I’m home(前編)
小豆島は、瀬戸内海東部の島である。中でも寒霞渓は名勝として有名だが、六月のこの日、盛りとされる紅葉には時期が早過ぎた。
元より薫子は、観光目的で向かうわけではないのだから、そんな情報は二の次と割り切る。
昨夜遅くに天候は安定し、出発の日は快晴。雨上がりの陽気は、薫子の背中を後押しするように感じられた。
それとは対照的に、幸彦は相変わらず重たそうに体を引きずるように歩いていた。右足を悪くしており、杖を持っているせいもあるが、それを差し引いてもペースが遅れている。
「ま、元カノに会うのは気が重いわよね」
薫子は腕を組んで一人合点していた。
来栖未来と寺田幸彦は高校時代交際しており、その別れも壮絶であったと記憶している。
俯瞰できる薫子だからこそ、その重みに共感できた。
過去を見定め、それを乗り越える旅の目的に叶う。呉越同舟と言った所か。
「ほらー、早くしないとフェリーの時間に間に合わないぞ」
明るく促し薫子は彼の手を握った。あくまで自然に。
「わかってる。けじめはつけるよ」
心中穏やかでないのか、幸彦はずっとミルクをこぼしたような顔をしている。
幸彦は、未来を傷つけたことを悔いている。その後悔と向き合うことは、彼の今後に良い作用をもたらすと信じたい。
「その意気よ。行きましょう」
三宮駅からバスに乗り、神戸港に着くとそこからフェリーに乗る。瀬戸内海を航海し、明石大橋をくぐった。薫子はデッキで口を開け、ただただ圧倒されていた。
不意のシャッター音に驚く。油断した姿をカメラに収められた。
撮影者の幸彦は一眼レフカメラを握っている。
「えー、何よ。どうせなら可愛く取って欲しいな」
薫子は手すりに手をつき、悩殺セクシーポーズ(?)でカメラの方を向いた。斜め四十五度を意識する。
「芸術的振興心をそそられない……」
何故かカメラをしまう幸彦。薫子は悪さをされないようにカメラを取り上げた。
「陰からこそこそ嫌らしい奴。カメラなんてやってたっけ?」
「趣味が高じて、今はプロカメラマンやってる」
驚愕の事実に、薫子は素っ頓狂な声を上げ、飛び跳ねる。
「えーっ! 何その新設定。聞いてないわよ」
幸彦は高所を専門としたカメラマンらしく、名刺も交換した。個展も開き、写真集も何冊か上梓していると聞く。高校卒業後、派遣の仕事で食いつないでいた幸彦だったが、建設途中のビルから撮った写真がさる高名な賞に入選したのだ。
記念写真を何枚か撮影した後、船内で昼食を取る。
薫子は肉うどんを注文した。幸彦はそれより安価なきつねうどんに箸をつける。
昼食後、売店を通りかかった薫子は思いつきを実行する。
「美堂さん、何これ。お揃いみたいで恥ずかしいんだけど」
不振がる幸彦に構わずミサンガを巻く。薫子も新調したものに取り替えた。
「これがあれば、お互いを見失わずにすむでしょ。もう逃がさないんだからね」
クロにも同じものを買ってやりたかったが、サイズが不定型なので断念した。
いくら世界を作ろうと、完全に同一ものを作り上げることなどできない。このミサンガのように、そして人間もまた掛け替えのない存在なのだ。
三時間後、フェリーは滞りなく小豆島に到着する。万一守護者の襲撃があった場合も想定していたが、肩すかしを食った。
幸彦の感情ほぐれてきた所で探りを入れたかったが、落ち着いて話をする状態にない。まずは来栖未来に話を聞き、螺々と合流してからでも遅くはなかろう。幸彦が目の前から消えることはもうないという確信があった。
「小豆島来るの、初めてだわ。こんな時じゃなかったらゆっくり楽しめたんでしょうけど」
思えば遠くに来たものだ。湿った風の匂いも別世界のように薫子の胸に染み込んだ。
冷静になれば、会社に負い目を感じている。宇田ちゃん達に早く会いたくなった。
日が暮れる前に螺々から教わった未来の住所を目指す。
未来は早くに結婚し、オリーブ農家を営んでいるという。
「くっくっく。見物だわねえ」
意地悪な笑いが自然と漏れる。幸彦はどんなリアクションをするのだろう。しかし、身から出た錆という面もある。第三者からすると青春の一ページに過ぎないのだが、彼にとっては軽くない話題だ。
幸彦の気配は小豆島に下りたってすぐ消えていた。まるで舞台袖に消えるように忽然と。
二
オリーブは温暖な地域に栽培され、小豆島の名産でもある。収穫時期は十一月で、初夏には白い花をつける。昨夜の雨で残念なことに花を拝むことはできなかった。
来栖未来は、幼稚園に下の子供を迎えに行くとから、あまり時間が取れないとせわしない様子で言った。
自宅の一軒家のリビングには、家族写真が目立つ。彼女の夫は四角い顔をしたガタイのいい男だった。日焼けしており農家というより、漁師に見えなくもなかった。
薫子は、雑誌編集者という触れ込みでお宅に上がり込んだ。働く女性の特集を組んでいると嘘をつき、インタビューにこぎ着けた。勿論警戒されたが、香澄の名前を出すと自宅に上がるのはわけなかった。螺々のことだから香澄に根回しを頼んだのかもしれない。
「香澄の紹介でわざわざこんな所まで、お茶ぐらいしか出せないけど。ごめんねー」
茶髪に染めた髪、メイクは薄いが目鼻立ちがはっきりしているため十分用をなしている。高校時代に比べて背が低く感じるのは、背中が少し曲がっているからか。ウェストがたるんでいるのを薫子は見逃さない。小さな優越感を抱く。
来栖未来は少女時代と何ら変わらないとは言えないまでも、その面影は十分残っていた。チェックのシャツの袖を捲り、流れるような仕草でお茶を煎れる。
「いえいえ、灰村さんの旅館でもこちらのオリーブは大変好評ですよ。私なんか家族の分まで買っちゃいました」
「お上手だね、全く。私でよかったら協力させてもらうよ」
来栖未来に薫子の記憶はないようだった。初対面の方がことが運びやすいが、
「オリーブが育つ土地は水はけがよくないとけないんだ」
「はい……、そうなんですか」
熱心に話す未来の声が、耳をすり抜ける。
「炭阻病っていう病気があって」
薫子が未来と出会ったのは、ねつ造された記憶の中で溺れていた時の話だ。それは真実ではないが、薫子は我慢ができなかった。
「卓球! しませんか!」
おとなしかった薫子が突然大声を出したため、未来は目を丸くして仰け反る。
「え? 卓球?」
薫子は場違いな質問をしたことを反省し、誤魔化すように笑った。
「す、すみません。灰村さんから卓球がお好きだと伺ったものですから」
「あ、はは……、そうだったんだ。昔はよくやったんだ。懐かしいなー」
未来は目前の薫子のことを忘れ、物思いにふけるように目を閉じる。
「そうだ。昔の話ついでに恋バナとかしちゃいません?」
薫子が機を逃すまいと水を向けると、案の定、蓋をするような反応が返ってくる。
「いや、だって仕事の話を聞きにきたんだろ?」
「まあまあ、皆さんにもお伺いしていることですから。取材対象の人となりを知ることで記事に厚みが生まれることもあるんですよ」
「記事ぃっ! そ、そんなことされてたまるか」
感情を露わにする未来に、釣り針がかかった感触を得た。
「もちろん、来栖さんが望まない記事は掲載しません。それに現在の旦那さんとの出会いにも繋がる話を聞きたいです。それなから大丈夫じゃないですか?」
薫子の押しの強さに辟易し、早く追い払おうとする心理が働いたのか、重たい口を開く。
「い、今の旦那とは、高校卒業して就職した工務店で知り合ったんだ」
その当時、未来の夫は小豆島を出て東京で働いていた。五歳年上の先輩で、時に厳しく時にやさしく未来を指導したようだ。大学まで野球一筋、口数は多くないものの実直の人と映った。
未来の方では当初恋愛感情はなく、向こうもまた同様に同僚としての関係が続いた。深い情を育む暇は与えられなかったのである。
「勤めてたところが結構ブラックでさ、こんな所いつかやめてやろうね、って二人でよく呑みながら話してた」
皮肉なことに、あれだけ固執していた幸彦と離れた未来は生まれて初めて男性に好意を抱いた。
それもまた恋だったのか疑わしいと、未来も薄々気づいていた。同じ境遇の者同士の傷の舐めあいに過ぎなかったのかもしれない。
「働くために生きてるのか、生きるために働くのかわかんなくなって。そんな時、旦那が小豆島に帰るって言ったんだ」
夫は老いた父親のオリーブ畑を継ぐために、職を辞したのだ。その決断に未来は動揺する。これから誰に頼ればいい。
「あたしも連れてって駄目もとで頼んだら、簡単に受け入れてくれた。笑っちゃうよな。手を握ったこともなかったのにさ」
夫の両親と顔合わせし、結納が執り行われた。あっけなく、地獄から抜け出せたことで未来はある恐怖を抱くようになった。
「あたしは旦那のことを愛してるよ、多分。子供も可愛いしさ。でも旦那はどうなのかな」
未来は結婚指輪をはめた左手を握りしめる。
「仕事からの逃げなんじゃないかって、美堂さんも思ったんじゃない? 一人で生きていけないから都合のいい言い訳に旦那を使ってるしたたかな女。本当はみんなそう思ってるんじゃないのか」
未来の不安を薫子は肌で感じる。寿退社すれば、女は結婚すればいいから楽だと陰口を叩かれる。男女平等の気風は以前よりも高まっているとはいえ、旧態依然とした空気も色濃く残っているのも事実だ。
「あたしは、全然成長してない。ゆーくんのことだって……」
薫子は耳ざとく反応する。着々と本丸に近づきつつある。
「それは、来栖さんが高校時代にお付き合いしていた男性ではないですか? 灰村さんからお聞きしました」
「あいつ……、口軽くなったのかな。これ絶対オフレコで頼むよ」
未来は灰村香澄と一人の男を巡って争ったこと。今は仲直りしてわだかまりはなくなっていると淀みない口調で喋った。
「それだけですか?」
「含みのある言い方するなぁ」
未来は時計を気にしながら、冷めたお茶を一気に流し込むようにして飲んだ。
「どんな人だったんですか? 美女二人を手玉に取ってたなんて気になるじゃないですか」
「やさしい、人だったよ」
形容詞を強調することで、印象を操作しようという魂胆が感じられた。美来自身、思い出を美化したかったのかもしれない。
「あたしも香澄も甘えてただけだったし、それがいけなかったんだ。ゆーくんを信じられなくて全部駄目にしちゃった」
「口に出さないとわからないこともありますよね。特に男の人はそういうところに目が行き届かなかったりするから」
見てきたように話すので、心証を害した恐れもあったが、幸い未来は単なる一般論と受け取ったようだ。
「何か、あんたと話してると昔に戻った感じがする。変だな、初対面なのに」
「よく言われます。それでどうなったんですか? その彼とは」
未来は目を泳がせた。彼女の罪に該当する質問を前に答えを練っていると思われる。
「……、あたしが高校卒業して以来会ってない。香澄も同じだと思う」
未来は幸彦を階段から突き落としたことは口外にしなかった。初対面の薫子に白状する度胸はないようだった。
「そうですか。でも二股かけるなんてろくな人じゃないですよね」
「よく知りもしないくせに、ゆーくんを悪く言うな!」
未来の必死の擁護に、幸彦への未練を感じる。
「……、失礼しました。でも移り気な彼なら新しい恋人を見つけてお二人を振ったのかと思いまして。そうだとしたらひどい話ですね」
未来は押し黙る。後もう少しで西野陽菜の情報を得ることができそうであった。
「ゆーくんは、そんな人じゃない。妹のことで悩んでたんだ。あたしも何とかしてあげたかったけど、結局……」
雪乃の死を思い出したのか涙に咽ぶ。薫子も、もらい泣きしそうになった。
「それも灰村さんからお聞きしています。ひどい……、話です」
「あたしも、一緒に猫を探してたことがあるんだよ。まさか元気なあの娘があんなことになるなんてさ」
香澄からの情報とも一致する。雪乃が猫を探していたというが、薫子がそれを知らないのが不可解である。単純な見落としだったのだろうか。
「ねえ、あんたのその手帳」
「はい?」
未来が薫子の手帳を指している。手帳の表紙は、ムッシュ熊五郎の顔がイラストで描かれている。手帳は試供品で市場には出回っていない。エゾテーを去る際、段ボール一箱をかっぱらってきた。
「それ何かのキャラクターなの?」
「ええ。私が以前勤めていた会社のマスコットキャラクターです。残念なことにもう役目を終えましたけど」
エゾテーは、ここ数年でクマ五郎の人気が斜陽になった事実に気づくのに遅れた。CMで話題になったことに胡座をかいたあげく、グッズ展開で大爆死。関係者のクビはおもしろいように飛んだという。もはやマーケティングの失敗というレベルではなくなり、CMは話題のアイドルに差し替えられた。元々、薫子のようなニッチに向けて細々と展開していればよかったのに、大衆の手のひら返しにしてやられた格好である。
「ゆーくんの妹、そのぬいぐるみを持ってた気がする」
薫子の動悸が早まる。ペンを握る力が強まった。
「ぬいぐるみ?」
「間違いない。いつも持って歩いてたから覚えてる。パパからもらった大事なものだって」
薫子は口元を押さえ席を立つと、お手洗いを借りた。
神隠し、猫、自分のルーツになりかねない過去の断片が意外な場所からつぎつぎと降ってきた。
「失礼しました。ぬいぐるみってもしかしてこれではないですか」
リビングに戻った薫子は、バッグから薄汚れたストラップサイズのぬいぐるみを未来に確認してもらう。
「そう! それそれ。大きさもそんな感じ」
未来は興奮した様子で、ぬいぐるみを持ち上げる。
「すごく元気な子だったな。それでゆーくんを困らせてたっけ……」
また涙腺が緩くなったのか、ぬいぐるみに涙をこぼしていた。
「すみません、その子、どこから来たか言ってませんでしたか? 名前は」
薫子の追及に未来は動揺していた。
「え? 妹は別々に暮らしてたんだからその家からだよ。変なこと聞かないでよ」
「名前は? どんな背格好をしていましたか」
未来はテーブルを乱暴に叩いた。
「いい加減にしろ! 根ほり葉ほり、あんた無神経過ぎるんだよ。しつこい。あの子の名前は雪乃」
「本当に?」
観念したように、未来は肩を落とした。
「誰にも言わないで欲しいんだ。ゆーくんのために」
「お約束します」
未来が話した内容は、およそ薫子の想像通りで望ましくないものだった。
未来の家の前の幅の広い畦道を、幸彦が歩いている。薫子が家に入ってから二十分近く、何度も往復していたのだが、決心したように郵便受けに封筒を押し込んだ。
来栖家の庭には、木製の手作りブランコがあり、せっちんが座っていた。膝の上にクロを乗せ、前後に大きくブランコを揺れている。
「みどうかおるこは、しんじつにたどりついたようじゃ」
せっちんが、毒を吐き出すように言うと、クロが腑抜けたあくびで応える。
「いずれにしろ俺たちには何も出来なかったんだ。薫子に託すのも手だと思うぜ」
クロの日和見を、せっちんは看過するつもりはない。
前回の世界では、水面下で役割を決めて事に当たった。
ニーナ、ナノは西野陽菜を救い、
せっちん、クロは、雪乃を救う。
利害が対立する事はないから、分担することで成功を収めるつもりだった。
「蓋を開けてみれば、ナノの独り勝ちってわけだ。そもそもあいつ、知ってたんじゃねえか、運命が変わるわけないってよ」
それを知りつつあえて、悲劇のヒロインを救う大役を買って出たのではないかと、クロは推測する。その結果、何が起こるのかもおおよその検討はつく。幸彦の歓心と悲嘆。ナノはそれを望んでいた。その落差が大きければ大きいほど、ナノが入り込む余地は生まれる。現状。必ずしも、ナノの思惑通りではないものの、流れを掴んでいるのも彼女だった。
「それに俺は寺田幸彦の妹を救った……、つもりだった。なのに、妹は死んでいた。どういうことなんだ、一体」
クロは雪乃と遭遇し、その際、別の次元に飛ばした。それが精一杯の救済だった。あの時、カヲリの元に入れ替わるようにしてやって来たのは、せっちんクローンである。
「おい、お兄ちゃん、お前の妹は双子かなんかか? 俺が飛ばしたのは誰だ」
幸彦は静かに首を振る。
「雪乃は一人だよ。でも君が会ったのは雪乃じゃなかったんだよ」
腑に落ちないクロだったが、せっちんが急にブランコを止めたので慣性の法則により、地面に落下した。
「せっちん、僕を恨んでいるよね」
幸彦は、ブランコの前に立つ。せっちんは着物の裾を力一杯握りしめていた。
「うらむなど、ふそんなことができようか。わらわは、ゆきのに、なりきれぬ。それでも、ゆきひこのそばにいたい。これはわがままか?」
「わがままじゃないよ。ずっと僕のわがままに付き合ってくれた君が、今ここにいてくれて嬉しい」
幸彦の胸に抱かれたせっちんは、表情を引き締めた。
その時、家から薫子達が出てきた。
幸彦はフードを目深に被って、できるだけ未来から遠ざかろうと慌てた。それでも杖をつく姿は注目を浴びざるを得なかった。
「ゆーくん?」
長年、執着した相手を忘れようはずもない。
未来は、はじかれたように動き、幸彦にすがりつく。
「ねえ! ゆーくんだよね? ねぇ」
「違います。人違いです」
第三者を装い、幸彦はうっとおしそうに振り払おうとするが、未来は足下にひれ伏し、許しを請おうとする。
「ごめんね! ごめんなさい! あたしのせいでそんな足に」
幸彦は、涙ぐむ未来の頭にためらいがちに手を置いた。
「この足のおかげで高い所に上るのが好きになりました。何とかして這い上がろうと本能が訴えるのかもしれませんね。低い山なら登山もできるんですよ」
幸彦の普段の不自由そうな振る舞いから、登山はできないと薫子は思いこんでいたが、そうでもないのかもしれない。あるいは未来を安心させるための嘘かもしれなかった。
「ただいま。今日はそれを言いたくてここまで来ました。そしてさよなら、僕の愛した人。お元気で」
幸彦は高校時代に戻ったような柔和な表情で未来に頭を下げた。それから幾分足取り軽やかに畦道を歩いていった。まるで重荷から解放されたように。未来もまた鼻水を垂らし、しゃくりあげていたものの気を持ち直していた。
「来栖さん、お話感謝します。今度ゆっくり卓球でも」
薫子が隣に立つと、未来は泣きはらした目で見上げてくる。
「ねえ、あんた本当は雑誌記者じゃないんだろ。ゆーくんを連れてきてくれたの?」
「いいえ。私は単なる社畜……、じゃなかった。貴女や、寺田君と同じ罪人、みたいなものでしょうか」
「ゆーくんとのことあらかじめ知ってたんだ。かなわねえな」
「貴女より知ってるわけじゃありません。寺田君に関して貴女より知る人なんてこの世にいないんじゃないんですか。だから忘れないでください、彼のこと」
未来は力強く頷く。
「ああ。忘れるわけないじゃないか。あんたの方こそ、ゆーくんのことよろしく頼むな。今のゆーくんにはあたしより、あんたの方が頼りになりそうだから」
歯がゆそうに未来は締めくくった。
薫子が去った後、未来は郵便受けの中に投函物があるのに気づいた。取り出してみるとお札で膨らんだ封筒が入っていた。
それを胸の前で握りしめたま未来は立ち尽くし、子供のお迎えは大幅に遅れた。
夕日照り返す瀬戸内海。絶景を見下ろす高台にせっちんは立っていた。
薫子はその背後で風になぶられる髪を押さえている。
「やっと追いついた。何も逃げなくてもいいのに」
「にげてなどおらぬ」
せっちんは薫子に背中を向けたまま、声を落とす。せっちんは、幸彦の前進を認めざるを得ない。それはせっちん自身の後退を意味していることも。
「寺田君は強くなっていく。もう高校生の彼じゃない。貴女もそれはわかってるでしょ」
真実を知り、薫子はより強く生きたいと望んでいる。幸彦にもまたそうあって欲しいと考えていた。
「しっておったよ。ゆきひこのじかんは、ここにしかないと。なれど、ひけぬ」
せっちんの絣の着物の背後から、黒い異形の翼が生える。全てを拒絶するような漆黒は、せっちんの内奥を象徴するようだった。
「このせかいでは、ゆきひこはすくわれぬ。わらわたちが、まもってやらねば、きずついたたましいは、すくわれぬのじゃ」
幸彦は本当に救われるのだろうか。在りし日の影を永遠に追い続けることが、彼の本当の救済なら、とっくにそれは叶っているはずだ。
「私も退かない。自分の過去と向き合う覚悟が出来たから」
「やはりそなたが、わらわのさいだいのしょうがいになるか。どこかでうすうすかんじておったやもしれぬ。これも、うんめいか……」
一触即発の気配を前に、薫子は戦闘に備えたが、せっちんは羽を羽ばたかせ、足を浮かせた。
「いまは、しゆうをけっするときではない。それに、わらわは、ゆきひこをしんじておる」
見下ろす先に、後から追いついた幸彦の姿がある。せっちんは、一瞥を終えると夕日を背に小豆島を去った。
「寺田君。私は、せっちんと戦うわ。私じゃないといけないの」
迷いを振り切るように薫子は宣言する。
幸彦の返事はなかった。彼もまた迷いの中にいた。




