霧の谷の要塞攻略戦 04
白い闇が、世界を覆い尽くしていた。
視界のすべてを奪う乳白色の霧は、単なる気象現象というよりも、生きとし生けるものを拒絶する巨大な意志のように、谷底に横たわっている。肌にまとわりつく湿気は冷たく、肺に吸い込むたびに、濡れた綿で口を塞がれるような閉塞感が胸の奥に沈殿していく。
その不透明な海の中に、無数の矢が乱雑に突き刺さっていた。
それらは勢いを失ってまばらに地面を穿ち、統星たちが停止した隊列のわずか数歩手前で力尽きている。まるでそこに見えない壁があるかのように、内側へは一本たりとも届いていない。
そのギリギリの縁で愛馬の脚を止め、統星は霧の奥――死神が潜む方角を悠然と見据えていた。
彼が軽く片手を掲げると、その動作一つで、混乱の極みにあった数百の軍勢が水を打ったように静まり返る。
統星は馬上から動かず、唇に一本の人差し指を当てた。
――沈黙せよ。
言葉はなくとも、黄金色の瞳に宿る鋭利な光が、そう命じていた。
続けて彼は、自身の腰にある剣の鞘を強く握り、指先で鎧の継ぎ目を押さえる仕草をして見せる。
音を殺せ。鞘を鳴らすな。金具を触れ合わせるな。幽霊のように、泥の上を歩け。
その意図を瞬時に汲み取った部隊長が、青ざめた顔で小さく頷き、配下の兵たちへと必死の手信号を送った。
ここからは、もはや軍隊としての行軍ではない。数百人規模で行う、極限の隠密行動が始まるのだ。
兵士たちは唾を飲み込み、震える手でガチャガチャと鳴りそうになる装備を自身の体へと押し付けた。
ただでさえ視界の悪い霧の中だ。足元はぬかるみ、木の根や岩が隠れている。転倒せずに歩くだけでも困難な状況下で、金属音一つ立てずに進めという命令は、彼らにとって死線を渡るような緊張を強いるものだった。
だが、誰も異論を挟まない。
目の前の地面を埋め尽くす矢の跡が、雄弁に物語っているからだ。音を立てれば、即座にあの矢の苗床になるのだと。
ザッ、ザッ……と慎重に踏み出される足音が、湿った土に吸い込まれていく。
霧が音を隠蔽してくれるとはいえ、数百の武装集団が動いているのだ。聞こえてくるのは、布が擦れる微かな音と、恐怖に引き攣った呼吸音だけ。
彼らは白い闇に溶け込み、死神の鎌が届かぬ死角を縫って、ゆっくりと、しかし確実に敵の懐へと滲み寄っていった。
極度の緊張は、人の体を石のように強張らせる。
隊列の中ほどにいた一人の重装兵が、泥に隠れていた濡れた石に足を取られた。
「あっ……」
漏れ出た声は、悲鳴にもならない呼気だった。
バランスを崩した体が大きく傾き、咄嗟に地面についた小手が、石と擦れて硬質な金属音を立てる。
ガシャンッと鳴ったその硬質な音は、静寂に満ちた霧の中、致命的な弔鐘のように響き渡った。
兵士の顔から、さっと血の気が引いていく。心臓が早鐘を打ち、周囲の仲間も凍りついたように足を止めた。
終わった。敵に気づかれた。
全員が息を止め、霧の奥から飛来するであろう死の雨を予感して身を縮めた、その刹那だった。
ギロリと、黄金色の猛獣の瞳が暗い霧の奥からその兵士を射抜いていた。
天狼である。
身の丈ほどもある巨大な鉄塊――大剣を背負った巨躯が、いつの間にか、音もなく兵士の眼前に立っていた。
「ひっ……」
兵士は悲鳴を飲み込んだ。
天狼は言葉を発しなかった。ただ、その獰猛な瞳孔を縦に細め、剥き出しの牙を見せるように唇を歪めただけだ。
岩のようにゴツゴツとした筋肉の塊。誰よりも重い装備を身に着けているにもかかわらず、その立ち姿には重さが一切感じられない。まるで獲物を狙う猫科の猛獣のように、殺気さえも消してそこに存在していた。
その無言の圧力は、雄弁に語っていた。
――次、音を立ててみろ。敵より先に俺が殺すぞ。
圧倒的な死の気配。
兵士は恐怖でガチガチと鳴りそうになる歯を必死に噛み締め、涙目で頷いて体勢を立て直した。
天狼は鼻を一つ鳴らすと、興味を失ったように前を向く。巨大な質量が、羽毛のような軽やかさで霧の中を滑るように進んでいく。その背中は、配下の兵士たちに対し、「音を消すとはどういうことか」を行動で示していた。
その無言の統率により、部隊の静粛性は極限まで高められた。
やがて、彼らの耳に、霧の奥から微かな音が届き始めた。
最初は風の音かと思った。だが、近づくにつれて、それは明確な人の声となって鼓膜を揺らす。
「……見たか? 蜘蛛の子を散らすように逃げていったぞ」
「へへっ、腰抜けどもが。我々の矢が怖くて近づけないのだ」
「おい、水を持ってこい。次の矢もな」
敵兵たちの話し声だ。
さらに、カチャリと弓を置く音や、緊張を解いて座り込む衣擦れの音、水筒の栓を開ける音までが、湿った空気に乗ってはっきりと聞こえてくる。
兵士たちは戦慄した。
近い。あまりにも近すぎる。
距離にして、恐らく数十歩もないだろう。霧がなければ、互いの顔の皺まで視認できるほどの至近距離だ。
通常であれば、とっくに発見されて蜂の巣にされている距離。
だが、敵はこちらの接近に微塵も気づいていない。
「我々の勝ちだ。この霧がある限り、奴らは手も足も出せまい」
高笑いすら聞こえてくる。
彼らは信じ切っているのだ。自分たちが安全な霧の壁の内側に守られており、侵入者たちは遥か遠くで震えているはずだと。こちらの矢が届かない場所で、一方的に攻撃できる優越感に浸りきっている。
その慢心こそが、統星が狙った隙であり、最大の防御壁だった。
統星は無言のまま、ゆっくりと拳を握り、部隊に完全停止を命じた。
ここが、予定された攻撃地点。
敵の喉元に、音もなく刃を突きつけた瞬間だった。
統星は馬上から身を屈め、影のように寄り添う少年へ片耳を向けた。
ハズラは、主君の乗馬靴のすぐ脇に立ち、緊張に震える指先でじっと前方を見据えていた。
彼の両目は、異様な充血と共に赤黒く変色している。
魔眼が発動していた。
ハズラを包み込む世界は、周囲の兵士たちが見ている不透明な乳白色の絶望とは、まるで異なっていた。
透明になった岩の陰、透き通った木々の枝の上。
そこに、赤く揺らめく複数の「熱源」がある。
矢に残されていた波長と合致する、生きた人間たちの姿だ。ハズラの網膜には彼らの姿が焼き付けられている。
彼らは皆、自分たちが見られている」とは露ほども思わず、弛緩しきっていた。
ハズラは、震える唇を統星の耳元へ寄せ、その目に映る光景を、子供のような率直な言葉で紡いだ。
「……統星様。真っ直ぐ前です」
極限まで声を潜めた、囁くような報告。
ハズラは、透視した霧の奥にある奇妙な岩の形を、指先でなぞるように示した。
「あそこに、『きのこ』みたいな変な形をした岩があります」
兵士たちの目には、数歩先の白い壁しか見えていない。
だが、ハズラの言葉を聞いた統星の黄金色の瞳は、見えぬ霧の奥を鋭く射抜いた。
ハズラは言葉を続ける。
「その岩の影に、3人座り込んでます。……兜を脱いで、水を飲んでます」
ハズラの視界には、敵兵たちの表情までもがありありと映っていた。
水筒を回し飲みし、談笑しているであろう口元の動き。自分たちが見られているとは露ほども思っていない、無防備な背中。
その弛緩しきった様子は、張り詰めたこちらの部隊の緊張感とは対照的で、ハズラには酷く滑稽に、そして哀れに見えた。
「……間違いありません。完全に、油断しています」
ハズラの報告を受け、統星はゆっくりと顔を上げた。
きのこ型の岩――その報告は極めて感覚的で曖昧なものだ。だが、今の統星にはそれで十分だった。
先ほど、敵の矢は自分たちの目の前で失速し、地面に突き刺さった。つまり、敵は弓の最大射程ギリギリの位置にいる。
(方向はハズラが示した。距離は弓の射程から逆算できる。……多少の誤差があろうとも、広範囲を焼く術式でマージンを取れば必中だ)
統星は無言のまま小さく頷くと、満足げに口の端を吊り上げた。
敵の正確な位置など知る必要はない。あの一帯にいるという事実だけで、吹き飛ばすには十分なのだ。
彼はゆっくりと振り返り、霧の中に整列する部隊を見渡し、部隊の後方に控えていた魔導師団に向けて、静かに手招きをした。
この視界の悪い霧の中、物理的な矢では枝葉に阻まれる可能性がある。何より、相手は見えない恐怖に慢心している。ならば、その霧ごと焼き尽くす圧倒的な火力で、彼らの安息を絶望へと塗り替えるのが礼儀というものだ。
指示を受けた魔導師たちが、音もなく前へ進み出る。
彼らは杖を掲げ、あるいは両の掌を前方へと向けた。
兵士たちの顔には、不安と困惑が張り付いている。無理もない。彼らの視界は依然として濃霧に閉ざされており、標的など影も形も見えていないのだ。「見えない敵を撃て」という命令は、本来であれば魔力の無駄遣いであり、自分たちの居場所を教えるだけの愚行に他ならない。
だが、統星の瞳に迷いはなかった。
彼はハズラの目を、己の目として完全に信じていた。少年が描いた「きのこ岩」の映像を脳内で正確な座標へと変換し、そこへ至る弾道を構築する。
統星は右手を高く掲げた。
張り詰めた静寂の中、その指先が指揮者のタクトのように動く。
「魔導兵、術式展開」
囁くような声だった。
だが、その声は湿った空気を震わせ、兵士たちの耳朶を打つ。
魔導師たちが一斉に呼吸を整え、練り上げた魔力を掌中に集束させる。
ブォン……という低い唸り声のような音が、周囲の大気を震わせた。
霧の中で、無数の赤い光が蛍のように灯る。それは矢じりの鋭さとは異なる、圧倒的な熱量の塊だった。
周囲の霧が、その熱によってじゅわじゅわと蒸発し、視界が陽炎のように揺らぐ。
「標的、距離30から40歩」
統星は、まるで見えているかのように淡々と数値を告げる。
「岩の陰に隠れた、哀れな子羊どもだ。……その慢心ごと、焼き払え」
魔導師たちは唾を飲み込み、見えぬ霧の彼方を睨みつけた。
自分には見えない。だが、主君には見えている。その絶対的な信頼だけが、震える指先を安定させていた。
統星の掲げた手が、振り下ろされる。
「放て」
言葉は、風のように軽かった。
ドォォォォォンッ!!
数発の魔術が、一つの巨大な咆哮となって霧を切り裂いた。
放たれたのは、紅蓮の炎弾や、真空の刃。
それらは白濁した闇を食い破り、一直線に見えないはずの標的へと吸い込まれていく。
轟音と熱波が通り過ぎた後、一瞬の静寂。
そして。
「――ギャアアアッ!?」
「な、なんだ!? 魔法だ! どこから……ッ!」
先ほどまでの談笑は、瞬時にして阿鼻叫喚の地獄絵図へと変わった。
岩が砕け散る音、炎が爆ぜる音。そして、わけもわからぬまま焼かれ、吹き飛ばされる敵兵たちの断末魔。
霧の向こう側で何が起きているのか、その惨状は見えずとも、響き渡る絶叫がすべてを物語っていた。
「……着弾確認」
統星は満足げに呟くと、まだ状況を飲み込めずにいる敵陣――その混乱の渦中へ向けて、抜身の剣を突きつけた。
「狼狽えているぞ。次だ、畳み掛けろ」
もはや兵士たちの顔に迷いはない。
見えない霧の向こうには、確実に殺すべき敵がいて、自分たちの攻撃はそこに届くのだという確信が、軍全体の士気を爆発的に跳ね上げていた。
一方的な蹂躙が、今まさに始まろうとしていた。




