道化遊戯 正義しか見なかった刑事と正義の味方になれなかった探偵の回想 ゲオルギー・リジコフ その5
九段下交番には大規模な地下施設があるが、そこに改札口で騒いだ連中が連行されていた。
地上はよくある交番の顔をしている。
道案内をし、酔っ払いを座らせ、落とし物を預かる、都心の交番らしいささやかな器。
だが、地下鉄駅と直結し、九段下桂華タワーの警備と連動するこの交番の地下は、その見た目に反してずいぶんと広い。
警察の詰所、鉄道警察との連絡室、北樺警備保障の待機室、簡易な医務室、取調室代わりの部屋まで揃っている。
おかげで、改札口で騒いだ連中を一時的に突っ込んでおくぐらいの余裕はあった。
「だから言ってるだろうが! 俺を先に通せって!」
「うるせぇ! てめぇの方が怪しいに決まってんだろうが!」
「怪しいも何も、俺は善良な一般市民で――」
「一般市民が改札横の業務導線に体をねじ込むか!」
地下施設の一角では、さっそく怒鳴り声が飛び交っていた。
改札口で喧嘩していたスーツ姿の男、救急導線に滑り込もうとした連中、便乗して騒ぎを大きくしかけたヤクザの下っ端らしき男まで、人数だけは揃っている。
だが、人数が揃えば話が早いかと言えば、もちろんそんなはずもない。
全員が、己の値札を上げるために他人の値札を下げようとしていた。
「……やかましい市場だな」
地下へ降りてきたゲオルギー・リジコフが、パワードスーツのバイザー越しにぼやく。
隣にいたメイドの一人が肩をすくめた。
「皆さま、自分の方が高く売れると信じておられるのでしょう」
「見苦しい話だ」
「ええ。でも、値札がついたと思った人間ほど、よく喋ります」
その返しに、ゲオルギーは鼻を鳴らす。
彼が見に来たのは、誰が高く売れるかの品評会ではない。
彼をホームから引き離したコインロッカーの中身を確認するためだった。
「ゲオルギーさん」
夏目賢太郎警部が地下通路の向こうから歩いてくる。
相変わらず飄々とした顔だが、目だけは忙しく働いていた。
「騒いだ連中は大体ここです。
喚いているのが二人、観念したふりをしているのが一人、逆に静かすぎるのが三人。
お好きなものをどうぞ」
「市場にしろって言った覚えはないが?」
「刑事の先輩に習いましてね。騒がしい奴より静かな奴を見ろ、と」
ゲオルギーはその言葉にだけ、少しだけ口元をゆるめた。
「いい先輩だ」
「現場限定で、ですが」
「あいつらはどうせこの話の主役じゃないだろう?」
「ええ。こちらへどうぞ」
ゲオルギーの苦笑に夏目が交番所長室のドアを開けると先客が二人いた。
身なりから明らかに九段下桂華タワーのパーティー会場にいたと分かる人物二人を夏目が紹介する。
「こちらが樺太道警主席監察官の前藤正一警視正。
今回の釣りの現場責任者という役回りで、俺の先輩です。
隣に居るのが、警視庁の道暗寺晴道警視で、道暗寺男爵家当主として不逮捕特権で釣った魚を逃がす役です」
「どうも。現場の人間な上に今はしがない警備員だ。
肩苦しい挨拶はしなくていいだろう?」
『どうせ知っているだろうに』という言葉を飲み込んだゲオルギーに二人のお偉いさんが軽く会釈する。そして、所長用の机にコインロッカーから出てきたという金と食券が入っていた鞄と共に置かれていた。
「で、説明してくれるんだよな?」
「ええ。今捕まっている連中は小魚でしかありません。
大物がまだ網に入っています」
「大物ねぇ……そいつを逃がすために俺をホームから戻したのか?」
ゲオルギーの皮肉に前藤正一が口を挟む。
茶化しながらも、その目は仕事の色を失ってはいない。
「戻したというより、戻さざるを得なかった、が正しいでしょうね。
パワードスーツ姿のあなたがホームに居座れば、連中は大人しくなりすぎる。
そうなると、何を売りに来たのかが逆に見えなくなる」
「魚を泳がせたか」
「ええ。
もっとも、泳がせるつもりが、思ったより多く寄ってきた。
その点については、こちらの見積もりの甘さです」
そう言って前藤は、机の上に置かれた鞄へ視線を落とした。
黒革の、どこにでもありそうなビジネスバッグ。
だが、その中身はどこにでもあるものではない。
「まず、これが何かから説明した方が早いでしょう。
鞄の中に入っていたのは現金、それも札束です。
そして、北海道と樺太道で流通し始めている食券、正確には地方通貨へ移行前の券面が混ざっていた」
「食券がどうした。
ただの紙切れなら、こんな大騒ぎにはならんだろう」
ゲオルギーの問いに答えたのは、道暗寺晴道だった。
男爵家当主としてではなく、警視としての顔で。
「紙切れだからこそ便利なんですよ。
地方の第三セクターや自治体が抱えた簿外の穴、処理しきれない不良債権、裏に流れた資金。
それを“地域振興”や“住民サービス”の名目で表の帳簿に戻すには、こういう曖昧な媒体が役に立つ」
「食券を地方通貨として扱い、金融庁の網をすり抜けながら表へ戻す。
さらに、それをIC化して地域イベントや地方博で一斉に回せば、“使われた金”に化ける訳です」
前藤が引き取る。
その説明は、まるで講義のように整っていた。
だからこそ、ゲオルギーにはむしろ気味が悪い。
「なるほど。
出所の怪しい金を、地方振興の必要経費に見せかけて洗うと」
「ええ。目減りはする。
だが、最初から目減りを前提にした金なら、それでも十分なんです。
20億ドル規模の洗濯機が止まりかけている今、少しでも現金化し、少しでも表へ逃がせるルートは喉から手が出るほど欲しい」
夏目が鞄から食券の束を一枚抜き、机の上へ広げる。
古びた券面。印字の揺れ。地方ごとに違う意匠。
それらが雑多に混じっているのが、逆に一つの意図を示していた。
「普通の横流しなら、こんな風には混ざりません。
集めるだけ集めて、どこかで一気に洗うつもりだったのでしょう」
「地方博か、ICカード普及イベントか、あるいはその両方だな」
道暗寺の呟きに、前藤が頷く。
「桂華グループと岩崎財閥が前に出る。
道や樺太道が後ろで蓋をする。
そうやって作られた洗濯機に、アングラの金が滑り込む」
ゲオルギーは机上の鞄を見る。
そしてようやく、地下鉄駅の改札口であれだけ多くの人間がみっともなく群がった理由が、実感として腹に落ちた。
「つまり、今捕まっている小魚は、情報だけじゃなく、現金ごと逃げ込みたかった」
「そうです。情報だけでは司法取引の席につけるかどうか怪しい。
だが、洗濯機の中身そのものを持って来られるなら、話は別だ」
売り込もうとした小魚も、捕まえようとしたヤクザも、つまるところこの鞄の中身が大事だった事が既に分かっている。あの鞄を見た瞬間連中の目の色が変わったからだ。
そこから推測すれば、ゲオルギーにも大魚の正体が見えてくる。
「つまり、大物は洗濯機そのもの、もしくはその仕組みを吐いてくれると。
そりゃ、公安なら押さえたい所だな。
で、その大物ってのが花嫁の昔の男と?」
「可能性は高いでしょうね」
前藤が即答しなかったのは、まだ断定したくないからではない。
この場にいる全員が、すでにそうだと分かっているからだ。
「香港マフィアの洗濯機を知っている。
樺太経由の逃亡ルートも知っている。
しかも、花嫁への接触ルートまである。
この釣り堀に自分を売り込む魚としては、値札が高すぎるぐらいです」
「値札、値札と……品定めにもほどがあるな」
吐き捨てたゲオルギーに、夏目が苦笑する。
「その感想は正しいんですが、もう市場は開いてしまっているんですよ。
で、問題はここからです」
夏目は声を落とした。
戻した理由は、彼がキャリアではなく現場警官としての勘を持つからこそで、先ほどまでいた小野健一警視だったら褒めてくれるだろう。
「小魚ですら、あの大騒ぎ。
この大物をヤクザやマフィアが放置すると思いますか?」
夏目は暗にこう言っていた。
『本当にその大物はホームから落ちたのか? つき落されたのではないのか?
もし突き落とされたとしたら、そいつは、今どこにいる?』
と。




