がそのあぎとを開くかのように、砦内部への道が無防備に晒されていく。門の隙間からは、侵入者の手によって混乱の坩堝と化した砦内部の光景と、もうもうと立ち込める土煙が漏れ出していた。


 本陣にてその光景を見守っていた統星は、馬上から冷静な眼差しで状況を見据えていた。


「……開いたか」


 短く呟いたその声には、安堵よりも確信が込められている。

 彼の黄金色の瞳が、鋭い光を帯びて細められた。

 刹那という名の劇薬が、見事にその役割を果たしたのだ。あの小柄な身体一つで矢の雨を突破し、最も堅牢な防壁を内側から食い破ってみせたのである。単なる剣技の冴えという言葉では片付けられない、理不尽なまでの個の力がそこにあった。


 矢の雨は止み、門は開かれた。

 我々を阻む障害物は、もはや物理的にも心理的にも排除されたと言っていい。


「好機だ」


 統星は右手を高く掲げ、張り詰めた声で全軍に号令を発した。その声はよく通り、戦場の隅々にまで王子の意思を浸透させていく。


「全軍、突撃ッ! 敵の喉元は開かれた! 雪崩れ込めェッ!!」


 その命令は、堰を切った濁流の合図となった。

 死の恐怖に釘付けにされ、地面に這いつくばるしかなかった兵士たちが、爆発的な勝鬨と共に立ち上がる。

 抑圧されていた感情が一気に解放され、怒涛のエネルギーとなって噴出したのだ。


「うおおおおおおおッ!!」


 重装歩兵部隊が盾を打ち鳴らし、地響きを立てて駆け出した。その足音は大地を揺らし、砦の守備兵たちに新たな恐怖を植え付ける。

 本来は門を破壊するために用意されていた破城槌はじょうつい部隊も、もはやその丸太を武器として担ぎ上げ、開かれた門へと殺到する。黒い波濤と化したグラン・ヴァルディアの軍勢は、一直線に砦へと吸い込まれていった。

 勝利への渇望と、鬱屈した恐怖からの解放が、彼らの足を極限まで加速させていた。誰一人として疑う者はいなかった。このまま門をくぐり、混乱する敵兵を蹂躙すれば、戦いは終わるのだと。


 だが、開かれた正門の向こう側で、事態は統星の描いた戦術図とは全く異なる軌道を描き始めていた。

 本来であれば、門を開いた先陣はその場で足を止め、後続の本隊を導き入れるための橋頭堡を確保するのが定石である。門を確保し、安全な侵入ルートを維持することこそが、先駆けの最も重要な任務だからだ。

 しかし、その先陣を務めた少年――刹那の足は、止まる気配を微塵も見せなかった。

 それどころか、彼は開け放たれた門扉を蹴りつけ、さらなる加速を得て砦の奥へと突き進んでいくではないか。


「――なっ?」


 統星の喉から、驚愕の声が漏れた。

 あの華奢な背中は、味方を待つことなど眼中にない。まるで獲物の臭いを嗅ぎつけた猟犬のように、あるいは手綱の切れた荒馬のように、混乱する敵兵の群れの中へと単独で突っ込んでいく。

 その姿はあまりにも無防備で、あまりにも傲慢だった。軍隊という組織の理を無視した、独断専行そのものである。


「おい、待て! 深追いするなッ!!」


 統星は声を張り上げ、独走するその背中に制止の言葉を浴びせた。

 軍としての連携を無視した突出は、自殺行為に等しい。いかに個人の武勇が優れていようとも、敵陣の只中で孤立すれば、四方八方から囲まれてすり潰されるのは時間の問題だ。どれほどの達人であろうと、背中は無防備なのだから。


 だが、その命令が刹那の耳に届いた様子はなかった。

 あるいは、聞こえていてなお、一顧だに値しないと切り捨てたのか。

 青磁色せいじいろの残光を纏った少年は、振り返ることさえしなかった。さらに速度を上げ、邪魔な敵兵をすれ違いざまに斬り捨てる。

 血飛沫をあげることすら置き去りにするほどの速度で、刹那は砦の中央広場へと吸い込まれるように姿を消していく。


「チッ、あの馬鹿が……!」


 統星が舌打ちをした、その直後だった。


 刹那が踏み込んだ広場の石畳が、わずかに沈み込んだ。

 ガコン、という不吉な音が、喧騒の底で微かに響く。

 それは、物理的なスイッチが作動した音だった。侵入者の超高速機動を逆手に取り、勢いを殺せずに特定のルートへ誘導された獲物を狩るための、砦の構造そのものを利用した凶悪な罠。


 ズンッ! という重たい音が、頭上から響いた。

 刹那が異変に気づき、頭上を仰ぎ見た時には、既に空は鉄の色に塗り潰されていた。

 城壁の上部に隠されていた巨大な構造物が、重力の枷を解かれ、自由落下を開始していたのだ。


 それは黒鉄の格子――巨大な「檻」だった。

 数トンもの質量を持つその鉄塊は、神速を誇る刹那であっても、回避不可能なタイミングと範囲で襲いかかった。空気を圧縮しながら落下するその風圧だけで、並の兵士なら押し潰されそうなほどの圧力が広場を支配する。


 耳をつんざく轟音と共に、檻が石畳へと突き刺さった。

 大地が揺れ、もうもうと舞い上がる土煙が視界を奪う。檻は広場の一角を完全に遮断し、その内側に一人の剣士を物理的に幽閉してしまった。


「しまっ……」


 檻の隙間から、刹那の短い呻きが漏れるのが聞こえた気がした。

 神速の脚も、鋼をも断つ剣技も、頭上から落ちてくる質量と、四方を塞ぐ物理的な壁の前には無力だった。突出した切っ先は、敵の周到な罠によって、無惨にもへし折られたのである。


 突如として牙を剥いた罠によって、先行した刹那が黒鉄の檻に囚われた、まさにその瞬間のことである。

 統星率いるグラン・ヴァルディアの本隊は、勝利への渇望をたぎらせ、開かれた城門へとあと数歩の距離にまで肉薄していた。

 先頭を走る重装歩兵たちの目には、すでに薄暗い砦内部の光景が映り込んでいた。敵の防衛線は崩壊し、あとは雪崩れ込むだけで終わる――誰もがそう確信し、勝利の美酒に酔いしれる準備を始めていた。

 目前には、土煙の中にそびえ立つ檻と、その中に囚われた味方の姿が見える。だが、兵士たちの意識は救出よりも制圧へと向いていた。このまま押し通れば、罠ごと敵を踏み潰せる。その勢いは誰にも止められないはずだった。


 だが、戦場の女神は気まぐれに、その天秤を逆側へと傾けた。


「――閉めるぞッ! 総員で押せェッ!!」


 門の向こう側から、切迫した、しかし力強い号令が響いた。

 それは、死に物狂いで生存を掴み取ろうとする者特有の、腹の底から絞り出された絶叫だった。彼らは刹那という脅威を檻に閉じ込めたことで、一瞬の隙を見出し、そこに全ての望みを賭けたのだ。

 先ほどまで死んだように静止していた巨大な鉄扉が、再び命を吹き込まれたかのように動き出した。

 錆びついた蝶番が悲鳴を上げ、左右の扉が内側へ向かって急速に閉じられていく。


「なっ……!?」


 先頭を走っていた兵士が、眼前の光景に息を呑み、足を止めた。

 開かれた喉元が、再び鋼鉄のあぎとによって塞がれようとしている。

 その閉鎖速度は、通常の開閉機構によるものではなかった。何十人もの兵士が、全体重をかけて押し込んでいる気配が、扉の向こう側から伝わってくる。生き残るために、外敵を遮断しようとする必死の抵抗が、重たい扉を動かしていた。


「急げッ! 滑り込め!!」


 部隊長が叫び、兵士たちが最後の加速を試みる。

 だが、その一歩が届くよりも早く、左右の扉は無情にも近づいていく。

 統星は、馬上からその光景を見つめ、ギリと奥歯を噛み締めた。

 間に合うか、否か。

 視線の先で、檻に閉じ込められた刹那が、長刀を構え直して無言のまま鉄格子を睨み据えているのが見えた。しかしその姿も、閉ざされゆく門の向こう側へと隠されていく。


 世界が、ゆっくりと閉じていく。

 勝利への入り口が、わずかな隙間を残して、今まさに消滅しようとしていた。

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