霧の谷の要塞攻略戦 02
西方国境に横たわる「霧の谷」。
その名の通り、巨大な顎を開いた谷の入り口は、牛乳を流し込んだような濃密な白濁に覆い尽くされていた。
太陽の光さえも拒絶するその白い闇は、奥に広がるはずの険しい地形はおろか、一寸先の足元さえも隠蔽している。肌にまとわりつくような不快な湿気と、視界を奪われる生理的な圧迫感。ここが天然の要害として、長きにわたり他国の侵入を拒み続けてきた理由は、一目瞭然であった。
その、全てを白く塗り潰す死の帳を前にして、グラン・ヴァルディア王国の討伐部隊は足を止めていた。
馬上で地図を広げた部隊長が、脂汗を額に滲ませながら、隣に並ぶ若き主君へと進言する。その声には、困惑と焦りが隠しきれていなかった。
「……統星殿下。これ以上の進軍は危険です。陛下の勅命をお忘れですか? 『入り口を封鎖し、森ごと焼き払え』と……」
部隊長の言葉は、軍事的な常識に照らし合わせれば、あまりに真っ当な正論であった。
視界の効かない敵地へ不用意に足を踏み入れるなど、目隠しをして崖の縁を歩くようなものだ。姿の見えない敵からの狙撃、足元をすくう罠、不意の伏兵。それらが待ち受けていることは明白であり、まともに攻め入れば一方的に消耗し、被害が甚大になることは火を見るよりも明らかだった。
だからこそ、賢王である現国王は「外からの焼き討ち」という、最も安全で、かつ確実な策を命じたのだ。兵の命を第一に考える王らしい、堅実極まりない判断であった。
だが、統星は部隊長の言葉を鼻で笑い飛ばした。
彼は愛馬の手綱を握ったまま、白く閉ざされた谷底を見下ろす。その黄金色の瞳には、未知への恐怖など微塵もない。
「父上の策は堅実だ。否定はしない。だが、前提が間違っている」
統星は、目の前の白い壁を指先でなぞるように示した。
「この霧は、策をもって打ち払うことが可能だと言っているのだ。私が欲しいのは、燃え尽きた灰ではない。あの霧の奥にある砦そのものだ。……全軍、これより霧の中へ進軍し、砦を制圧する」
「なっ……!? し、正気ですか!?」
部隊長は我が耳を疑い、思わず声を荒げた。
それは明確な王命への違反であり、何より自殺行為に等しい無謀な作戦だったからだ。
「視界のない中での行軍など、ただの的です! どこから矢が飛んでくるかもわからぬまま、兵を無駄死にさせるおつもりですか!」
「誰が死ぬと言った?」
統星の鋭い一言が、部隊長の反論を喉元で断ち切った。
黄金の瞳が、氷のような冷たさで部下を射抜く。そこには、王族だけが持つ絶対的な支配者の響きがあった。
「私の指揮下にある以上、一兵たりとも無駄にはさせん。……貴様たちは黙って、私の言う通りに動けばいい」
統星は馬首を巡らせ、不安げにざわめく全軍を見渡すと、常人には理解しがたい奇妙な厳命を下した。
「よく聞け。これより中へ入るが、戦闘隊形をとる必要はない。盾を構え、隊列を崩さずに進め」
そして、統星はさらに不可解な言葉を続けた。
「私が合図を出した瞬間――『50歩』、全力で後退しろ」
「は……? 後退、ですか?」
兵士たちは顔を見合わせた。
勇ましく突撃して敵を蹴散らすのではなく、合図があったら逃げろというのか。しかも、50歩という具体的すぎる数字は何なのか。
困惑が波紋のように広がる中、統星の背後に控えていた巨躯の男、天狼がつまらなそうに鼻を鳴らした。
「へっ、燃やすよりはマシだが、シケた場所だぜ。こんな湿気ばかりじゃあ、俺の自慢の剣も薪割りにもなりゃしねえ」
天狼は身の丈ほどもある巨大な鉄塊――大剣を肩に担ぎ直し、鬱陶しそうに目の前の霧を手で払う。
丸太のように太い腕、岩のような筋肉。視界の悪さも、敵の脅威も、この男にとってはただの退屈な障害でしかないようだった。
「ボヤくな、天狼。私の側を離れるなよ」
「言われなくても。大将の盾になるのが俺の仕事だろ」
天狼はニヤリと獰猛に笑い、頼もしく主人の脇を固めた。
その反対側には、紺色の従者服に身を包んだ小柄な少年、ハズラが、影のように無言で付き従っている。彼の前髪の隙間から覗く、光のない濁った黒色の瞳だけは、霧の奥を見据えるように、静かに澄んでいた。
「行くぞ」
統星の号令と共に、一行は白い闇の中へと足を踏み入れた。
それは、父王が禁じた「蛮勇」そのものに見える、あまりにも無防備で無謀な行軍の始まりだった。
◇
谷の中へ足を踏み入れた瞬間、世界が一変した。
視界は瞬く間に奪われ、数歩先ですら白い闇に溶けて消失する。上も下も、右も左もわからない。平衡感覚すら曖昧になる乳白色の世界に、兵士たちは飲み込まれた。
肌に触れる空気は冷たく湿っており、まるで濡れた綿で口を塞がれているような息苦しさを覚える。
見えない恐怖。
兵士たちは喉を鳴らし、握りしめた盾の裏で冷や汗を流していた。どこからともなく視線を感じるような錯覚に陥り、背筋が粟立つ。
そして何より、静寂であるべき谷底には、彼ら自身の立てる騒音が不気味なほど盛大に響き渡っていた。
重装歩兵の鎧が擦れ合う音や、硬い地面を叩く軍靴の足音が、霧という天然の音響効果も手伝ってか、普段よりも大きく遠くまで響いているように感じられた。
それはまるで、自らの位置を敵に知らせる「標的の鐘」のようだった。
(……こんな音を立てていたら、狙ってくださいと言っているようなものではないか)
兵士たちの不安が頂点に達する。生きた心地がしない時間が、永遠のように長く感じられた。
だが、指揮官である統星は馬上で眉一つ動かさず、あえてその騒音を止めようとはしなかった。
悠然と、ただ散歩でもするかのように馬を進める。その態度は、ここが死地であることを微塵も感じさせない、不敵なまでの落ち着き払ったものだった。
白い闇の中で、ただ金属音だけが、耳障りなほど大きく響き続けていた。
その音が、静寂な谷底においてついに臨界点を超えた。ヒュンッという鋭い風切り音が湿った空気を切り裂き、何の前触れもなく不気味なほど唐突に死の訪れを告げた。
直後、ガンッという凄まじい衝撃音が響き、先頭を歩いていた兵士の盾に凄まじい衝撃が走った。
「うわっ!?」
兵士は悲鳴を上げ、衝撃に耐えきれず尻餅をつく。
その盾の表面には、羽根のついた太い矢が深々と突き刺さり、殺意の余韻を残して小刻みに震えていた。
「て、敵襲ッ!?」
「どこだ!? どこから撃ってきた!?」
パニックに陥った兵士たちが叫び声を上げる。
だが、その悲鳴こそが、霧の中に潜む敵にとっての格好の「音の的」となった。
視界の効かない森の民にとって、侵入者が立てる金属音と悲鳴は、正確無比な的となるからだ。
一射目を皮切りに風切り音が重なり、四方八方の霧の奥から矢の雨が降り注いだ。
姿の見えない死神が、白い闇の中から一方的に鎌を振るってくる。
次々と盾や鎧に矢が突き刺さる音が響き渡り、兵士たちの悲鳴と交錯した。
「ひ、ひぃぃッ!」
「見えない! 敵が見えないぞッ!」
幸い、統星の事前の厳命により全員が盾を構えていたおかげで、直撃を受けて即死する者はいない。だが、視界ゼロの中で一方的に殴られ続ける恐怖は、兵士たちの精神をやすりで削るように摩耗させていく。
彼らは亀のように縮こまり、見えない敵の殺意に震えるしかなかった。
統星はその混乱の中心で、馬の手綱を握ったまま冷静に周囲を観察していた。
(……来たか。音に反応して撃ってくる。予想通りだ)
彼は眉一つ動かさず、降り注ぐ矢を冷静に見据えていた。
その時である。
混乱する兵士たちを囮にするかのように、一際鋭い、研ぎ澄まされた殺気が霧の奥から放たれた。
狙いは兵士の盾ではない。この軍の指揮官、すなわち統星の眉間一点のみ。
音もなく飛来した必殺の矢が、白い闇を裂き、統星の黄金色の瞳へと一直線に迫る。
「――チッ、」
統星が反応するよりも早く、彼の隣で巨大な影が動いた。
凄まじい金属音が轟き、暗い霧の中に鮮烈な火花が散った。
統星の目前に迫っていた矢が、弾き飛ばされて虚空を舞う。
その軌道を遮ったのは、身の丈ほどもある分厚い鉄塊――天狼の大剣だった。
天狼は統星の前に仁王立ちになり、その巨体と大剣を「鉄の盾」として主君を庇っていた。
放たれた矢は、分厚い刀身に傷一つ残すことなく、無残に折れ曲がって地面に転がっている。
「こそこそと……! 姿を見せやがれ、卑怯者どもがッ!」
天狼は獣のように吠え、苛立ちまかせに大剣を一閃させた。
暴風のような風圧が発生し、周囲に漂う霧が一瞬だけ晴れる。
さらに飛来した数本の矢が、その風圧だけでハエのように叩き落とされた。
だが、それでも敵の姿は見えない。
圧倒的な武力を誇る天狼であっても、対象が見えなければその剛剣は空を切るだけだ。
彼は飛んでくる矢を次々と叩き落としながら、ギリリと奥歯を噛み締めた。
「クソッ! どこにいやがる! これじゃあ殴り返せねえぞ!」
この部隊で随一の武力を誇る剛剣の使い手が、ここでは防戦一方の盾になるしかない。
その理不尽な状況に、天狼の苛立ちは募っていくばかりだった。
部隊がパニックに飲み込まれかけ、隊列が崩れそうになった、その時だった。
混乱を切り裂くように、統星の鋭い咆哮が響き渡った。
「――退け! 命令通りにだ!」
その一言は、恐怖に凍りついていた兵士たちの思考を強制的に叩き起こした。
事前に何度も叩き込まれた厳命、「合図があったら全力で下がる」。
彼らの体は恐怖よりも軍隊としての規律に反応し、反射的に踵を返した。
(1、2、3……ッ!)
兵士たちは唇を噛み締め、心の中で歩数を数えながら霧の中を後方へと駆け出した。
それは無様な敗走に見えて、その実、極めて統制の取れた機動だった。全員が同じ歩幅、同じリズムで、一つの生き物のように後退していく。
「オイ大将、逃げるのかよ!?」
天狼が不満げに声を荒らげる。
彼にとって、敵に背を向けることほど屈辱的な行為はない。飛来する矢を大剣で叩き落としながら、彼は統星を睨みつけた。
「いいから下がれ! 私の側を離れるな!」
「チッ……!」
統星の剣幕に、天狼は舌打ちしながらも従う。彼はその巨躯を盾のようにして統星の背後を守り、殿として走り出した。
(20、21、22……!)
兵士たちの無言のカウントが、重い足音となって霧の谷に響く。
背後からは依然としてヒュンヒュンと矢が飛来し、地面や盾を叩く音が追いかけてくる。死神が背中に迫る恐怖。本能は「もっと速く、もっと遠くへ」と全速力での逃走を促すが、彼らはその衝動を規律でねじ伏せていた。
統星の命令は絶対だ。50歩下がったその瞬間に、何があってもピタリと止まらなくてはならない。恐怖に駆られて逃げ続けることも、隊列を乱すことも許されないのだ。
(48、49……50ッ!!)
脳内でその数字が叫ばれた瞬間、全軍が示し合わせたようにピタリと足を止めた。
彼らは即座にその場に片膝をつき、盾を隙間なく並べて防御姿勢をとる。荒い息遣いだけが、静寂を取り戻した周囲に響いた。
張り詰めた空気の中、再びヒュンッ、ヒュンッという死神の羽音が闇を切り裂いた。
兵士たちは反射的に身を縮め、盾の裏で衝撃に備える。来るぞ、と誰もが歯を食いしばった。
だが――聞こえてきたのは、耳をつんざく金属音でも、盾を砕く衝撃音でもない。
カツン、プス、という乾いた音が足元で響いただけだった。
「……あ?」
最前列にいた兵士が、恐る恐る盾の縁から顔を覗かせる。
そして、信じられない光景に目を丸くした。
彼らの鼻先、わずか数歩手前の地面に、勢いを失った矢が散乱していたのだ。
あるものは地面に突き刺さり、あるものは力なく転がっている。まるでここに見えない防波堤があるかのように、矢の波はその手前で勢いを殺され、あと一歩が届かずに死に絶えていた。
あと数歩前にいれば串刺しだったが、今の彼らにとっては、それはただの地面の飾りでしかなかった。
「これが、奴らの射程限界だ」
統星の冷静な声が、呆気にとられる兵士たちの耳に届く。
「奴らは音を頼りに撃ってくるが、同時にこちらの反撃を恐れて距離を詰めようとはしない。つまり、有効射程ギリギリの安全圏からしか攻撃できない臆病者だ」
統星は馬上で腕を組み、届くことなく地に落ちた矢の残骸を見下ろした。
「あの位置から、この角度で撃ち込んでくる以上、50歩下がれば矢の勢いは死ぬ。物理的な必然だ」
「へっ、面白ぇ!」
天狼がニヤリと笑い、地面に突き刺さった矢を足で踏みつけた。
バキリ、と矢柄の折れる音が響く。
「こりゃ傑作だぜ。俺たちの目の前に、これ以上は届かねえっていう『限界』を見せつけてくれやがった!」
霧の奥からは、依然として矢を放つ音が聞こえてくる。だが、もはやそれは恐怖の対象ではなかった。
死神の鎌は、見えない壁に阻まれたかのように、虚しく空を切り、彼らの目の前で泥に沈んでいく。
つい数分前まで兵士たちを震え上がらせていた矢の雨は、今や統星の知略を証明する、無害な境界線へと変わり果てていた。




