霧の谷の要塞攻略戦 05
白い霧の奥底からは、未だに何が起きたのか理解できていない敵兵たちの、恐怖に染まった悲鳴が反響していた。
先ほど放たれた魔術の爆炎は、湿った大気に飲み込まれて既に消えている。だが、その余韻としての熱波と、焦げた土の匂いだけが、生々しく漂っていた。
絶対の安全圏だと信じていた霧のカーテンを、見えざる手によって無理やりこじ開けられ、火葬場へと変えられた森の民たち。彼らの混乱は頂点に達していた。
だが、統星はその阿鼻叫喚を楽しむ素振りすら見せなかった。
彼は愛馬の手綱を軽く握り直すと、沈着な指揮者の顔を崩さず、間髪入れずに次なる獲物を求めた。
「……ハズラ、次は」
感情を排したその声は、戦場の高揚感とは無縁の、まるで事務的な確認作業のような淡々とした響きを持っていた。
主君の呼びかけに、ハズラは小さく肩を震わせた。
恐怖からではない。先ほどの魔眼の使用による脳への負荷が、鈍い痛みとなって側頭部を締め付けていたからだ。だが、彼は奥歯を噛み締めてその痛みを意識の外へと追いやった。
統星が求めているのは、同情でも弱音でもない。敵を穿つための正確無比な目だ。
ハズラは小さく息を吸い込み、再び瞼の裏に意識を集中させた。
本来ならば見たくもない他者の波長。殺意や恐怖といったドロドロとした感情の渦。それらを自ら覗き込む行為は、ヘドロの中に顔を突っ込むような嫌悪感を伴う。しかし、今はその不快感さえも、自身が役立っているという実感に変えることができた。
ハズラの両目が熱を帯びる。
異様な充血と共に赤黒く変色したその瞳が、物理的な視界を上書きしていく。
色彩が剥落した世界。
遮蔽物が意味をなさなくなったその視界の奥に、隠しようのない正解が浮かび上がる。
ハズラは、網膜に焼き付く赤い光の明滅を追った。
それは、生きている人間の胸に灯る『魂の火』であり、張り詰めた神経が放つ感情の波長そのものだ。
先ほどの魔法攻撃でパニックに陥った敵兵たちは、散り散りになって逃げ惑っていた。だが、その中で、依然として戦意を捨てていない者たちがいる。
ハズラの視界の中で、数点の赤い輝きが、木々の隙間で小さく震えているのが見えた。
ハズラは統星の乗馬靴のすぐ脇まで歩み寄ると、主君にだけ聞こえるような声量で、見たままの光景を囁いた。
「……左です。枯れた木が二本並んでいて、その間の枝に2人、隠れています」
ハズラは自分の視界にある映像を必死に言語化した。
一度言葉を切り、自分の背丈と、遠くに見えるその幻影の光景を照らし合わせるように視線を上下させる。
「……高さは、馬に乗った時くらいの高さです。弓を構えています」
枯れ木。馬上の高さ。
あまりに抽象的で、拙い報告だった。
だが、統星にとってはそれで十分だった。いや、余計な夾雑物のない純粋な視覚情報こそが、彼にとっては最良の素材だった。
統星は少年の言葉を瞬時に咀嚼し、脳内で戦術データへと変換していく。
統星は音もなく首を巡らせ、後方に控えていた弓兵部隊の隊長へと視線を送った。
隊長は、主君からの合図を待ちわびていたかのように、即座に背筋を伸ばす。
吐息のような、しかし絶対的な命令を含んだ小声で告げた。
「……左斜め前。距離40から50歩。人の背丈より少し上を狙って矢を散らせ」
隊長が無言で深く頷き、部下たちへと指先で合図を送る。
その動きに、控えていた弓兵隊が一斉に反応した。
ザッ、という衣擦れの音と共に、彼らは矢をつがえる。
きりきり、きりきりと、弦が引き絞られる乾いた音が、湿った空気の中に密やかに響き渡った。
兵士たちの目には、標的である枯れ木も敵兵も見えていない。彼らの視界にあるのは、相変わらず五寸先をも隠す不透明な白い壁だけだ。
本来であれば、見えない敵に向かって矢を放つなど、無駄以外の何物でもない。恐怖に駆られた乱射と変わらない愚行だ。
だが、今の彼らの指先に、迷いは微塵もなかった。
主君が示した座標に放てば、そこには必ず敵がいる。
先ほどの魔法攻撃の成功が、その確信を強固な信仰に近いものへと昇華させていた。統星の言葉は、霧を晴らす太陽の光と同義だった。
張り詰めた弦が、限界までしなる。
静寂が、痛いほどに耳を打つ。
統星の掲げた手が、音もなく振り下ろされた。
空気を切り裂く鋭い音が重なり合い、数十本の矢が一斉に解き放たれた。
それらは黒い鳥の群れのように白い闇の中へと吸い込まれ、物理的な視界から完全に消失する。
放たれた矢がどうなったのか、兵士たちには確認する術はない。
ただ、祈るように耳を澄ませるだけだ。
一秒、二秒、三秒。
霧の深淵から、答えが返ってきた。
ドサッ、ドサッ……と、重たい何かが地面に叩きつけられる湿った音が響く。
枝葉が折れる乾いた音。
そして、短く押し殺したような、苦悶の声。
「……ぐ、あ……ッ」
それは、枝の上に潜んでこちらの様子を窺っていた狙撃手が、何処から飛来したかもわからぬ矢に身体を貫かれ、死体となって落下した音だった。
霧という絶対的な防壁を信じ、安全圏からこちらを見下ろしていたはずの狩人が、逆に狩られる側へと転落した瞬間の音。
「……よし」
兵士たちの間から、抑えきれない安堵と興奮の声が漏れた。
彼らは声を出さずに拳を固く握りしめ、小さく快哉を叫んだ。
当たった。見えないのに、当たったのだ。
その事実は、彼らの胸中に巣食っていた「見えない敵」への根源的な恐怖を、完全に払拭した。
静寂の中で行われるその作業は、もはや互いの命を削り合う、泥臭い戦争の体をなしていなかった。
見えない位置から、一方的に敵を排除するだけの効率的な掃討。
あるいは、敵にとっては、気配もなく忍び寄り、正確に心臓や眉間を撃ち抜いてくる怪奇現象そのものだっただろう。
その異様な光景を、すぐ近くで眺めていた天狼が、呆れたように、けれどどこか感心した様子で口の端を吊り上げた。
彼は愛用の大剣に片手をかけたまま、主君の足元に立つ小さな背中へと視線を流す。
(へえ……見えねえ敵を消し飛ばすか。随分と一方的な『狩り』じゃねえか)
天狼にとっての戦いとは、互いの肉体と魂をぶつけ合い、鉄の匂いと血飛沫の中で命を削り合うものだ。
だが、目の前で行われているのは、それとは対極にある。
敵は、自分たちが殺された理由すら分からずに死んでいく。
ただ突っ立っているだけの貧相な少年が、この特殊な戦場においては、数千の兵にも勝る「最悪の兵器」として機能していた。
天狼は鼻を鳴らし、つまらなそうに、しかし頼もしげに目を細めた。剣を振るう機会がないのは不満だが、主君が選んだ「新しい武器」の切れ味は悪くない。
その時、霧の向こう側から、限界を超えた絶叫が響き渡った。
「幽霊だ! 霧の中に悪魔がいるぞッ!!」
誰かの悲鳴が、堰を切った引き金となった。
その叫びは、恐怖という名の伝染病となって、瞬く間に敵陣全体へと広がっていった。
霧の向こうからは、相変わらず矢の雨が、正確無比な死の宣告として降り注いでいる。
だが、その射手たちの姿は影すらも見えない。金属音もしない。ただ、風音と共に矢が現れ、仲間の喉を、心臓を、正確に貫いていくのだ。
敵兵たちにとって、それはもはや人間の軍隊との戦闘ではなかった。
どこに隠れても無駄だった。どの岩陰に逃げ込んでも、まるで壁を透視したかのように矢が飛んでくる。
隣にいた戦友が、訳も分からず泡を吹いて倒れる様を目の当たりにし、彼らの精神は限界を超えて軋みを上げていた。
「ひ、退けぇッ! 全軍撤退だ!!」
指揮官らしき男が、裏返った声で叫んだのが聞こえた。
だが、その命令を待つまでもなく、兵士たちは既に動き出していた。
我先にと武器を放り出し、泥を跳ね上げて逃走を開始する。
戦う意思など、とうにへし折れている。彼らが求めたのは、一秒でも早くこの「呪われた霧」から脱出し、理不尽な死の視線から逃れることだけだった。
ガシャガシャと、無様に逃げ惑う足音が遠ざかっていく。
置き去りにされた剣や槍が地面に転がり、負傷者のうめき声だけが白濁した空気に溶けていった。
その様子を、ハズラはじっと見つめていた。
彼の両目は、激痛を発し続けていたが、瞬きひとつせずにその光景を焼き付けていた。
赤い熱の残像となって、背中を向けて蜘蛛の子を散らすように逃げ去る敵兵たちの姿。彼らの背中からは、先ほどまでの殺意は消え失せ、ただ純粋な恐怖だけが立ち上っていた。
「……逃げていきます」
ハズラは、淡々とした口調で報告した。感情を込めず、見たままの事実を伝える観測者として。
「武器を捨てて、みんな谷の奥の方へ走っています。……もう、誰もこちらを向いていません」
その言葉を聞き、統星はゆっくりと掲げていた手を下ろした。
合図を受けた弓兵たちが、張り詰めていた弦を戻す。
ギリリ……という音が止むと、辺りには再び、鳥肌が立つほどの深い静寂が舞い戻った。
ただ、風の音だけが、勝者と敗者を分かつように吹き抜けていく。
「深追いは無用だ」
統星は短く言い放ち、腰の剣の鯉口をカチンと鳴らして鞘に納めた。
その硬質な音が、戦闘終了を告げる唯一の号令となった。
霧の中での乱戦になれば、こちらの利点である統率と視界の優位性が薄れる恐れがある。何より、敵は恐怖を骨の髄まで刻み込まれて逃げ帰ったのだ。
物理的な損害以上に、彼らの心に植え付けられた見えざる敵への恐怖。それこそが、次に彼らがこの谷へ足を踏み入れようとした際、最大の防壁として機能するはずだ。
「……終わったな」
統星は霧の晴れ間を見上げるように顔を上げ、静かに息を吐いた。
白く閉ざされた世界で、彼の黄金色の瞳だけが、勝利の確信に輝いていた。
一人の死者も、一人の負傷者すら出すことなく、地の利を得た敵の前衛部隊を完封し、壊滅させたのだ。
完全なる勝利。
父王が求めた損害の回避を、想像を絶する形で実現してみせた。
だが、その端正な顔に驕りはなく、ただ次の工程を見据える緻密な計算だけが浮かんでいた。
「ハズラ」
統星が名を呼ぶと、少年はビクリと反応し、慌てて充血した両目を手で覆った。
魔眼を解除した反動で、激しい目眩と痛みが襲っているのだろう。ふらつく足元を必死に支え、ハズラは主君を見上げた。
「……は、はい」
「よくやった。お前の目は、期待以上に役に立ったぞ」
統星の言葉は短かったが、そこには確かな承認の響きがあった。
ハズラの表情が、痛みの中でも微かに明るく緩む。道具としてではなく、共に戦う者として認められた安堵が、少年の胸を満たしていく。
「さて、後は仕上げだ」
統星は視線を前方、霧の奥深くに鎮座するであろう敵の本拠地へと向けた。
前衛を追い払った今、残るは殻に閉じこもった本体のみ。
彼は不敵な笑みを浮かべ、馬を進める合図を送った。
まだ誰も踏み入れたことのない白銀の霧の奥へ。
前人未踏の攻略戦は、いよいよ佳境を迎えようとしていた。




