豊穣の大地と三つ巴の戦渦 31
プレンブルク大平原を覆っていた濃密な血と泥の匂いは、北方の広大な平原を吹き抜ける冷たい風によって少しずつ薄れ始めていた。
第三勢力であるグルゴタ連邦の予期せぬ乱入から始まり、三つ巴の様相を呈した凄惨な激戦は、ついに完全なる静寂という形で一つの区切りを迎えている。
耳を澄ませば、遠くで崩落した石材を動かす鈍い音や、将兵たちの短く落ち着いた指示の声が風に乗って聞こえてくる。星辰第七将ラングレーの指揮のもと、荒廃した都市を新たな要塞として再構築するための作業がすでに始まっているのだ。
血と泥が乾き、ひび割れた大地を踏みしめながら、ハズラは自身に割り当てられた簡素な天幕へと戻ってきた。
周囲では、戦いを終えた兵士たちが傷の手当てを受け、あるいは野営の準備に追われている。彼らの間を抜け、静寂の保たれた空間へと身を落ち着けると、ようやく極度の緊張がほぐれていくのを感じた。
彼に下された命令は、このプレンブルク大平原からの帰還である。
王都セプテントリオンで待つ主君である統星と、国の内政を一手に引き受ける内政官の紫苑。彼らに対して、瓦礫の山と化したこの都市の現状と、複雑に変化した盤面の情報を詳細に報告することが、ハズラに与えられた次なる、そして極めて重要な役割であった。
ハズラは手元に置かれたインク壺に羽根ペンを浸し、白地の羊皮紙に向かっていた。
脳裏に焼き付いているのは、凄惨な死体の山でも、響き渡っていた兵士たちの断末魔でもない。
部隊の配置と戦力の推移、そして各拠点の現状。ハズラは自らの眼を通して収集したあらゆる事象から、主観的な感情や不確定な要因を一切削ぎ落とし、極めて冷静な思考によって純粋な情報を抽出していく。
記憶の断片を客観的かつ的確なデータへと変換し、羊皮紙の上に整然と書き連ねていく。個々の戦闘の些末な詳細ではなく、第三勢力の介入によって複雑に変化した盤面の全体像を、誰が読んでも寸分の誤解なく理解できる形へと再構築する。
ただの奴隷として鎖に繋がれ、他者の顔色を窺うことしかできなかった自分が、今こうして国家の命運を左右する戦局の観測者として重要な任を帯びている。
自らを一人の人間として扱い、その瞳の奥に眠る価値を見出してくれた統星。彼の掲げる世界統一という途方もない覇道を完璧に支える存在となるために、ハズラは一切の妥協を許さず、王都への帰還の準備と報告書の作成を淡々と進めていった。
羽根ペンが羊皮紙を滑る乾いた音だけが響いていた天幕の静寂は、唐突に破られた。入り口の布がバサリと乱暴にめくられ、気怠げな声とともに一人の少女が姿を現したのだ。
「……あー、やっぱりここにいたっすか」
世界最年少の『魔導六杖』に名を連ねるエルフ族の天才魔術師、ルルティア・アッシュウッドであった。
ハズラの天幕は決して豪華なものではなかったが、彼が作業に集中できるよう、風の音すらある程度遮る構造になっていた。そこへ遠慮も作法も一切なく踏み込んできた彼女は、周囲に芳醇なアルコールの香りを撒き散らしている。
彼女の出立ちは、ハズラが初めて言葉を交わした時と何一つ変わっていない。伝統的で厳格なはずのエルフの魔導衣は襟元が大きく開けられ、袖も無造作にまくり上げられている。太陽の光を編み込んだように美しいはずの金髪は手入れを怠ってくすんでおり、四方八方に寝癖のように跳ねていた。姿勢は背骨の芯が抜けたようにぐにゃりと曲がり、片手には使い込まれた銀色の酒瓶がだらしなくぶら下がっている。
およそ戦場にも、そして世界最高峰の魔術師という称号にも似つかわしくない、退廃的で怠惰な空気を纏った少女。
エルフの持つ神秘的で高貴な雰囲気など微塵も感じさせないが、不思議とその存在感は、戦場の重苦しい空気を一瞬にして塗り替えるほどの強烈なものであった。
ハズラは静かに羽根ペンを置き、立ち上がって彼女を出迎える。
「ルルティアさん。何か御用でしょうか」
彼の脳裏には、キーフェルンブルク城の戦いにおいて彼女が見せた光景が鮮明に焼き付いている。
ルルティアがまるで息をするように放った、歴史上類を見ないと評されるレベルの規格外の超精密魔法。対象の周囲だけを針の穴を通すような精度と出力調整で寸分の狂いもなく爆破し、意図しない余波を一切出さずに敵将ギルバを城外へとあぶり出したあの神業。
彼女のあの魔法がなければ、城に一切の傷をつけることなく敵の進軍ルートを物理的に封鎖し、指揮系統を崩壊させるという困難な戦術を完遂することは不可能であった。彼女の存在こそが戦局を完全に支配し、グラン・ヴァルディア軍に圧倒的な勝利をもたらした決定的な要因であったのだ。
ハズラは観測者として、その事実を極めて論理的かつ客観的に認識していた。
ルルティアは大きな欠伸をふわぁと噛み殺した。
「別に用ってほどじゃないっすけど。あんたが帰るって聞いたんで、一応声くらいかけとこうかと思って」
彼女はもう一方の手に持った長大なキセルを指先で弄りながら、首の後ろをボリボリと掻く。
「酒の借りは、これで返したっすよ」
世の中のすべてを斜めに見るような翠緑色の半眼をハズラに向け、彼女は退屈そうに言い放った。
「本当に、助かりました。あなたの魔法がなければ、あの戦術は成り立ちませんでした。グラン・ヴァルディア王国を代表して、深く感謝いたします」
「はぁー……そういう堅苦しいの、マジで勘弁してほしいっす。アタシは国のために働いたわけじゃないっすから」
彼女にとって、グラン・ヴァルディア軍の陣営に協力し、グルゴタ連邦との凄惨な戦争に介入したことは、あくまで一時的な気まぐれに過ぎない。
強大な魔力を持つ彼女が本当に求めているのは、国家間の覇権争いや領土の拡大などではなく、堅苦しい掟や長老たちの口うるさい管理から解放された、自分を縛るものが何もない自由な居場所であった。
「アタシは、自分が好きな時に好きな場所で酒を飲んで、適当に昼寝ができればそれでいいんすよ。誰かの命令で魔法を使わされるのは、もう真っ平御免っす」
彼女の翠緑色の瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、故郷の森で背負わされていた重圧に対する嫌悪の光が過ったように見えた。しかし、それはすぐにいつもの気怠げな色へと塗り潰される。
「それに、これ以上あんな細かい魔法を使わされたら、こっちの身が持たないっす。だから、アタシはもう行くっすよ」
「……そうですか。引き留めることは、いたしません。どうか、道中お気をつけて」
ハズラはそれ以上何も求めず、ただ静かに言葉を返した。
彼女には彼女の歩むべき道があり、自分には統星の覇道を支えるという確固たる道がある。交わることのない軌道が、偶然にもこの大平原で重なり合っただけなのだ。
「じゃ、あんたもせいぜい無理しない程度に頑張るっすよ」
ルルティアは踵を返すと、天幕の入り口をくぐり抜け、泥と血に塗れた荒涼たる大平原へと歩み出していく。
ハズラは天幕の外まで見送りに立ち、彼女の後ろ姿を見つめた。
その足取りは、自由気ままな放浪の旅を象徴するかのように、ふらふらとした危うい千鳥足であった。重苦しい戦禍の爪痕が残る地から、彼女の気怠げな背中が少しずつ遠ざかっていく。
いかなる束縛も受け入れず、ただ己の望む自由な世界を求めて、風の吹くままに去っていく天才魔術師。彼女の姿が地平の彼方へと溶けて消えるまで、ハズラは静かにその場に立ち尽くしていた。
ルルティアが去った後の大平原には、再び静寂が降りていた。
第三勢力であるグルゴタ連邦の無慈悲な乱入から始まった、プレンブルク大平原における三つ巴の激戦。大地を赤黒く染め上げたその壮絶な戦いは、ここにきてついに完全な区切りを迎えたのである。
アルカイドへと帰還していくファルシオンの軍勢。荒廃した都市に留まり、新たな防衛拠点の構築を始めるラングレーとカイリ。そして、その作業を狂気的なまでの士気で支えるカネルの軍勢。
味方からの圧倒的な力による支援と、緻密な戦術によって導き出された勝利の余韻を噛み締めながら、将兵たちはすでにそれぞれの次なる役割へと動き出している。
都市の防衛網を再構築するため、ラングレーの指示のもと、兵士たちは休む間もなく瓦礫の撤去や防壁の基礎作りに取り掛かっている。カイリの持つ並外れた空間把握能力と緻密な物理計算が、荒れ果てた土地に新たな秩序をもたらそうとしていた。
そして、その過酷な労働を、カネルの無邪気な笑顔が支えている。彼女の存在がある限り、どれほど絶望的な状況であっても、彼らの士気が折れることは決してない。
荒涼とした大平原の至る所で、次なる時代の盤面に向けて歩みを進める者たちの確かな足音が響いていた。
ハズラもまた、自らの天幕に戻り、整理を終えた報告書の束を革の鞄へと慎重に収めた。
彼の戦場での任務は終わった。だが、観測者としての彼の戦いは、これからも絶え間なく続いていくのである。
しばらくの後、ハズラは用意された一頭の馬にまたがり、王都セプテントリオンへと続く街道を進んでいた。
彼に宛てがわれたのは、首のない異形の軍馬、デュラハン・ホースであった。首の断面から蒼白い蒸気を絶えず噴き出すその馬は、通常の馬であれば疲労で倒れてしまうような長距離であっても、機械のように黙々と走り続ける。
風を切って走る馬の背に揺られ、手綱を握る手に力強い鼓動を感じながら、彼の胸中にはこれまでの戦いで培われた静かな自負が息づいていた。
ハズラは無意識のうちに、手綱を握る拳を強く握りしめた。
自分を薄汚れた環境から救い出し、一人の人間としての存在意義を与えてくれた恩人。自らの中に眠る知性と魔眼の価値を誰よりも高く評価してくれた、絶対の主君。
統星の掲げる「魔界と人間界すべての統一」という、前人未踏の果てしない覇道。その壮大な理想を現実のものとするためには、いかなる困難な障害が立ち塞がろうとも、それを乗り越えるための完璧な情報が必要不可欠である。
ハズラは、自らがその道を照らす光となり、いかなる暗闇の中でも正確な真実を見つけ出す目となることを、改めて強く心に誓った。
空を覆っていた分厚い雲が僅かに切れ、西の空へと傾きかけた太陽の光が大平原を薄っすらと照らし出している。
その光の先にある遥かなる王都を目指し、ハズラは迷いのない眼差しで前を見据え、ただひたすらに馬を走らせていった。




