霧の谷の要塞攻略戦 08
霧の谷の最奥部、巨大な砦の正門前。
先ほどまで死のような静寂に包まれていたその場所は、瞬く間に熱狂と轟音の坩堝へと変貌していた。
谷底特有の重く湿った空気を震わせ、数百の喉から絞り出された咆哮が響き渡る。それは軍隊による整然とした鬨の声というよりは、飢えた獣の群れが獲物に食らいつく際の、もっと原初的で野蛮な叫びに近かった。
「突撃ィィッ! 門を破れェェェッ!!」
部隊長が裂帛の気合いと共に剣を突き上げる。その額には玉のような汗が噴き出し、こめかみの血管が切れんばかりに浮き上がっていた。
彼の絶叫を合図に、前衛の重装歩兵たちが一斉に動き出す。彼らは剣の柄や戦槌を振りかざすと、自身の構える大盾を激しく打ち鳴らし始めた。
ごん、ごん、ががん、と鉄と鉄がぶつかり合う、耳障りで硬質な打撃音が不規則なリズムで谷底に満ちていく。
それが数百人分重なり合い、反響することで、あたかも巨大な金槌で谷の岩盤を直接叩いているかのような、暴力的な振動となって砦の石壁を揺さぶった。腹の底に響くその重低音は、人間の恐怖心を直接煽る、戦の鼓動そのものであった。
「魔導部隊、放てッ! 休むな、派手にぶちかませ!!」
後方に控えていた魔導師兵が、指揮官の号令に合わせて杖を掲げる。
彼らが練り上げる術式は、本来の攻城戦で用いられるような、城壁を穿つための収束魔術ではない。統星からの厳命により、砦そのものを傷つけることは固く禁じられているからだ。
ゆえに彼らが選んだのは、殺傷力よりも視覚的な威圧感と、破壊音の大きさに特化した術式であった。
大気がぶれ、紅蓮の火球や雷光が放たれる。
それらは城壁の表面で弾け、鼓膜をつんざくような炸裂音を撒き散らす。石壁を焦がしこそすれ、崩すほどの威力はない。だが、爆発によって巻き上げられた土煙と黒煙が、視界を塞ぐほどの分厚い幕となって砦を包み込んだ。火薬と土の焦げる匂いが、谷間の湿気と混じり合い、鼻をつく刺激臭となって充満する。
「怯むな! 殿下が見ているぞッ! この門をこじ開けろ!」
「ウオオオオオオオッ!!」
兵士たちの目は血走り、口角からは泡が飛ぶ。
一見すれば、死を恐れぬ決死の突撃に見えるだろう。だが、その熱狂の裏で、彼らは冷静に計算された演技を遂行していた。
派手に動き、派手に叫び、土煙を上げて地面を蹴る。しかし、決して敵の弓の有効射程内には深く踏み込まない。
城壁の高さから算出される弓の最大射程。そのギリギリの縁で、あたかも今すぐにでも正門へ殺到するかのような、狂気じみた殺気を演出していたのだ。
この陽動の効果は、劇的だった。
城壁の上、狭間から眼下を見下ろす敵兵たちは、この突然の猛攻に度肝を抜かれ、完全に意識を正面へと釘付けにされていた。
霧の中で姿の見えない死神に一方的に狩られる恐怖。その記憶がまだ新しい彼らにとって、目の前に現れた「見える敵」は、恐怖の対象であると同時に、ある種の安堵をもたらす標的でもあった。
見えない幽霊よりも、見える軍隊の方が御しやすい。そう錯覚したのだ。
「来たぞ! 奴ら、痺れを切らして特攻してきやがった!」
「爆撃だ! 煙幕に紛れて城壁に張り付かれるぞ、矢を放て! 近づけるなッ!!」
砦の守備兵たちは、半ばパニックに近い状態で弓を引き絞り、眼下の煙幕の中へと矢を乱射する。
恐怖の裏返しである過剰な攻撃性。そして、自分たちの最大の防御である「鉄の正門」への信頼。それらが彼らの目を曇らせ、視野を極端に狭窄させていく。
「馬鹿め、焦りおったな! 霧が晴れたからといって、力押しでこの門が破れるものか!」
敵の指揮官の一人が、城壁の上から唾を飛ばして叫ぶ声が、風に乗って微かに聞こえた。
その叫びには、自分たちが安全な場所にいるという慢心と、敵の愚策を嘲笑う優越感が滲んでいた。
「総員、正門の防衛に回れ! ここを突破されたら終わりだぞ! 一人たりとも通すな!」
砦中の兵士が、怒号と共に正門側の通路へと殺到する気配が漂う。
裏口の警備も、見張りの交代要員も、全てが正面の脅威に対処するために引き抜かれていく。甲冑が擦れる音、慌ただしい足音、命令を叫ぶ声。それらが渦となって正門へ向かっていく。
空気が震えるほどの爆発音が響くたび、彼らの視線はさらに強く前方へと吸い寄せられる。
その轟音と黒煙が、砦の裏手で進行している「静かなる侵入」の足音を、完璧にかき消しているとも知らずに。
◇
外では、グラン・ヴァルディア軍本隊による陽動が最高潮に達していた。
地面を揺るがす魔術の着弾音、数百の兵が盾を打ち鳴らす轟音。それらが混然一体となり、遠雷のように谷底へ響き渡っている。
だが、ハズラたちが足を踏み入れたその場所――岩壁の裂け目に隠された狭い坑道の中は、墓所のような静寂と冷気に満たされていた。
光の一切届かない、絶対的な闇。
外界の喧騒は分厚い岩盤に阻まれ、遠くくぐもった重低音となって伝わってくるのみだ。その代わりに支配的なのは、じめじめとした湿気が肌にまとわりつく感覚と、長い年月をかけて蓄積したカビと土の腐臭だった。
常人であれば、己の手先すら見えず、一歩踏み出すことさえ躊躇われるような濃密な暗黒である。足元は悪い。ぬかるんだ土や、天井から崩落した鋭利な瓦礫が散乱しており、不用意に進めば音を立てて転倒するのは必至だった。
だが、先頭を行くハズラに迷いはなかった。
「……こちらです」
少年の囁くような声が、闇に溶ける。
ハズラの両目は、闇の中で異様な赤黒い光を帯びていた。血管が浮き上がり、瞳孔が収縮する生理的な不快感と共に、魔眼が常時発動している。ずきずきと脈打つ鈍痛が眼球の奥から脳へと広がるが、彼はそれを無視して意識を集中させていた。
彼の脳内には、物理的な視界とはかけ離れた光景が広がっている。
ハズラの網膜に映し出されているのは、色彩が剥ぎ取られた静寂の世界だった。鬱陶しく肌にまとわりつく湿気や、足元のぬかるみは触覚として存在するものの、視覚情報としては意味をなさない。
本来ならば行く手を阻むはずの分厚い岩盤や土壁は、水晶のように半透明に透き通り、その輪郭だけを青白く亡霊のように浮かび上がらせている。
遮蔽物が透明化したその虚ろな視界の中において、ただ一つ、鮮烈な色彩を放つものがあった。
赤く、あるいは橙色に揺らめく「魂の火」である。
ハズラはここへ至る道中、敗走した敵が放り出した剣や兜の一つ一つに触れ、そこに残る残留思念を執拗に読み取り、逃げた兵士たちの波長を片っ端から自身の網膜に焼き付けてきていたのだ。
壁の向こう側、天井の上、そして遥か奥の部屋。
先ほどの戦闘でマーキングした逃げ込んだ兵たちの気配だけが、ランタンのように闇の中に浮かび上がり、彼らの位置を雄弁に物語っていた。 その光は、読み取った武器に残されていた殺意の波長と合致するものだ。赤や橙色に揺らめく特定の魂の火が、暗闇の中で肉体の輪郭を照らし出し、その挙動をありありと伝えてくる。
「……この先、少し行ったところで右へ曲がります。その角の向こう側、壁一枚隔てたところに、逃げ込んだ兵が二人、足を止めています。……外の音に気を取られて背中を向けているので、音さえ立てなければ気づかれません」
彼の報告は確信に満ちていた。敵がいるという事実そのものが、そこが「人が通れる空間」であることの証明となっていたからだ。
壁の向こうに敵の光が見えるなら、そこには部屋がある。光が列をなして移動しているなら、そこには廊下がある。敵の配置そのものが、ハズラにとっては砦の構造を浮き彫りにする道標となっていた。




