第二十話 現実
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(ドォォォン……)
「ん……」
目覚ましは、地面に伝わる微かな振動だった。
少女は目をこすりながら上体を起こす。
枝の隙間からは小さく風が差し込んでおり、干している雨着に動きを与えている。
「ふっ…………んっ……」
ぼやけた世界のなか、少女はノソノソと四つん這いになって、欠伸をしながら雨着の裾に手を伸ばす。
手の平で押し付けるように雨着に触る。
すると、少しばかりのぬるい液体が服から滲み、少女の手に纏わりつく。
再び少女は大欠伸。
湿った手で目元を覆い、指の腹で再度、目をこする。
肩甲骨を引き、胸を張って、三度目の欠伸を披露する。
「…………着れないことも、ないか」
***
寝床の外に出て、少女は大きく伸びをする。
空を見上げると、分厚い雲――太陽は見えないが、おそらくは夜へと向かう道中。
地面を見ると、そこら中に水たまり――水面には無数の緑の葉が浮かんでいる。
激しい水流の音が静寂の森に響き渡るだけで、生き物の気配は全くと言っていいほどにない。
(ドォォォン……)
「また地震だ…………そういえば、起きたときも――」
「――ァァァ……」
「?? 今なにか……村の方からきこえたよう――」
「ァァァァァ――!」
(――ドォォォン……)
「やっぱり、きき間違いじゃない!! これは――!」
少女は無我夢中で走り出していた。
花弁から雫が落ちる星海を――
大挙して押し寄せてくる濁流を――
ひっそりと少女を見つめる禽獣を――
目にうつる何もかもを差し置いて、ただ、一心不乱にひた走る。
乱れた呼吸で空気を吸って――溜まった水を飲み込んで――
憎らしいほどの心の痙攣に全身全霊で抵抗する――
いちばん大嫌いな、 “あんなこと”にはなっていないと愚かにも願って――
(ドォォォン……)
「くっ……!!」
***
(ドォォォォン……! ドォォォォン……!)
『近い!! もう少し……』
さらに夜に近づき、視界の悪くなった森のなかを、少女は感覚だよりに走っていた。
「ハァ……ハァ……ハァ……――うわっ!!」
つま先になにかが引っ掛かり、走る勢いそのまま――手で体を支えることが間に合わず、濡れた草に顔面を引きずった。
地表にむき出しになっている木の根や、そこそこの石が顔の着地点になくてよかったというべきか――雨に濡れた地面は柔らかく、少女の感じる痛みは些細なものだった。
少女は両手をついて、上体を起こす。
「いててて……。おかしいなぁ……たしか、ここらへんは走りやすかったはずなんだけど……」
そう言って、少女は首を回して後ろに振り返る。
「…………」
そこには“ヒト”がいた――
道の真ん中で、目を開けたまま寝そべっている“ヒト”がいた――
腹を、その中身が見えるほど無様にさらしている“ヒト”がいた――
薄暗闇のせいか、上半身しかハッキリ見えない“ヒト”がいた――
体に塗った赤い塗料を、周囲にも散乱させている“ヒト”がいた――
ソレを見てしまった少女のすべての思考回路は、視覚情報に支配された。
なんの意味もなく瞳を動かし、なんの意味もなく瞬きをする。
それ以外の感情表現をするための余裕は毛ほどもなくなり――ただ、ソレと、ソレ以外とを開ききった瞳孔で行ったり来たりする時間が流れる。
「…………」
下唇を前歯で削り、固唾を飲んで――自身の心の修理が間に合っていないまま、少女はぎこちなく正面に首を回す。
森に木霊する、 “ナニカ”が遠ざかっていく足音――いっぽう、ここまで村に近づけばきこえるであろう【魔法】の音や、子どもの笑声は皆無。
これくらいの薄暗さであれば、本来、灯っているはずの村の光も、少女の目には届いていない。
少女は、前方の木の奥の――まだ見えていない闇黒を見据えて立ち上がり、ただ呆然と、赤く染まった草の道を歩きだす。
頭巾を深く被り、猫背になって、祈るように雨着の胸部をつかむ。
地面を踏みしめるたびに感じる、湿り気のある柔らかさ――それが今はとても、
『気持ち悪い……』
少女は、すでにわかっていた。
なんの気配もなくなった村がどんな状況なのかを――。
それでも信じたかった。
***
「……!!」
森を抜けた先に広がっていたのは――地獄。
ささくれだらけの木材と、むき出しになった室内。地面に横たわる黒ずんだ屋根。それ以外にも、中身がこぼれた餌箱と、まとめきれていない俵が見える。村のあらゆる場所には血がこびりついており、無作為に瓦礫が置かれている。
そして――見るも無残な、人の死体。
「ウ“ッ”!!」
彼らから発せられる鉄の匂いは、限界ギリギリだった少女の嗚咽感を強制する。
少女は崩れ落ち、冷汗を垂らして、ほとんど空っぽな胃から逆流してきたものを、無理やり戻し込む。
「…………カハッ!! ハァ……ハァ……ハァ……」
少女は四つん這いになって、肩で呼吸――
そのたび、口からは空気の音がなり、涎と涙と汗が目の前の地面に染みていく。
『なにが……起こったの……? どうして……みんな……あんな格好を……』
ぼやける視界で、地面に零れる水分を凝視し、現実から目を背ける。
その後、二度の嗚咽に苛まれるも、意識的に空気を吸って、少女は自らに落ち着きを促した。
やがて嗚咽感が消え、少女は目を瞑り、頭を振って、息を飲み込む。
大きく息を吸い、大きく息を吐く。よろめきながら立って、そして――目の前に広がる現実を再び視界に入れた。
――顔が半分しかない、幼子。
――四肢がひしゃげている、村娘。
――腹にあいた穴に体をねじ込まれ仲良く十字で寝ている、親子。
村でいちばん大きな建物だったものは、見る影もなくなり、そこには避難していたであろう多くの村人の死体が散乱していた。
その場所の近くには、二人の鉄の人が横たわっており――片方は顔面が潰され――もう片方は、両腕の肘から先を切り裂かれ、両目にそれぞれ突っ込まれていた。
そんな地獄の道を少女は震えながらに歩む。
一歩進めば、人の死体。もう一歩進んでも人の死体。
『――この現実に希望は見つからない』
そんなことはわかっていたが、それでも少女は村を歩く。
世界には夜が訪れ、光明ひとつない景色に――涙を流す。
鉄臭く、赤く染まった孤独の道――
――少女の湿った咽びが、静寂に溶けていった。




