豊穣の大地と三つ巴の戦渦 30
プレンブルグ城の惨状。城門をくぐり抜けた先にあるのは、ただ果てしなく続く瓦礫の荒野だった。
大平原での凄惨な激戦を制し、ついに人類同盟の中心都市へと足を踏み入れたグラン・ヴァルディアの将兵たち。彼らの胸にあったはずの勝利の高揚感など、この光景を前にしてはとうに消え失せていた。
都市を先行して占拠していたゴブリン族の略奪は、金銀財宝を奪い去るというような生易しいものではなかった。彼らは都市の骨格を成す鉄材や木材に至るまで、再利用できるあらゆるものを執拗に剥ぎ取っていたのである。壁は砕かれ、柱はへし折られ、街を形作っていたはずの建材は根こそぎ持ち去られていた。
足元には、踏み砕かれた石畳の破片と、無惨に引きちぎられた金属の残骸が散乱している。戦火の跡というよりも、巨大な獣に食い散らかされた後のようなおぞましさが漂っていた。
ハズラは、沈黙が支配する城内を歩きながら、その惨状を静かに見つめていた。彼の濁った黒色の瞳は、感情に流されることなく目の前の事象を客観的な事実として捉えようとしている。本来であれば、ここは人間界侵攻のための盤石な足がかりとなるはずだった。主君である統星が描く覇道の、最も重要な拠点の一つとなるべき場所だった。しかし、今はその基礎すら残っていない。
城の中心部、辛うじて崩落を免れた石造りの広間で、直ちに軍議が開かれた。
かつては豪奢なタペストリーが飾られ、権力者たちが夜な夜な宴を開いていたであろうその場所には、円卓も満足な椅子も残されていなかった。薄暗い空間に集ったのは、グラン・ヴァルディア軍の首脳陣である。
軍の最先鋒として大平原を蹂躙し、血路を切り開いた第三将ファルシオン。そして、緻密な戦術によって三つの拠点を無傷で制圧し、敵の背後を完全に封鎖した第七将ラングレー。
ハズラもまた、観測者としてその場に同席していた。
広間の空気は重く、ひりつくような緊張感に包まれていた。
「ひどい有様だな」
ファルシオンが、忌々しそうに舌打ちをしながら口を開いた。日焼けした褐色の肌には、激戦の疲労と、拭い去れない怒りの色が滲んでいる。彼の身の丈ほどもある大剣は、まだ乾ききっていない血に濡れていた。
「ゴブリンの連中は、金目当ての盗賊とは違う。街の骨組みから何から、すべてを持ち去りやがった。これでは拠点どころか、ただの吹きさらしの廃墟だ。俺たちが血を流して手に入れたのが、こんなゴミ溜めだとはな」
ファルシオンの言葉には、激しい闘争心の行き場を失った苛立ちが含まれていた。純粋な武人である彼は、理不尽に破壊され尽くしたこの都市の惨状を、自らの刃で報復すべき屈辱と感じている。しかし、怒りをぶつけるべき敵はすでにこの地にはいない。
「感情で状況は好転しない。現状をありのままに受け入れることだ」
ラングレーが、感情の温度を一切感じさせない平坦な声で応じた。彼は首元まで襟を立てた分厚い漆黒の軍用コートを纏い、荒廃した広間の中にあっても静かな威圧感を放っている。色付きの丸眼鏡の奥にある瞳は、ファルシオンの怒りに同調することなく、ただ目の前の事実だけを捉えていた。
「シンクレア。君が観測した敵の動向と、この周辺の被害状況の情報を報告してくれ」
「はいはーい、ラングレー様」
シンクレアは手元の記録を見ながら、あらかじめ整理しておいた情報を口にした。
「プレンブルグ城を中心とした半径数千歩の範囲において、防衛に利用可能な建造物はほぼ皆無っすね。城壁は全体の七割が崩落してて、修復には多大な時間と資材を要するっす。あと、ゴブリン族の残党は完全に散り散りになってるんで、現在この周辺に組織的な脅威は存在しないっすよ」
シンクレアは、ギャル口調ながらも要求されたデータを最速かつ完璧に伝達した。その情報を聞いたラングレーは、中指で眼鏡を静かに押し上げる。
「ご苦労。君が提供してくれた正確な情報のおかげで、現状の把握が確実なものとなった。この被害状況は、我々にとって想定外の事態であることは間違いない。だが、嘆いている暇はない。我々はこの瓦礫の山を新たな盤面として捉え直し、今後の防衛と再構築に向けた最適な戦術を構築する必要がある」
ラングレーの頭脳は、極度の合理主義に基づいて絶え間なく思考を巡らせていた。彼にとっては、いかに最悪の状況であろうとも、それは解決すべき一つの問題に過ぎない。
「まずは軍の再配置だ。ファルシオン、お前はこのままプレンブルグに留まるつもりか」
ラングレーの問いに、ファルシオンは腕を組み、深く息を吐き出した。彼の猛獣のような金がかった瞳には、激しい葛藤の影が落ちている。
「……俺の本音を言えば、今すぐゴブリンの巣穴に乗り込んで、連中を一人残らず叩き斬ってやりたいところだ。この屈辱をそのままにしておくのは、俺の性に合わねえ」
ファルシオンはギリッと奥歯を噛み鳴らした。彼の全身から、抑えきれない殺気が微かに漏れ出している。
「だが、俺が管轄しているアルカイドは、西進の起点となる重要な国境の要衝だ。主力部隊を引き連れてここまで深く進撃してきた以上、これ以上あの街を空にしておくわけにはいかねえ。敵はゴブリンだけじゃないからな。人間の国がいつ反転攻勢に出てくるかもわからねえ」
ファルシオンは、豪放磊落で猪突猛進な気性を持ち合わせているが、それと同時にグラン・ヴァルディア王国を支える将軍の一人としての強い責任感を抱いていた。自分の感情を優先して防衛線を疎かにすることは、王国の存亡に関わる致命的な失態に繋がる。
「その通りだ。お前がアルカイドへ帰還し、国境の守りを固めることが、現時点での最も合理的な判断となる」
ラングレーは淡々と肯定した。
「俺が帰るとなれば、この瓦礫の山の守りはどうする。修復するにしても、相当な骨が折れるぞ」
「私と第七軍が、このプレンブルグに駐留する」
ラングレーの言葉に、迷いは一切なかった。
「私が指揮を執り、この大平原と都市の防衛、および再構築を進める。敵の進軍ルートである三つの拠点はすでに我々が押さえている。それらを要石として防衛網を再構築すれば、この地を盤石な拠点として機能させることは可能だ」
「お前が残るか。まあ、頭を使う仕事はお前に任せておけば間違いはない。だが、この何もない更地からどうやって防衛網を築き上げるつもりだ」
「別の案件でこちらに来ていた最適な人材が、たまたまこの地にはいる」
ラングレーがそう言った直後、広間の入り口から軽やかな足音が聞こえてきた。
「いやあ、ひどい有様じゃのう。見事にすっからかんじゃ」
ぶっきらぼうだが、どこか親しみやすい独特の訛りを持った声が響いた。姿を現したのは、機能的なエンジニアコートを身に纏い、肩に生々しい包帯を巻いた青年だった。彼の腕には、幾つもの製図道具が抱えられている。
統星にその才能を見出され、グラン・ヴァルディア軍の建築家として迎え入れられたカイリであった。
彼は広間の惨状を見渡しながら、凪のような翠緑の瞳を輝かせていた。絶望的な破壊の痕跡を前にして、彼の顔には不思議と生き生きとした表情が浮かんでいる。
「カイリ。状況は見ての通りだ。この都市は基礎となる建材すら残されていない。お前の技術で、ここを前線拠点として再構築できるか」
ラングレーの問いかけに対し、カイリは首の後ろをボリボリと掻きながらニヤリと笑った。
「ラングレーのおっさん、俺を誰じゃと思っとるんじゃ。ここには最高品質の石材の残骸が山ほど転がっとる。これだけ広大な更地があれば、俺の頭の中にある設計図を、何の邪魔も入らずにそのまま形にできるってもんじゃ」
カイリは足元に転がっていた石材の破片を拾い上げ、指先でその感触を確かめた。
「むしろ、中途半端に古い建物が残っとるより、一から作り直せる今の状況のほうが好都合じゃ。地形そのものを操作して、敵の進軍ルートを完全に制限する完璧な防壁を作っちゃる。妥協のない、極限の機能美を体現した要塞をな」
職人としての飽くなき探究心と野心を隠そうともしないカイリの言葉に、ファルシオンは呆れたように息を吐いた。
「お前らみたいな頭のネジが飛んだ連中がいる限り、この国は安泰だな。安心したぜ。俺は心置きなくアルカイドへ帰らせてもらう」
ファルシオンは無骨な大剣を肩に担ぎ直し、部下たちが待つ外へと歩み去っていった。彼の背中は、未だ満たされぬ闘争心を内に秘めながらも、将軍としての重責を全うする覚悟に満ちていた。
ファルシオンが去った後の広間で、これまで黙って会議の様子を窺っていたハズラが口を開いた。
「私はこれより王都セプテントリオンへ帰還し、統星様と紫苑様に戦局のすべてを報告いたします」
ハズラの言葉に、ラングレーは静かに頷いた。
「……なるほど。カネル軍の副官と聞いていたが、殿下が密かに重用しているという秘蔵の観測者とは、君のことだったか。主君の『目』としての役目、ご苦労だった」
ハズラが恭しく頭を下げると、ラングレーは視線を広間の外、城の中庭へと向けた。ハズラもそれに倣って外を見る。
そこには、愛らしくアレンジされた軍服の裾を軽やかに揺らしながら、瓦礫の片付けに追われる兵士たちの間を駆け回る少女の姿があった。カネル・ルーチェである。
彼女の艶やかなピンクブロンドの髪が、風に揺れて陽の光を反射している。
「みんなー! お疲れ様! 重たい石を運んでくれてありがとう! 無理しないで、怪我には気をつけてね!」
カネルの天真爛漫な声が、殺伐とした城内に響き渡る。彼女は満面の笑顔を浮かべ、泥に塗れた兵士たちに声をかけながら、自分の水筒から飲み物を分け与えていた。
兵士たちの顔には、激戦の疲労と荒れ果てた都市に対する絶望の色が濃く表れていたはずだった。しかし、カネルの無邪気な笑顔と励ましの言葉を受けた瞬間、彼らの表情から陰りが消え去っていくのがハズラにもはっきりと見て取れた。
「おお、カネル様! 我々のためにわざわざ!」
「この程度の瓦礫、カネル様のためならすぐに片付けてみせますとも!」
兵士たちは自らの疲労など完全に忘れ去ったかのように、常軌を逸した熱意で作業を再開していく。彼女への狂気的なまでの愛情と忠誠心が、彼らの肉体的な限界を軽々と突破させていた。
「私と第七軍、カイリ、そしてカネル・ルーチェの部隊はここに駐留する」
ラングレーが、カネルの姿を見つめながら淡々と語った。
「報告の際、上層部にはこう伝えておいてくれ。彼女の圧倒的なカリスマ性は、どのような過酷な環境下にあっても兵士たちの士気を極限状態に保ち続ける。私の知力と、カイリの技術、そしてカネルの導く士気。この三つが揃えば、プレンブルグを不落の防衛拠点として再構築し、時間はかかろうとも、必ずや再び豊かな穀倉地帯として蘇らせてみせる、とな」
「……はい。確かに」
ハズラは、カネルの笑顔によって活気を取り戻していく兵士たちを見つめながら、かつて彼女が人間の感情の力の素晴らしさを教えてくれたことを思い出していた。論理や計算だけでは測れない、目に見えない強大な力が、確かにこの荒廃した都市を支えようとしている。
瓦礫の山となったプレンブルグ城。その光景は決して華々しい勝利の結末ではなかったかもしれない。しかし、そこに残る者たちは皆、それぞれの確固たる意志を持って新たな盤面へと向き合っていた。
ファルシオンは自らの都市を守るため西へ戻り、ラングレーとカイリ、カネルはこの地を不落の拠点へと生まれ変わらせるために残る。
ハズラは、自らが観測した数々の事象を胸に深く刻み込んだ。彼らの戦いぶり、苦悩、そして次への決意。そのすべてを正確な情報として持ち帰り、主君の覇道を支え続けること。それが自分に与えられた唯一無二の使命であると、ハズラは強く再認識していた。
城の広間を後にしたハズラは、泥と血の匂いが微かに残る風を顔に受けながら、帰還のための準備へと向かう。彼の足取りには、自立して盤面を見極める観測者としての、確かな自信と覚悟が満ちていた。




