霧の谷の要塞攻略戦 06
敗走する敵兵の背中を追い、一行が霧の谷の最奥部へと到達した頃合いだった。
それまで視界のすべてを覆い隠していた乳白色の闇が、ふいに薄らいだ。
谷底を支配していた濃霧が、あたかも舞台の幕が上がるように、揺らめきながら晴れていく。湿った風が頬を撫で、視界が開けると同時に、目の前に現れた威容に、進軍していた兵士たちの足が思わず止まった。
そこには、谷底の道を物理的に塞ぐ、巨大な人工の壁がそびえ立っていた。
谷の急斜面を削り取るようにして建造された、巨大な石造りの砦である。
苔むした岩肌と同化するように積み上げられた石壁は、見上げるほどの高さを誇り、自然の地形を巧みに利用した堅牢な構造をしていた。長い年月を風雪に耐えてきたその姿は、単なる建造物というよりも、谷そのものが意思を持って侵入者を阻んでいるかのような重圧感を漂わせている。
そして何より、砦の正面に鎮座する分厚い鉄の正門が、重苦しい沈黙と共に固く閉ざされていた。錆びついた鉄の色は、凝固した血のように黒々としており、いかなる慈悲も交渉も受け付けないという意志を無言のうちに語っているようだった。
「……逃げ足の速い奴らだ」
統星は愛馬の手綱を軽く引き、馬上からその要塞を見上げた。
先ほどまで、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑っていた敵兵たちの姿は、もうどこにもない。影も形も見当たらなかった。
霧という隠れ蓑を失った彼らは今、あの鉄の扉の向こう側――安全な殻の中へと逃げ込んだのだ。分厚い城壁という物理的な盾に頼り、息を潜めてこちらの出方を窺っているに違いない。
城壁の上からは、弓を構えた敵兵の気配が感じられる。だが、あえて攻撃してくる様子はなかった。下手に手を出してこちらの猛反撃を買うよりも、籠城による持久戦を選んだのだろう。嵐が過ぎ去るのを待つ亀のように、彼らは殻の中に閉じこもることを決めたのだ。
砦の前の広場には、不気味なほどの静寂が満ちていた。
鳥の声ひとつしない。風が岩肌を撫でる音だけが、耳障りなほど大きく響く。
統星は片手を挙げ、部隊を正門から一定の距離に留まらせた。これ以上近づけば、城壁からの狙撃圏内に入る。彼が引いた見えない境界線の上で、数百の軍勢が息を呑んで立ち尽くしていた。
「殿下」
部隊長が馬を寄せ、焦りの滲む声で進言した。
彼は眼前に立ちはだかる巨大な鉄扉を仰ぎ見ながら、兜の下から流れ落ちる脂汗を拭った。その表情には、明らかな困惑と徒労感が浮かんでいる。
「敵は完全に籠城の構えです。あの正門……見ての通り、尋常な厚さではありません。破壊してこじ開けるには、後方から破城槌を取り寄せる必要がありますが、この足場の悪い谷底に運び込むとなると、数日はかかります」
部隊長の判断は、軍事的な常識に照らし合わせれば極めて真っ当なものだった。
城攻めにおいて、正門突破は最も基本にして最大の難関である。ましてやこの砦は、地形そのものが天然の要害だ。攻城兵器を持たない軽装の部隊で強引に攻めれば、門を破る前に兵が疲弊しきることは目に見えていた。
ただでさえ霧の中の行軍で神経をすり減らしている兵士たちに、この鉄壁を前にして「突撃せよ」と命じるのは酷というものだろう。彼らの士気は、目の前の物理的な壁の厚さに圧倒され、萎縮し始めていた。
「……強引にこじ開けますか? 魔導師兵による集中砲火を行えば、あるいは……」
部隊長が言いかけた、その時だった。
ドスン、と重たい音が地面を揺らした。
まるで巨大な岩石が落下したかのような、腹の底に響く衝撃音。
統星の背後に控えていた天狼が、背負っていた身の丈ほどもある大剣を地面に突き立て、前に進み出たのだ。
「まどろっこしいな」
天狼は退屈そうに大きな欠伸を噛み殺すと、凶悪な質量を持つその鉄塊を、片手で軽々と担ぎ直した。
彼の太い腕に浮き上がる血管と、岩のように隆起した筋肉が、冗談のような重量の武器を羽根のように扱っている。
彼は獲物を狙う猛獣のような金色の瞳を細め、閉ざされた正門を値踏みするように睨みつけた。
「おい部隊長。あんな鉄屑一枚に、何日かけるつもりだ? 俺が全力でぶん殴れば、一発でひしゃげるぜ」
その言葉に、嘘や誇張の色は微塵もなかった。
天狼の剛力と、彼が振るう大剣の質量、そして彼が本気になった際の底知れぬ破壊力があれば、いかに分厚い鉄の扉であろうと、紙細工のようにねじ切れることは想像に難くない。
天狼はニヤリと口の端を吊り上げ、統星の方を振り返った。その顔には、退屈な待ち時間を終わらせるための暴力的な提案への期待が満ちている。
「どうする、大将? 許可さえくれりゃあ、俺が一番槍になるぜ。……ま、俺が叩き潰した衝撃で、門の裏で必死に押さえてる奴らは、鎧ごとペシャンコになっちまうだろうがな」
豪快な破壊の提案。
周囲の兵士たちは、どよめいた。
天狼ならやりかねない。いや、彼ならば確実にやってのけるだろう。
閉塞感に満ちたこの状況を、圧倒的な個の武力で打破してくれるのではないか。そんな期待と、規格外の力に対する畏怖の眼差しが、巨漢の背中に集まった。
だが、統星は冷めた目で首を横に振った。
「駄目だ」
短く、しかし絶対的な拒絶だった。
統星の声には、天狼の武勇を軽んじる響きはないが、それ以上に冷静な計算に基づいた判断があった。
「見ろ、天狼。正門前は完全に開けている。遮蔽物の一つもない、ただの広場だ」
統星は城壁の上を、視線だけでなぞるように示した。そこには、石造りの狭間から、こちらの様子を監視する敵兵の影が小さく見え隠れしている。
「お前の腕は疑わん。だが、あの開けた場所を単独で渡りきれるわけがない」
統星は諭すように続けた。
「お前を門まで到達させるには、全軍で突撃を仕掛け、敵の防御陣地を力尽くで制圧せねばならん。その強行軍で、お前が門に触れるよりも前に、何百という味方が死ぬことになる。たかが扉一枚のために、軍を自滅させるような真似はできん」
統星の言葉に、部隊長がはっと息を呑んだ。
天狼の武力に頼るあまり、戦術的な不利を見落としていたのだ。
正門への突撃は、敵にとって最も迎撃しやすい的を晒すことに他ならない。門前の広場は、城壁の上からの射撃が一点に集中する、処刑台のような場所だ。天狼自身は矢を弾き返せるかもしれないが、本隊は格好の的となる。
「父上は仰ったな。『兵を無為に損耗させる愚だけは犯すな』と。……たかが扉一枚こじ開けるために兵を矢盾にするつもりはない」
統星は静かに言い放った。
その声色は冷静というよりも完璧主義者のそれであった。
彼の目的はあくまで損害ゼロでの完全勝利だ。
正面からの力押しで勝てるとしても、それによって一兵でも失えば、それは統星にとっての美学に反する敗北に等しい。父王が懸念した泥沼の消耗戦を、自ら招くような無粋な真似はしなかった。
「ちぇっ……相変わらず融通の利かねえヤツだぜ」
天狼は不満げに舌打ちをし、大剣を下ろした。
彼もまた、主君の判断が正しいことを理解しているからこそ、それ以上食い下がりはしなかった。ただ、発散できない闘争心を持て余し、足元の石ころを苛立たしげに踏み砕くだけだ。
戦況は膠着した。
敵は出てこない。こちらも攻め込めない。
冷たい風が吹き抜ける中、部隊長や兵士たちの間に、重苦しい空気が漂い始める。結局、包囲して兵糧攻めにするしかないのか。そうなれば数ヶ月はかかる長丁場になる……そんな諦めの色が広がりかけた。
だが、統星の黄金色の瞳だけは、死んでいなかった。
彼は馬上から動かず、ただ静かに、冷ややかに、目の前の巨大な要塞を見据えていた。
その視線は、閉ざされた門をこじ開ける方法を探しているのではない。もっと根本的な、敵の思考の裏側にある穴を探しているようだった。
(正面がこれほど堅牢ならば、裏をかけばいいだけの話だ)
統星は視線をゆっくりと巡らせた。
そして、自身の影のように傍らに控える、小柄な少年の名を呼ぼうと口を開いた。
「ハズラ」
統星が短く名を呼ぶと、主の足元に影のように控えていた少年が、音もなく一歩前へと進み出た。
周囲の兵士たちが、巨大な鉄扉の威圧感に気圧されている中、ハズラだけはその物理的な厚みになど興味がないかのように、ただ淡々と虚空を見つめていた。
その瞳は、まだ光を宿していない。深い夜のような黒色が、静かに命令を待っている。
「逃げた敵兵は、全員あの門から入ったか?」
統星の問いかけは、視覚的な確認ではなく、確信めいた事実の裏付けを求めるものだった。
ハズラは小さく頷くと、前髪の隙間から覗く瞳を、眼前にそびえる砦へと向けた。
「……確認します」
彼が意識を集中させた瞬間、その右目がどぷりと赤黒く濁り、異様な充血を見せ始めた。
血管が浮き上がり、瞳孔が収縮する。
魔眼の発動により、ハズラの視界から、色彩とノイズが抜け落ちていく。
苔むした岩肌の緑も、錆びた鉄扉の茶色も、空の灰色さえもがモノクロームの静寂へと沈み込み、代わりに「それ」が鮮烈に浮かび上がった。
先ほどの戦闘で回収した矢に残された残留思念から『マーキング』した敵兵たちの反応だ。
彼らの魂の在り処を示す赤い光の群れは、分厚い鉄の扉や城壁を透過し、暗闇の中にありありと浮かび上がっていた。
それはあたかも、巣穴に密集する虫の群れのように、一点に凝縮している。物理的な壁など、ハズラの眼の前では薄いガラス細工ほどの意味もなさない。
「……はい」
ハズラは、視界に映る光の塊の位置を冷静に測量し、抑揚のない声で報告した。
「間違いありません。先ほど交戦した敵兵の反応は、ほとんどがこの大きな門の中にあります。……扉のすぐ向こう側、距離にしておよそ十歩。前庭のような場所に密集して、息を潜めています」
ハズラの目には、門の裏側で恐怖に震えながら武器を構えている者たちの姿が、手に取るように見えていた。
逃げ場を失い、堅牢な殻の中に閉じこもることでしか己を守れない敗残兵たち。彼らが恐怖に震え縮こまっている様をありありと映し出していた。
「……?」
主君への報告を終えようとしたその時、ハズラの言葉がふいに宙で止まった。
赤黒く濁ったその瞳が、敵兵の反応が密集している正門の方角から、わずかに横へと滑る。
彼の視界に映るモノクロームの世界の中で、光の奔流とは異なる、極めて異質な違和感が走っていたのだ。
それは、本流から逸れ、ありえない場所へと吸い込まれていく幾筋かの光だった。
「どうした」
統星が鋭く問う。
ハズラは無言のまま、正門から右へ五十歩ほど離れた、切り立った断崖の一点を指差した。
「……幾筋か、波長が逸れています」
ハズラの指差す先にあるのは、長年の風雪に耐え、苔と蔦に覆われた険しい岩壁だった。




