第十九話 悪意
突然だった。
それまでピクリとも動かなかった“ナニカ”の首が、鈍い骨の音とともに少女に向けて回転した。
死んだと思っていた虫が突然、素早く動いたかのような気持ち悪さに、少女は“ナニカ”から目を逸らして、情けなく尻もち。
「…………」
「ウ“ッ”…………ん……?」
数秒経って、少女は恐る恐る“ナニカ”に視線を向ける。
そこには、体は進行方向へ向いたまま、首だけで少女を見つめる“ナニカ”がいた。
瞳がなく、崩れた輪郭によって顔の向きもあやふや――少女に焦点がまったくあっていない。
それなのに、少女は感じていた――
『 “ナニカ”の精神は、たしかにこっちへ向いている』と。
巨木を切り裂くほどの異形が目の前で意識を向けてきている。
状況だけで判断するならば、今すぐにでも全力疾走で逃げるべきだということを少女は理解していた。
生きているのか、死んでいるのかも――動物なのか、そうでないのかも――なにもハッキリしない存在。
ただひとつわかるのは、襲われればたちまち死んでしまうということ。
もっと小さな動物ですら仕留められないほどに弱い自分が抵抗しても、きっと無惨に殺される――
――そんなことはわかりきっていた。
――そう、状況だけで判断するなら……
「…………」
しかし、少女が感じたのは、絶対に襲われないという確信めいたもの。
直接そう言われたとか、笑顔を見せてくれたとか、そういうことではない。
少女は知っていた――自分に向けられる悪意が、どんなものなのかを。――嫌になるほど、さんざん村で味わってきた、その感覚を。
だから少女は、 “ナニカ”が自分に対して悪意を持っていないということに気づいた。
見つめあったまま、少女は瞬きをして問いかける。
「君は……ナニモノ、なの……?」
「…………」
「…………」
(……ゴギッ!!)
(ドォォォン……ドォォォン……ドォォォン……)
少女の問いかけには一切の反応を見せずに、鈍い音をならして“ナニカ”は再び正面を向き、歩き始めた。
少女は歩く異形を目で追いかける。
「…………」
遠ざかっていく足音と、弱まっていく地震。
「…………」
(ドォォォン……ドォォォン……ドォォォン……)
そして、もうひとつの足音が“ナニカ”のきた方角から近づいているのがハッキリときこえてきた。
さきほど通り過ぎて行った“ナニカ”によって、木々のあった道は開けており、二つ目の音の正体がすぐさま露わになる。
少女は“ナニカ”から目をはなして、二つ目の音の方を向く。
「…………!!」
今度は岩陰に隠れることなく、堂々と立って二人目を見た。
ソイツは最初に通っていった“ナニカ”と同じく、頭と手足は動物のようで、それ以外は黒い泥に覆いつくされていた。顔の輪郭は歪み、穴という穴からは黒い泥が溢れ続けている。
ゆいいつ異なる点といえば――
「…………笑ってる??」
輪郭の歪み方の影響か、獣顔の頬らしき部位が上へ引っ張られており、動物特有の鋭く尖った白い歯をソイツは見せびらかしていた。
瞳はなく、顔の表皮もボロボロ――その不気味なほどの笑みが少女の顔を険悪にさせる。
「…………」
少女は黙って、二人目の“ナニカ”が通り過ぎるのを待つ。
大きな足音と地響きが、少女の心拍を混乱させる。
意識的に口で大きく、ゆっくり呼吸しながら、ソイツの歩みを見届ける。
ヤツもまた、ただ一点だけを見つめて歩いている。瞳はないが、変わらない顔の向きから少女はそう察するができた。
木々を通りぬけ、川へと入り、水場を横断していく。
『できれば、さっきみたいに立ち止まらないでほしい…………』
そう願いつつ、少女は唇を翻して胸の前に握りこぶしをつくる。
(ドォォォン……ドォォォン……ドォォォン……)
「…………」
笑顔のソイツは、少女の願いどおり停止することなく、川を横断しきり、そのまま歩いていった。
地響きが小さくなっていくのを感じ、少女は「ほぉ……」と安堵の息を吐く。
「あんなにでっかいの、この森にいたんだ……今までよく出会わなかったなぁ……。あれだけおっきいと、もっと目立ちそうなのに……。やっぱり森の奥ってヤバいんだ……」
少女はこの森の危険性を再認識し、『奥、近づかないようにしよう』と心の中で強く誓いなおした。
「さてと」
少女は二人の“ナニカ”が森に紛れ込んで見えなくなったことを確認し、岩の上の雨着に手を伸ばそうと一歩――そのときに感じた膝への居心地の悪さ。
川の水流とは違う、ネットリしただれかの手が、自分の足を撫でているような感覚。
「ん? なんだろう?」と、少女は視線を自分の足元へ。
「…………」
膝に絡みついていたのは、黒い泥。
それが川の流れによって少女の足に絡みついていた。
周囲をよく見渡すと、岩の側面の凹凸部分にも黒い泥が溜まっていた。それ以外の場所ではすでに下流へと流され始めている。
「なにこれ?」
少女は屈んで黒い泥を両手ですくうように、持ち上げる。
見た目は、真っ黒な泥のよう――なのに、ザラザラ感は全くない。両手を上下左右に揺らすと、黒の塊と水が少しずつ混ざっていき、やがて手のなかにある水は、全体が薄い黒へと変わっていった。
今まで体験したことのない現象に「おぉー!」と少女は口を窄めて目を輝かせる。
しかし、少女は気づく。
「あ、これ、さっきの黒い人の、体のヤツだ……」
水に反射する自分と見つめあいながら少女は静かに考えた――手のなかのソレの正体がなんなのかを……。
考え始めて少し――けっきょく少女は形を崩さずに手を下へ運んでいき、川のなかに手ごと入れて、持っていたソレを川へと溶かした。
すでに薄まっていたソレは、流水に乗るや否や、すぐに溶けきり、行方は不明となった。
そして、再び自分の足元と岩の側面に目をやると、すでに黒はなくなっていた。
視界から黒がなくなり、動物がいないだけの、いつもどおりの景色になったところで、少女は再度、岩の上の雨着に手を伸ばす。
「うわー、やっぱり全然乾いてなーい! そりゃそうだよね……明らかに雨が降りそ――」
ボヤキながら空を見上げたとき、少女の右肩に冷たい水がぶつかった感触がした。
「あっ……これは……」
右肩にぶつかったかと思いきや、今度は額、その後すぐさま顎――体に水が触れる頻度はだんだんと増えていき、一瞬にして……
「うげげ、急にたくさん雨降ってきた……」
黒ずんだ雲が重さに耐えかねて、空から川が落っこちてきたのかと思えるほどの大雨が降り注いできた。
裸の少女は雨着を手に取り、川から脱出して、自分の寝床まで全力で走る。
「こんな急だとぉ……ハァ……困るよぉぉ……ハァ……」
***
木の枝で囲んだだけの寝床までたどり着き、少女は膝を抱えて縮こまっていた。
膝の間に顎を乗せ、背中を丸めて、干し肉をつまんで、齧る。
「これ、まだ濡れてて着れない……外は雨だから乾かせない……」
枝の出っ張りに頭巾をかけて、寝床内で雨着を乾かしていた。この小部屋の天井は低いため、服の裾は地面に広がり、その部分で皺ができている。
狭い寝床はさらに狭くなり、少女の活動範囲は足を満足に伸ばせないほどになっていた。
「裸で外に出るのは、なんか嫌だし…………やること、なくなっちゃったなぁ……雨降りそうだったし、服洗うの明日にするべきだったかも…………。まあやることないし――」
少女は自らの足を抱えたまま、その場で横になった。
「寝ーちゃお!」




