霧の谷の要塞攻略戦 09
統星はハズラの目を全面的に信頼し、暗闇の中でも足音一つ立てずに追随していた。王族とは思えぬほど洗練された足運びは、彼自身がただ神輿に乗っているだけの飾り物ではないことを証明している。その息遣いは驚くほど静かで、すぐ後ろにいるはずなのに気配すら希薄だった。
本来、こうした閉所での遭遇戦は、いくら腕に覚えがあろうとも神経を使うものだ。角を曲がった瞬間に槍が突き出されるかもしれないし、頭上から網が降ってくるかもしれない。視界の効かない闇の中では、一瞬の判断の遅れが死に直結する。
ハズラが保証できるのは、あくまで「霧の中で遭遇し、マーキングした敵」の位置だけだ。元々この砦に駐屯していた「マーキングしていない敵」の不確定要素までは排除できない。
だが、壁の向こうに見えるマーキングされた兵士たちは、全員が外の陽動に気を取られ、無防備な背中を晒している。
これは、敵がこの抜け道の存在に――自分たちの足元へ通じる侵入ルートが露見している事実に、露ほども気づいていない証拠だ。
不意打ちが成立するこの状況下において、過度な警戒はむしろ足枷となる。最善の安全策とは、敵がこちらの存在を認識するよりも早く、一方的にその命を摘み取ることである。
「……敵の反応に、こちらを向くものはありません。全員、外の陽動に気を取られています」
ハズラは、壁を透かして見える敵兵たちの様子を淡々と告げ、歩を進める。
脳への負荷が、鈍い痛みとなってこめかみを締め付ける。他者の殺気や恐怖といった強い感情を視ることは、ヘドロの中に手を入れるような生理的な嫌悪感を伴う。視界の端がちらつき、油のような不快な汗が背筋を伝う。
だが、彼はその痛みを表情には出さなかった。
かつて、ただ怯えてうずくまっていただけの自分ではない。今は、背後に守るべき主君がいる。その事実が、少年の細い足を前へと進ませていた。
「……階段があります。ここを登れば、中庭に出ます」
ハズラが足を止めた。
透視した視界の先、数段の石段を上がったところに、薄い木の扉の輪郭が見える。
そしてその扉のすぐ向こう側には、複数の赤い光が密集していた。光の強さと大きさから、武装した兵士であることがわかる。
ハズラは振り返り、闇の中にいる主君の気配に向けて、極限まで声を潜めて報告した。
「……出口です。扉のすぐ外、木箱の裏に一人。その奥の建物の陰にもう一人、うずくまっている者がいます」
その報告は、正確無比な王手への布石だった。
ハズラの言葉を受け、統星が短く、鋭く息を吸う気配がした。
そして、背後で控えていた暴力の化身が、音もなく前に出る気配が重なる。
暗闇の回廊を抜けた先。そこはもう、敵の喉元だった。
湿った岩壁の狭い坑道を抜けると、微かな光と共に、外気とは異なる澱んだ空気が流れ込んできた。
そこは、砦の中庭の隅に位置する資材置き場の裏手だった。
城壁の向こう側――正門付近からは、未だに炸裂音と、何百もの兵士が上げる喚声が響き渡っている。
その轟音が、この裏手の静寂を逆説的に際立たせていた。砦中の人間が、まるで磁石に吸い寄せられる砂鉄のように、表の騒ぎへと意識を奪われている。
ハズラが音もなく足を止め、闇の中からその赤黒く充血した瞳を細めた。
彼の視界には、積み上げられた木材や壁が透け、その向こう側に潜む敵の熱源がありありと浮かび上がっている。木箱の向こうでへたり込み、荒い息を整えている兵士の足の動きまでが、透き通った障害物越しに手に取るようにわかった。
指で彼は位置を示した。
「……あそこです。間違いありません、谷底から逃げてきた兵士です」
マーキングした敵の位置は完璧に頭に入っている。
本来ならば、物陰から顔を出して確認しなければならない場面だ。だが、ハズラの目がある今、それは確定された未来の出来事として対処できる。
統星は短く頷くと、傍らに控える巨躯の男へ視線を流した。
長々とした作戦指示など、この男には必要ない。ただ、引き金を引くための短い合図があれば、それで十分だった。
「――やれ」
「あいよ」
天狼が、獰猛な笑みを浮かべて低く唸る。
彼は背負っていた巨大な鉄塊――大剣が音を立てぬよう、指先で器用に留め具を押さえながら、猫科の猛獣のようなしなやかさで前に出た。
岩のようにゴツゴツとした筋肉の塊である彼が、泥の上を滑るように音もなく疾走する。
足音はおろか、装備が擦れる音ひとつ立てていない。 足裏が地面を捉える感触すら消し去り、泥を跳ね上げることもなく、凄まじい速度で距離を詰めていく。
天狼は坑道の出口から身を躍らせると、ハズラが示した木箱の裏へと一瞬で肉薄した。
そこにいた兵士は、恐怖から逃れるように膝をつき、正門の方角から響く爆発音に怯えて耳を塞いでいた。背後の闇から忍び寄る死神の気配になど、気づけるはずもなかった。
彼がふと何かの気配を感じて振り返ろうとした、その刹那。
「……んぐッ!?」
鋼鉄のような掌が、見張り兵の口と鼻を背後から鷲掴みにした。
悲鳴を上げる隙などない。
天狼はそのまま無造作に腕力を込め、強引に兵士の意識を刈り取った。首をへし折るような野蛮な真似はしない。ただ、頚動脈を一瞬で圧迫し、脳への血流を遮断したのだ。
ガクン、と兵士の体が糸の切れた人形のように崩れ落ちる。天狼は倒れる体が音を立てぬよう、優しく支えて地面に転がした。その手際はおぞましいほどに洗練されていた。
(一匹)
心の中で数を数えながら、天狼の動きは止まらない。
彼はそのまま流れるような動作で、次の獲物――建物の陰に控えるもう一人の兵へと向かう。
建物の陰にいた兵士は、全力疾走で乾ききった喉を潤そうと、腰の水筒に口をつけている最中だった。
震える手で水を呷る彼にとって、脅威は城壁の外にあるはずだった。
自分の背後、わずか数歩の距離に、暴力の化身が立っていることなど想像もしていない。
天狼はその無防備な背中に、音もなく歩み寄った。
そして、太い腕を振り上げる。
ずん、と鈍い、しかし重たい音が微かに響いた。
首筋に的確な手刀を受けた兵士は、声を発することもなく白目を剥き、その場に崩れ落ちた。手から滑り落ちた水筒から水がこぼれるのを見て、天狼はつまらなそうに鼻を鳴らした。
「……戦場の真ん中で休憩たぁ、余裕なこったな」
天狼は気絶した兵士を足先で転がし、邪魔にならないよう壁際に寄せると、振り返ってニヤリと笑ってみせた。
親指を立てるその仕草は、あまりにも軽快で、ここが敵陣の真っ只中であることを忘れさせるほどだった。
彼が纏う空気は、戦場のそれではない。まるで庭の掃除でも終えたかのような、気軽さが漂っている。だが、その足元に転がる二つの身体は、彼が振るった力の正確さと冷酷さを物語っていた。
「……行けます」
ハズラが安堵の息を吐き、統星を促す。
誰一人として悲鳴を上げることなく、警報も鳴らされることなく。
侵入ルート上の障害は、完璧に排除された。
統星は満足げに頷くと、悠然とした足取りで、確保された中庭へと足を踏み出した。
その視線の先には、この砦の中枢――敵指揮官が籠る司令室の扉が、無防備な背中を晒して待っていた。
外の喧騒は未だ止まない。だが、この戦争の結末は、既に決しようとしていた。




