道化遊戯 正義しか見なかった刑事と正義の味方になれなかった探偵の回想 小野健一 その4
小野健一警視にとって運が良かった事と、夏目賢太郎警部にとって運が悪かった事は、地下鉄の騒ぎが始まった時にまだ小野警視が会場に戻っていなかった事だろう。
そして、ゲオルギー・リジコフの『売り込みに来ている』という言葉が伝わった事で小野警視はとてもいい笑顔で夏目警部を問い詰める。現場の刑事が犯人を問い詰めるように。
「説明。してくれるよな?」
「……新宿ジオフロントの一件、裏社会にはある教訓を与えました。
『人死にが出ずに、なかった事にされた事件はもみ消される』。
その結果、奴らどう考えたと思います?
簡単ですよ。
だったら、自分たちも“なかった事にしてもらえる程度の騒ぎ”を起こして、その上で売れる情報を持って九段下に入り込めばいい、と」
夏目の声は低かった。
言っている内容の重さに比べて、あまりにも事務的だったからこそ、小野のこめかみに青筋が浮く。
「ふざけた話だな」
「ええ。けれど、ふざけた話ほど現実は乗ってくるものです。
しかも今回は、日米露が同じ釣り堀を作った。
魚の側から見れば、“ここに行けば誰かが値をつける”と考えるのは自然でしょう」
小野は煙草こそ咥えていないが、いかにも一服欲しそうな顔で天井を仰いだ。
その表情だけで、夏目には先輩がどこまで気づいたのかよく分かる。
「つまり、今改札口で暴れてる連中は、ただ逃げたいわけじゃない」
「ええ。逃げるだけなら、九段下なんて警備の塊みたいな所に来る理由がありません。
あいつらは捕まりたがっている。正確には、“捕まる相手を選びたがっている”」
「警察か、公安か、桂華か、米露のどっちかに拾われたいってか」
「その通りです。
そして、それぞれが持っている売り物が違う」
夏目はそこで一度言葉を切った。
部下に聞かせたくない話と、先輩にだけは言っておきたい話の境界線を探るように。
「売り物?」
「振付師本人の居場所ではありません。
そんなものを持っているなら、とっくにどこかが食っています。
持っているのはもっと半端な、けれど無視できない情報です。
金の流れ。
模倣犯の名簿。
香港や樺太に逃げた連中の潜伏先。
あるいは……振付師と接触したつもりになっている馬鹿の証言」
小野が鼻で笑った。
『まるで道化だな』という言葉を飲み込み別の言葉を吐き出す。
「本物じゃないが、偽物の寄せ集めでも火はつく、か」
「しかも、今の裏社会はそれで十分です。
振付師そのものを差し出せなくても、“振付師線に繋がる何か”を持っていれば、司法取引の席につけるかもしれない。そう考えた」
交番の外から、無線のざらついた音が聞こえる。
現場はまだ動いている。
その気配が、二人の会話をただの仮説ではなく、進行中の現実に変えていた。
「……で?
その中に、花嫁の昔の男もいると」
小野が低く言い、夏目は肩をすくめた。
犯人が観念して自供するみたいに。
「ええ。おそらくは」
「おそらく、で済ませるな。お前、もっと知ってる顔してるぞ」
「知っていますよ。けど、全部は俺の口からは言えない」
「便利な立場だな。キャリアってやつは」
「便利じゃありませんよ。便利に使われてるだけです」
夏目の返しに、小野は一瞬だけ口元をゆるめた。
だがすぐに刑事の顔へ戻る。
「元男は何を売りに来た?」
「二通り考えられます。
一つは、香港マフィアの洗濯機そのもの。
もう一つは、振付師を追う連中の方に売れる“樺太経由の情報”です」
「洗濯機の方が分かりやすいが、樺太経由ってのは?」
「新宿ジオフロントの前史ですよ。
2001年の未遂、東側製武器流通、木更津方舟、ロシアンマフィア、日本の暴力団。あのあたりの線は、一見すると切れているようでいて、裏ではまだ絡んでいる。
花嫁の元男は、その途中で死んだことになった。
なら、生き延びるために見たもの聞いたものは相当あるはずです」
「そいつを、ここで売る」
「ここなら買い手が揃っていますから」
その言い方が癪に障ったのか、小野は机を指先で軽く叩く。
苛立っているのが夏目にも分かるからだから聞かせたくなかったのにと目で訴えて小野に黙殺される。
「買い手、ね。警察を競り市扱いするんじゃねぇよ」
「先輩はそう思っているでしょうね。
でも向こうは違います。
警察も公安も、米露も、桂華も、“値をつける側”に見えている。
だからこそ釣り堀なんです」
小野は短く息を吐いた。
怒りと、納得と、嫌悪が混じったため息だった。
「……で、今の現場は?」
「売り込み希望者同士の鉢合わせに、追っ手が便乗して収拾がつかなくなっています。
日本側ヤクザは、“誰か一人でも値札付きで拾われる”のを嫌がっている。
香港筋も同じでしょう。
ロシアンマフィアは、場合によっては自分たちに不利な札だけ潰せればいい。
つまり、全員目的が微妙に違うせいで、現場だけが無駄に騒がしい」
「最悪だな」
「ええ。しかももっと最悪なことに、まだ本命が通った保証がない」
小野の視線が鋭くなる。
「……どういう意味だ」
「改札口の騒ぎは、あまりにも“分かりやすい”んです。
ヤクザの喧嘩。急病人。救急導線の開放。鉢合わせ。
全部本気でしょう。けど、本気であることと本命であることは別です」
「誰かが、さらにその外で滑ったか」
「ええ。
ゲオルギーさんが気づいて止めてくれていれば話は早いんですが、あの人の性格だと、“全部を疑って全部を止める”より“本命を読む”方へ行く。だから逆に間に合わない可能性もあります」
「褒めてるのか貶してるのか分からんな」
「現場向きだと言っているんですよ。先輩みたいに」
小野はそこで、ふっと笑った。
いい笑顔ではあったが、夏目から見れば完全に獲物を見つけた刑事の顔だった。
「なるほどな。
ようやく分かった」
「何がです?」
「お前ら上の連中が、何を釣りたかったのかだよ」
夏目が黙る。
小野はその沈黙を肯定と受け取った。
「振付師本人じゃない。
振付師を追うために、自分を売りに来る連中ごと釣りたかったんだろう?
本人が来なくても、模倣犯でも、資金屋でも、逃亡ルートの案内人でもいい。
釣り堀を開けば、向こうから“私はここにいます”って出てくる」
「……先輩」
「で、その結果がこれだ。
魚が一匹どころか何匹も飛び込んできて、しかも全部が別の餌を咥えてる。
現場が泥まみれになるわけだ」
無線が唐突に鳴った。
『こちら改札口! 改札前の混乱が広がっている。
潜んでいた暴力団関係者らしき男が階段から降りて加わってきた! 応援を! 応援を頼む!!』
小野の顔から笑みが消える。
夏目も背筋を伸ばした。
『至急警官を送る!騒ぎを上に波及させるな!!
騒いだ連中は交番に連れてこい!!』
「……現場になれてきたじゃないか。キャリアさん」
「優秀な先輩の指導の賜物でして」
小野が呟き夏目が苦笑する。
自然と先輩として指導してやるのも、小野が元現場の刑事として慕われているからだろう。
「そうだ。報告は前と後ろに気をつけろ。
特に混乱が広がって最初の報告が途切れるってよくあるんだ。これが」
小野の指摘に夏目がはっとなって無線機に叫ぶ。
「誰か!最初にホームに落ちた奴の報告を!!」
「直接ホームに上がれないからとホーム端の非常口を開けた後に急患の報告が……」
「そのホームに落ちた奴! 誰が確認した! 何処へ行った!」
無線の向こうが一瞬、妙に静かになる。
ざらついた電波音だけが、交番の空気を薄く引き延ばした。
小野健一は笑わなかった。
ただ、刑事の顔で夏目を見た。
「……ほらな」
改札口で喧嘩が起き、急病人が出て、売り込み希望者どもが我先にと群がった。
その全部が本物で、その全部が囮だった。
最初にホームから落ちた一人。その報告だけが、きれいに消えている。
祝宴の真下で釣り堀は濁り、魚は何匹も跳ねた。
だが、小野にはもう分かっていた。
最初の一匹だけは、もう釣り上がっている。
夏目が目を伏せる。
小野は、今度こそ本当に刑事の顔で立ち上がった。
「説明は十分だ。現場に行くぞ」
「帰ってください、先輩。パーティー会場に戻るのが仕事でしょう?」
「現場の人間にそんな理屈が通るか。
それに――」
小野は扉へ向かいながら振り返る。
「花嫁の昔の男が動いてるって分かってて、祝辞なんざ述べていられるほど、俺は器用じゃない」
夏目は額を押さえた。
運が悪かった。
ほんの少しでも先輩が会場に戻っていてくれれば、こうはならなかったかもしれない。
だが同時に、現場にとって運が良かったのもまた事実だった。
こんな泥まみれの状況で、最後に頼れるのは、結局こういう人間なのだ。
「……せめて、無線だけは切らないでくださいよ」
「誰に言ってる」
夏目のなんとも言えない声を耳に残して、今度こそ小野は出て行ったのである。
『道化遊戯』は一応日本推理作家協会に入った私がそれらしいものを作ろうという意図の元書いていたりする。ミステリーというよりサスペンスじゃねと私自身思ったりするがそれはそれで。




