鉄雨の砦奪還作戦 02
街道の要衝を塞ぐようにそびえ立つ、巨大な石塊。「鉄雨の砦」。
常に砦側から吹き下ろす強風と、急激な高低差という地形的優位性が、防衛側の矢の射程と威力を極限まで高めている。その禍々しい異名が、決して伊達や酔狂で付けられたものではないという事実を、統星率いるグラン・ヴァルディア王国の先遣隊は、身を以て知ることとなった。
彼らの足が、砦の射程圏内を示す見えない境界線を踏み越えた、まさにその瞬間のことである。
乾いた風の音だけが支配していた荒野に、突如として数千もの弦が同時に引き絞られる、不吉な振動音が響き渡った。
兵士たちが反射的に空を見上げるよりも速く、砦の狭間という狭間から、一斉に轟音が弾ける。それは大気を震わせ、鼓膜を圧迫する死の旋律だった。
真っ青に晴れ渡っていた空が、瞬きする間に黒く染め上げられていく。
雲が太陽を覆ったわけではない。物理的な質量を持った膨大な数の矢が、太陽の光さえも遮断し、地上に濃い死の影を落としたのだ。
ヒョウ、ヒョウと風を切る鋭利な音が幾重にも重なり合い、やがてそれは滝のような轟音となって大地へと降り注いだ。乾いた地面に無数の矢が突き立つ音が、まるで激しい驟雨のように絶え間なく響き渡る。その密度は、雨粒の間を縫って歩くことが不可能であるのと同様に、生存の隙間などどこにも残されてはいなかった。
「……なるほど。『鉄雨』とはよく言ったものだ」
安全圏である本陣からその光景を見上げていた統星は、感心と呆れが入り混じった溜息を漏らした。
視界の先にあるのは、攻略すべき敵の防衛陣地などという生易しいものではない。近づくものすべてを無差別に穴だるまにし、命あるものを決して通さないという、暴力的な拒絶の壁そのものだった。
最前列で盾を構えていた重装歩兵たちも、あの異常な密度の弾幕を前にしては、足がすくむのを止められないようだった。いかに堅牢な鎧とて、継ぎ目を縫うように降り注ぐ鉄の雨に晒されれば、数秒と持たずに肉塊へと変わるだろう。ましてや、機動力を重視した軽装兵などが足を踏み入れれば、その瞬間に命は尽きる。
父王から下された勅命は「被害を出さずに」という絶対条件。
だが、正面から正攻法で挑めば、城門にたどり着く前に死体の山を築くことは火を見るよりも明らかだった。これでは包囲網を敷くどころか、砦に指一本触れることさえままならない。
「これほどの物量を、惜しげもなく垂れ流すとはな。……持久戦になれば向こうが干上がるのは間違いないが」
統星は冷ややかな目で戦況を分析し、唇を歪めた。
父王の目論見通り、包囲して三ヶ月も待てば、外部からの補給路を持たない盗賊団はいずれ矢尽き、飢えて降伏するだろう。だが、統星にそんな悠長な時間を浪費するつもりはない。世界統一という壮大な野望において、たかだか盗賊風情に足止めを食らい、季節一つを無為に過ごすなど許容できるはずもなかった。
この塞栓は、今すぐに取り除かねばならない。それも、兵を損なうことなく、劇的な速度で。
彼は視線を、自身の隣に控える異質な存在へと向けた。
内政の要である腹心、紫苑が、「貴方の抱える難題を解くための鍵だ」と言って寄越した一人の剣士、刹那。
統星の黄金色の瞳が、値踏みするようにその姿を上から下へと舐める。
どう好意的に見ても、攻城戦の矢面に立ち、泥と血に塗れて戦う武人には見えなかった。
年齢は十五、六といったところか。透き通るような白い肌に、少女と見紛うほどに整った中性的な顔立ち。細い首元には長いマフラーを無造作に巻き、荒野の風にたなびかせている様は、戦場よりも図書館の静寂や、深窓の屋敷が似合いそうなほどに儚げである。
風が吹けば折れてしまいそうなその華奢な体躯は、武骨な甲冑に身を包んだ周囲の兵士たちの中で、異様なほどに浮いていた。
だが、その華奢な背中には、常識外れな代物が佩かれている。
身の丈ほどもある、長大な「長刀」である。
鞘に収められてなお、その凶悪な重量感と冷徹な殺気は隠しようがない。小柄な刹那がそれを背負うと、まるで大人用の武具を子供が無理をして担いでいるような、滑稽なまでの不均衡さが際立っていた。
(紫苑の眼力は疑っていない。だが……)
統星は眉間の皺を深くした。
内政においては神がかり的な先読みを見せる紫苑だが、軍事に関しては専門家ではない。彼女の言う適材が、必ずしも戦場の過酷な現実に即しているとは限らないのだ。
このか細い少年が、あの空を埋め尽くす鉄の暴風雨の中で何ができるというのか。
統星の背後では、側近であるハズラもまた、不安げな視線を刹那に向けていた。
そこにいるのはあくまで華奢な少年でしかない。物理的な質量差という現実は無視できない。もし統星が命令を下せば、この少年は生きて帰れないのではないかという危惧が、ハズラの表情を曇らせていた。彼もまた、使い捨てられる駒の痛みを知る者として、無謀な死を強いることには抵抗があるのだろう。
統星は半信半疑のまま、努めて冷静な声をかけた。
「……紫苑に言われて連れてきたが」
統星の声には、隠しきれない疑念の色が滲んでいた。
彼は顎で、今なお轟音を立てて降り注ぐ矢の雨を指し示した。
「見ろ。あそこは死地だ。蟻一匹通さぬ鉄の雨だぞ」
刹那は、統星の言葉など聞こえていないかのように、ただ虚空を見つめている。
その前髪の隙間から覗く氷色の瞳には、恐怖も、緊張も、生者らしい感情のさざなみ一つ浮かんでいない。
まるで、目の前の危機が自分とは無関係な絵画であるかのような、徹底した無関心。自分を取り巻く世界そのものに興味がないかのような、冷たい虚無がそこにはあった。
統星は苛立ちを抑え込みながら、核心を問うた。
「お前に何ができる? あの雨の中へ飛び込んで、ハリネズミになって死ぬこと以外に」
それは指揮官としての、冷酷な問いかけだった。
もしここで「無理だ」と答えるなら、即座に後方へ下げ、自分自身で別の策を練るつもりだった。無駄死にはさせないが、役に立たない駒を戦場という盤面に置く趣味もない。
刹那は、ゆっくりと統星の方へ顔を向けた。
だが、言葉は返さなかった。
肯定も、否定もせず。ただ、薄い唇の端をわずかに吊り上げ、氷のように冷たく、不敵な笑みを浮かべただけだった。
それは、常識に囚われた者の蒙昧を嘲笑うような、静かで鋭利な拒絶の笑みだった。
「…………」
刹那は、まるでこれ以上の問答は無意味だと言わんばかりに、ふいと統星から視線を外した。
そして、眼前に広がる死の豪雨――数千の矢が降り注ぐ絶望的な死の領域へと、散歩でもするかのように無造作に足を踏み出した。
「おい、待て!」
統星が制止の声を上げるよりも速く、刹那の左手は背に回され、親指が長刀の鍔を弾いた。
カチリ、と小さく、しかし澄んだ音が、戦場の轟音を切り裂いて響く。
鯉口が切られたその瞬間、華奢な少年の身体から、それまでの静寂が嘘のような爆発的な殺気が噴き上がった。
刹那の上体が、地面と水平になるほど深く沈み込む。
それは、鋼鉄のバネのように縮められた全身の筋肉が、解き放たれる寸前の極限の予備動作だった。
「――ッ!?」
統星が息を呑み、傍らのハズラが目を見開いた次の瞬間。
少年の姿が陽炎のように揺らぎ、世界から掻き消えた。
ドォン!という破裂音が遅れて響く。
彼が蹴った地面が陥没し、土塊が爆散する衝撃音だった。生物としての限界速度を遥かに超えた加速。人の目が捉えられる領域を置き去りにしたその疾走は、もはや移動と呼べるものではなかった。
質量を持った砲弾そのものと化した刹那は、一直線に迫り来る鉄のカーテンへと、迷うことなく激突した。
大気を切り裂く鋭い唸りを上げて、無数の矢が侵入者へ殺到する。
物理的に回避不可能な密度の弾幕。いかに速く動こうとも、空間そのものが矢で埋め尽くされている以上、逃げ場などどこにもないはずだった。針の山へ生身で飛び込むに等しい自殺行為。
だが、刹那は避けなかった。
一瞬のうちに数千回重なり合ったような、『ギギギギン』という硬質な金属音と異常な高音が、戦場に鳴り響いた。
統星は、我が目を疑った。
刹那が走るその進行方向において、飛来する矢が次々と空中で爆ぜ、弾け飛んでいたのだ。
避けているのではない。盾で弾いているのでもない。叩き落としているのでもない。
全て、斬っているのだ。
神速の居合い。
刹那が長刀を抜き放ち、振るい、そして納刀するまでの一連の動作は、あまりにも速すぎて視認することすら叶わない。
彼の周囲に青磁色の残光が幾重にも奔り、それが球状の防護壁のような機能をもつ。
刹那をすっぽりと包み込む範囲の空間だけ、まるで透明なトンネルが開いたかのように、矢の雨が無効化されていく。
鉄の鏃も、堅牢な矢柄も、神速の刃の前では枯れ枝のように等しく両断され、無力な木片となって虚しく宙を舞った。
「馬鹿な……」
統星は呻くように漏らした。
それは剣技と呼ぶにはあまりに常軌を逸していた。飛来する雨粒をすべて斬り払いながら走るに等しい、神業を超えた狂気。
銀色の軌跡と、青白い閃光が、死の雨を切り裂いて一直線の道を切り拓いていく。その姿は、戦場に咲いた一輪の氷の華のように美しい。
降り注ぐ矢の雨をすべて斬り落とし、物理法則をあざ笑うかのような加速を見せた刹那は、減速することなく砦の基部へと肉薄した。
目前にそびえ立つのは、侵入者を拒絶する高く垂直な石造りの城壁である。
常人であれば、梯子や鉤縄を用いなければ決して越えられぬ断絶。だが、神速の領域にある彼にとって、それは単なる走路の続きに過ぎなかった。
刹那は、踏み込んだ勢いを殺さず、重力の枷を振り切るように垂直の壁面を駆け上がった。
一歩、二歩、三歩。
石積みのわずかな凹凸を足場とし、垂直に空へと登るその姿は、重さを持たない影か、あるいは重力圏を離脱する矢そのもののようだった。
城壁の上に並ぶ敵兵たちが、眼下から迫り来る「死」に気づき、悲鳴のような声を上げる。
だが、彼らが弓を捨てて剣を抜こうとするよりも早く、刹那の姿は陽炎のように揺らめき、城壁の縁を軽々と飛び越えていた。
「――ッ!?」
敵兵の驚愕の息が漏れた直後、青白い剣閃が一閃。
刹那の姿は、そのまま砦の内部、敵陣の只中へと吸い込まれるように消えた。
その瞬間だった。
先ほどまで、滝のような轟音を立てて降り注いでいた「鉄雨」が、嘘のように止んだ。
ヒョウ、という風切り音も、地面を穿つ打撃音も、すべてが唐突に途絶えたのだ。
空を覆っていた黒い矢の群れが消え、戦場に不自然な静寂が舞い降りる。まるで、空の見えない蛇口が乱暴に閉められたかのような、あまりに急激な断絶だった。
代わって聞こえてきたのは、石壁の向こう側から漏れ出す、混乱と阿鼻叫喚の響きだった。
「な、なんだコイツは!?」
「速すぎる! 見えな……ギャアアアッ!」
「撃てない! 味方に当たる! 囲め、囲んで押し潰せェッ!!」
怒号。悲鳴。そして、肉と骨が切断される、湿った音。
砦の守備兵たちの意識は、突如として懐に入り込んだ異物に釘付けとなり、外への攻撃など放棄せざるを得なくなったのだ。
内側から響く騒乱は、たった一人の侵入者が、数百の軍勢を相手に一方的な蹂躙を行っている事実を雄弁に物語っていた。
本陣にて、その劇的な変化を見届けていた統星は、静まり返った空を見上げ、ほう、と短く息を吐いた。
「……なるほどな」
統星の黄金色の瞳が、騒乱の続く砦の方角を冷ややかに見据える。
あの小柄な身体のどこに、これほどの力が秘められていたのか。
矢の雨を正面から突破し、城壁を駆け上がり、敵の喉元に食らいつく。それはもはや、剣術や武勇といった言葉で語れる次元ではない。
戦術兵器。
あるいは、人の形をした災害。
統星は、紫苑があの少年を推挙した理由を、ここに至って完全に理解した。
彼女の眼は正しかったのだ。この異能の剣士は、使いこなせさえすれば、どんな堅牢な城壁も紙屑に変える最強の矛となる。
「化け物か」
統星は呟き、その口元に微かな笑みを浮かべた。
砦の中からは、依然として敵兵の絶叫が絶え間なく響いている。だが、外にいる統星たちの頭上に降る矢は、もう一本もなかった。
これが、彼が求めていた力だ。
統星は手綱を握り直し、未だ呆気にとられている全軍に向かって、力強い号令を放った。
「雨は止んだ! 全軍、突撃ッ!!」
その声と共に、グラン・ヴァルディアの軍勢が、堰を切ったように砦へと雪崩れ込んでいく。
勝利への道は、たった一人の少年の剣によって、鮮やかに切り拓かれたのだった。




