霧の谷の要塞攻略戦 03
濡れた地面には、勢いを失って地に落ちた無数の矢が、無造作に散らばっていた。
射程の限界で力尽きたそれらの残骸の前で馬を止め、統星は霧の奥――矢が飛んできた方角を悠然と見据える。
乳白色の闇は依然として深く、彼方の様子は何一つ窺えない。視界を閉ざすその白は、人の不安をあおり、平衡感覚さえ狂わせる絶対的な拒絶の色だ。だが、統星の黄金色の瞳には、焦りも恐怖もなかった。あるのは、単純なパズルを解いた時のように、全てがあるべき形に収まったという乾いた実感だけであった。
「敵の足は止めた」
統星の声は、戦場の張り詰めた空気を切り裂くように静かに響いた。
彼は馬上から動かず、ただ前方の霧だけを睨んでいる。
その背後で息を潜める兵士たちは、自分たちの身に起きたことを完全には咀嚼しきれていなかった。ただ、目の前の地面に深々と突き刺さる矢の列を見て、ごくりと唾を飲み込む。
もし、統星の命令があと一瞬遅れていたら。もし、あと数歩下がるのが遅かったら。
今頃、自分たちの体があの矢の苗床になっていただろうという想像だけが、彼らの背筋を氷の指でなぞるように這い上がっていた。理解よりも先に、生存本能が震えていたのだ。
「射程外からの一方的な攻撃の準備は整ったな」
統星の言葉に、兵士たちの間に戸惑いのさざ波が広がる。
一方的、とはどういうことか。敵の姿は見えず、こちらの視界はゼロだ。相手はこちらの甲冑が鳴る音を聞きつけて正確に射てくるが、こちらは当てずっぽうに矢を放つしかない。どう考えても不利なのはこちらではないか。このまま霧の中で立ち尽くしていては、敵を捉える術もなく、ただ時間を浪費するだけだ。
だが、統星は部下たちの困惑など意に介さず、自身の左後方へと視線を流した。
そこには、戦闘が始まってから一言も発さず、影のように付き従っていた一人の少年がいた。
紺色の簡素な従者服に身を包んだ、痩せっぽちの少年。
剣も持たず、鎧も着けていない。筋肉の塊のような魔族の兵士たちが並ぶ戦場においてはあまりに場違いな、最弱の存在。
統星はその少年に向かって、この戦場で最も重要な命令を下すかのように、静かに名を呼んだ。
「――ハズラ」
少年は、即座に顔を上げた。
前髪の隙間から覗く瞳に、不安の色はない。主人の声を聞いた瞬間、待っていたと言わんばかりに統星を見返した。
統星は満足げに目を細め、不敵な笑みを浮かべた。
「ここなら矢は届かん。お前も落ち着いて仕事ができるな?」
その言葉は、問いかけでありながら、絶対的な信頼を含んだ宣告だった。
統星は、最初からこの状況を作り出すために動いていたかのように、自身の切り札である少年を前へと促した。
ハズラは、静かに前へと進み出る。
兵士たちは怪訝な顔でその背中を見送った。彼らにはまだ分かっていない。この無力な少年こそが、この戦場の理を根底から覆す、最悪のジョーカーであるということを。
「……殿下」
沈黙に耐えかねた部隊長が、泥に塗れた顔を上げた。その声は焦燥に震えている。
「これより、どう動かれるおつもりですか? 敵の射程外に逃れたとはいえ、このままでは膠着状態です。敵の姿が見えなければ、反撃のしようも……」
兵士たちの誰もが抱いていた不安を、部隊長が代弁する。
彼らの常識では、姿の見えない敵に対する攻撃手段など存在しない。このまま指をくわえて待機するか、被害覚悟で突撃するか、二つに一つだ。
しかし、馬上にある統星は、部下の悲壮な訴えなど聞こえていないかのように、涼しい顔で地面を指差した。
「反撃? 何を言う。もう始まっているぞ」
統星は顎で地面をしゃくった。
「よく見ろ。必要な情報は揃っている」
「は……?」
部隊長は目を白黒させ、主君が示した先を見る。
そこにあるのは、泥に突き刺さった汚らしい敵の矢だけだ。
「これを拾いに来たのだ。……おい、そこの者」
統星は近くにいた歩兵たちを指名した。
「あの矢を数本、回収してこい。射手の位置を知るための、貴重な道標だ」
指名された兵士たちは困惑しながらも、恐る恐る安全圏から一歩踏み出し、地面に刺さった矢を引き抜いた。
じとりと湿った矢羽からは、森の冷たい雫が滴り落ちる。それはつい先ほどまで、自分たちを殺そうとしていた凶器そのものだ。
「あァ? ゴミ拾いかよ」
それまでつまらなそうに黙り込んでいた天狼が、不機嫌そうに声を上げた。
彼は背負っていた巨大な鉄塊――大剣をドスンと地面に突き立て、呆れたように鼻を鳴らす。
「わざわざ死ぬギリギリまで近づいて、やることが矢の回収か? そんな木っ端集めてどうすんだよ、大将。薪にすらなりゃしねえぞ」
天狼の言葉は、その場にいる全員の総意だった。
だが、統星は兵士から数本の矢を受け取ると、愛おしいものでも見るかのように、その鏃を指先でなぞった。
「ゴミではないと言ったろう、天狼。……殺意を込めて放たれた矢には、持ち主の強烈な『痕跡』が色濃く残る」
統星は黄金色の瞳を細め、霧の奥、未だ見えぬ敵が潜む方角へと視線を投げた。
「姿は見えずとも、奴らは自ら名乗りを上げてくれたのだ。こいつは、奴らの居場所を正確に割り出すための、確かな痕跡だ」
統星の言葉の意味を理解できた者は、兵士たちの中には一人もいなかった。
ただ一人、統星の眼前に立つ小柄な少年――ハズラを除いて。
統星の手から放られた三本の矢を、ハズラは両手でしっかりと受け止めた。
湿った木と、錆びた鉄の冷たい感触が掌に広がる。
周囲の兵士たちは、怪訝な表情を隠そうともしない。屈強な大人が震え上がる戦場で、武器一つ持たない荷物持ちの少年ごときに何ができるのか。そんな侮りを含んだ視線が、ハズラの小さな背中に突き刺さる。
天狼もまた、巨大な鉄塊の柄に手をかけたまま、値踏みするように少年を見下ろしていた。「こんなガキに何ができる」――口にこそ出さないが、その猛獣のような金色の瞳はそう語っていた。
だが、ハズラは周囲の雑音を意識の外へと追いやった。
泥に汚れ、雨露に濡れた矢を両手で強く握り込む。
その瞬間、矢に残された射手の波長が、指先を通して流れ込んでくる。
放った瞬間の殺意や敵意といった強烈な残留思念が、生々しい情報となってハズラの神経を逆撫でする。
他人の感情の滓に触れる行為は、泥水を啜るような不快感を伴い、脳への負荷がズキリとした痛みを引き起こす。
だが、ハズラはその痛みを表情に出すことなく、ただ深く息を吸い込んで集中を高めた。
読み取った波長を鍵として、霧の奥に潜む対象を検索する。一本の矢から一人の位置を割り出し、それを束ねて敵陣全体の配置を脳内で再構築する準備が整った。
ハズラは顔を上げ、馬上から自分を見下ろす統星の姿を一瞥した。
あの時、荒野で自分を人として扱ってくれた主君。彼が期待してくれている。彼が、自分に行けと言ってくれた。
ならば、この痛みはもはや苦痛ではない。自分を証明するための代償だ。
ハズラは深く息を吸い込み、集中を高める。
波長を読み取るべき対象は複数。一本の矢から一人の位置を割り出し、それを束ねて敵陣全体の配置を脳内で再構築する。
準備はできた。
ハズラは静かに、瞼を開いた。
「――視えます」
呟きと共に、魔眼が発動した。
世界が一変した。
ハズラを包み込んでいた湿った空気や、肌にまとわりつくような濃霧の閉塞感はそのままに、視覚情報だけが劇的に書き換えられていく。
色彩が死んだ。
草木の緑も、泥の茶色も、兵士たちが纏う鎧の銀色も、すべてがモノクロームの濃淡へと沈み込む。音のない、灰色の世界。
その静寂の中で、目前を塞いでいた乳白色の霧が、その物理的な質量を失っていく。
まるで、精巧なガラス細工に変わったかのように。
分厚い霧の壁は透明なヴェールとなり、立ち並ぶ木々や巨大な岩は、薄い輪郭線だけの存在へと透き通る。
遮蔽物が意味をなさなくなったその視界の奥に、隠しようのない正解が浮かび上がった。
見えた。
ハズラの両目は、異様な充血と共に赤黒く変色し、高速で焦点を合わせる。
物理的な視認距離を超えた、遥か彼方。だが、この目には夜の闇に浮かぶ灯火のように鮮明に見える。
透明になった岩の陰、透き通った木々の枝の上。
そこに、赤く揺らめく複数の「魂の火」が浮かんでいた。
矢に残されていた波長と合致する、生きた人間たちの姿だ。
ハズラの網膜には、彼らの姿が鮮明に焼き付けられていた。
岩に背を預けて座り込む兵士。木の上で足をぶらつかせている弓兵。兜を脱ぎ、額の汗を拭っている者。
その胸に灯る魂の火が、ランタンのように内側から照らし出すことで、隠れている彼らの輪郭や表情、細かな動作までもがありありと浮かび上がっている。
物理的な視界では決して届かない彼方。
だが、ハズラの魔眼にとっては、障害物など存在しないも同然の光景だった。
その光景を脳裏に焼き付けたまま、ハズラはゆっくりと、統星の方へと向き直った。
その瞳には、もはや怯えの色はない。
あるのは、任務を遂行する観測者としての、静かな覚悟だけだった。




