霧の谷の要塞攻略戦 07
ハズラの指差す先にあるのは、長年の風雪に耐え、苔と蔦に覆われた険しい岩壁だった。
どこをどう見ても、ただの自然の造形物であり、人が立ち入る隙間など針の穴ほども見当たらない。数百年、あるいは数千年の時を経て形成された大地の皺は、何人たりとも受け入れぬと無言で拒絶しているようだった。
隣に立つ天狼が、怪訝そうに眉をひそめてその岩肌を睨みつけた。
「あァ? 壁の中だ?」
天狼はハズラの顔と、指差された岩壁を交互に見比べる。
彼の卓越した動体視力と、数多の死線をくぐり抜けてきた野性の勘をもってしても、そこには硬く閉ざされた岩盤があるだけだ。風に揺れる蔦の葉擦れすらなく、ただ静寂が張り付いている。
「おいおい荷物持ち、目が疲れてんじゃねえか? どう見てもただの崖だぞ。あんな壁に向かって走っていく馬鹿がどこにいる」
天狼の嘲笑混じりの指摘はもっともだった。
周囲の兵士たちも、同様の戸惑いを顔に浮かべている。物理的な視界においては、そこは行き止まりですらない、単なる断絶された壁でしかないのだ。奴隷上がりの少年が、極度の緊張で幻覚を見たのではないか――そんな疑念の空気が漂う。
だが、ハズラは首を横に振った。
彼の魔眼が見ている事実は、物理法則を超えた現象を捉えていた。右目の奥が焼けつくように痛み、脳髄をヤスリで削られるような不快な雑音が響いているが、その対価として得られる情報は絶対だ。
「……いいえ、見間違いではありません」
ハズラは、網膜に焼き付いている光の軌跡をなぞるように、淡々とその光景を言葉にする。震えそうになる声を、事実への確信で必死に繋ぎ止める。
「先ほどの攻撃を受けてパニックになった兵士たちが、仲間とはぐれて、あそこへ逃げ込みました。……そして」
ハズラは一度言葉を切り、常識では信じがたい事実を口にした。
「その光は、岩壁にぶつかることなく……壁を通り抜けて、砦の内側へと吸い込まれていきました」
ハズラの目には、その奇妙な光景がありありと映っていた。
本来なら遮蔽物となるはずの分厚い岩盤を、透視された人影はそのまま通り抜け、砦の内部で本隊と合流した。
「なるほど。そういうことか」
部隊長や兵士たちが、ハズラの報告した非現実的な現象――人間が岩壁をすり抜けたという事象に困惑し、ざわめく中、統星だけはその正体を瞬時に看破していた。
彼は愉快そうに口の端を吊り上げ、誰もいないはずの岩肌を見据えた。
「壁を通り抜けたのではない。最初からそこには壁などなかったのだ」
統星は確信に満ちた声で断言すると、ハズラが示した何もない岩肌を、まるで獲物の急所であるかのように睨み据えた。
「人が岩に溶けるわけがない。魔法で岩を変質させた痕跡もない。ならば、答えは一つだ。そこには壁に見せかけた何かがある」
統星の脳内で、敵の行動原理と戦場の地形が、パズルのピースのようにカチリと嵌まっていく。
堅牢すぎる正門、消極的な迎撃、そして不自然な位置にある光の痕跡。
「……高度な隠蔽工作、あるいは視覚的な錯覚を利用したトリックか。自然の岩肌と見分けがつかないように塗装した布を張っているか、あるいは特定の角度から見ると壁に見えるような岩の配置になっているのだろう。いずれにせよ、そこは砦内部へと通じる隠し扉になっている」
統星は、その隠された入り口が無防備に口を開けている様を幻視し、喉を鳴らした。
魔法という超常の力に頼るのではなく、人の目の盲点と心理を突いた、極めて原始的だが効果的な罠。それがいかにも、自然と共に生き、地形を知り尽くした森の民らしい手口だったからだ。
「自分たちは敗残兵を追ってここまで来た。だが、そのときには既に門は閉まっていた。あれだけの巨大な門だ、本来閉まるのには時間がかかるはず。つまり、逃げ遅れた兵のいくらかは門の中に入れず、外に取り残されたはずだ。……奴らが消えたあの岩壁が、兵が中に入るための抜け道なのだろう」
統星は、退屈そうに大剣の柄を叩いていた巨躯の男を振り返った。
「正門を閉ざして安心しきっているようだが、とんだ茶番だ。自ら退路を断ち、唯一の抜け道すらも我々に暴かれたとも知らずにな」
敵はあのルートの隠蔽性に絶対の自信を持っている。だからこそ、監視の兵すら置いていないのだ。見つかるはずがないという慢心こそが、最大の隙となる。
「出番だぞ、天狼。……お前の好きな近接戦闘の時間だ」
その言葉を聞いた瞬間、天狼の表情から退屈の色が消え失せた。
代わりに浮かんだのは、獲物を前にした猛獣のような、獰猛で好戦的な喜色だった。
「へっ、ようやくかよ」
天狼は嬉しそうに首をポキリと鳴らし、背負っていた巨大な鉄塊を軽々と担ぎ直した。その金色の瞳が、ギラリと輝く。
「待ちくたびれたぜ。……で、誰からぶっ飛ばせばいい?」
「部隊長」
名を呼ばれた部隊長は、畏怖と緊張で背筋を正し、直立不動の姿勢を取る。
「はっ」
「本隊はこのまま正門前で待機せよ。大仰に陣形を組み、今にも攻城兵器が到着するかのように振る舞え。銅鑼を鳴らし、鬨の声を上げろ。敵の目を正面に釘付けにするんだ」
統星の指示は明確だった。
この数百の兵は、あくまで敵の意識を縛るための囮だ。敵が正門の防衛に気を取られている間に、別動隊が脇腹から食い破る。典型的な、しかし最も効果的な陽動戦術である。
「は……承知いたしました。しかし、突入部隊はいかがなさいますか? 狭い通路では大軍は動かせません。精鋭を選抜して……」
「その必要はない」
統星は部隊長の進言を手で制し、自身の両脇を固める二人――暴力の化身たる巨漢と、異能の目を持つ少年を一瞥した。
「私と、天狼、ハズラの三人で行く」
その言葉に、部隊長が仰天して声を詰まらせる。
総大将自らが、わずかな手勢だけで敵陣の真っ只中に飛び込むなど、正気の沙汰ではない。
「なっ……! 殿下、あまりにも無謀です! 敵の規模も、内部の構造も不明なのですよ!? 万が一のことがあれば……」
「だからこそだ」
統星は冷ややかに正門を見上げた。
「大軍で雪崩れ込めば、狭い坑道内での乱戦は避けられん。そうなれば、我々もただでは済まない泥沼の乱戦にもつれ込むだろう。危険を避けるには、少数精鋭で潜入し、敵に悟られることなく各個撃破するしかない。……そして」
統星は、言うまでもないとばかりに背後の天狼へと視線を流した。
「狭い通路で敵が密集しているなら、こいつ一人で事足りる」
「へっ、違いねぇ」
名を呼ばれた天狼は、獰猛な肉食獣が喉を鳴らすような笑い声を上げた。
彼は愛用の大剣を肩に担ぎ直し、首をコキリと鳴らすと、獲物を品定めするように幻影の岩壁を睨みつけた。
「安心しな、部隊長さんよ。俺が大将の露払いをしてやる。……向こうから出てくる頃には、中にいるのは死体と、降伏した腰抜けだけになってるさ」
その圧倒的な自信と、有無を言わせぬ覇気。
単身で城壁をも砕きかねないこの男がいれば、確かに狭い通路での戦闘は一方的な蹂躙劇になるだろう。部隊長は二の句が継げなくなり、ただ深く頭を下げて「ご武運を」と絞り出すのが精一杯だった。
統星は手綱を引き、馬から降りると、ハズラに向かって顎をしゃくった。
「ハズラ、先導しろ。魔眼でお前が視た安全なルートをなぞって進む。……天狼、お前はその直後だ。遭遇する敵はすべて排除しろ。ただし」
統星の声色が、鋭い刃物のように厳しさを帯びる。
それは戦場の指揮官としてではなく、国の在り方を定める統治者として、遥か先を見据えた目だった。
「壁も、柱も、床板一枚たりとも傷つけるな。この砦は、明日から我々の新たな拠点となる。我々はここを破壊するのではない、ここを我が家とするために奪うのだ。……修理費がかさむような暴れ方をしたら、お前の給金から引くぞ」
その忠告に対し、天狼は「げっ」と露骨に嫌そうな顔をしたが、すぐにニヤリと口の端を吊り上げた。
「ちっ、世知辛い大将だぜ。……まあいい、手加減は苦手だが、『掃除』だけなら任せとけ」
「よし」
統星は短く頷き、決断を下した。
霧の谷に、微かな風が吹き抜ける。
それは、膠着していた戦局が、一気呵成に動き出す合図だった。
「行くぞ」
ハズラがおずおずと歩き出す。
彼には戦士のような身のこなしはない。泥に足を取られそうになりながら、それでも必死に主君の期待に応えようと、ぎこちない足取りで幻影の岩壁へと向かう。
その背中を追って、天狼が音もなく、しかし圧倒的な質量を伴って続く。
そして最後に、統星が悠然と踏み出した。
三つの影は、あたかも最初からそこには誰もいなかったかのように、冷たい岩肌の向こう側へと吸い込まれ、姿を消していった。




