もしも運命の人がいるのなら
ホテル従業員にタオルと着替えを借りると、薫子は幸彦を伴い、元来た狭い廊下を引き返した。
部屋に運ばれている間も寺田幸彦は、薫子の背中でぐったりとしている。衰弱しており意志疎通は困難であった。
「随分お人好しだな、お前」
床を小走りでついてきていたクロ(成猫に擬態)が皮肉を浴びせてきた。薫子は意に介さず先を急ぐ。
「誰かさんに似たのかもね。そんなことより、私に会いに来たみたいだし、話を聞いておきたいじゃない」
「話が通じる相手ならばいいがな」
浮き足だっているのは否めない。彼は正に敵の本丸かもしれないのだ。いつ戦闘に突入するかわからないため、一階に部屋を取った。万一修羅場になった場合の逃走ルートも把握ずみだ。無関係の人間を巻き込むわけにはいかない。
薫子より先に、クロはわずかに開けた扉の隙間から部屋に滑り込んでいた。
部屋を入ってすぐ、三メートルほど壁に挟まれた通路を抜け、ベッドが置かれた場所へ幸彦を運ぶ。
彼の服を苦労して脱がせ、水分をふき取る。パジャマに着替えさせ部屋の暖房を入れた。
全てを終えるとその足で部屋の入り口に向かう。
「おい、どこに行く?」
「風邪薬とか、適当に買ってくる。私もお腹空いたしね。彼が目を覚ましたら、そう伝えておいて」
クロがついてこようとしたが、扉を外から強く閉める。見張りは必要だ。無理に押し付けた。
成り行きで幸彦の看病をする羽目になった。そこまでする義理もないし、弱っている今なら腕づくで命令することも可能であった。
それをしなかったのは、薫子の倫理の問題に触れた上、幸彦が余りにやせ細っていたからだ。背負った時に、体重をほとんど感じなかった。
「全く世話が焼けるんだから」
薫子は満更でもなさそうに、雨が容赦なく打ちつける歩道へと足を踏み出した。
ホテルにいる寺田幸彦が、支配者という推測に背筋が凍ることもある。
しかし、パズルのピースは全て出揃っていない。答えを出すには性急過ぎるとも言える。
向かいのコンビニに面した信号に足を止められ舌打ちをする。一刻も早くホテルに戻りたい。
苛立つ薫子の背後から何者かが近寄ってくる。余裕をなくした薫子はそれに気づかず、肩を叩かれ飛び上がるほど驚く。
「うわっ!」
反撃しなくて正解だった。薫子の肩を叩いたのは、カヲリ=ムシューダだった。彼女もまた、薫子の過剰とも取れる反応に驚きを隠せない様子だった。
「あ……すみません。後姿でお姉さんかなと思って。驚かせちゃいましたか?」
「カヲリちゃん。ううん……、こっちこそ。今日、学校休み? 奇遇ね。それにしても梅雨って本当やんなっちゃう。ジューンブライドとか誰が言い出したのかしらね」
話していると、信号が青に変わる。薫子は振り返りながら足を動かす。
「ちょっとごめん、今急いでるから、また今度お店に寄らせてもらうわね」
俯きがちに立っていたカヲリが、突如大きく声を張り上げる。
「あの! お姉さんを、美堂さんを探していたんです。どうしても聞きたいことがあったから」
二
二人は近くの蟹料理専門店に入った。蟹の巨大なオブジェが看板代わりの店だ。カヲリは遠慮したが、薫子は腕をしっかり掴んで離さない。
「カヲリちゃん。蟹嫌い? アレルギーとか」
「好物ですけど……、ここって結構お高いんじゃ」
薫子のお財布に気兼ねしたように小声になるカヲリをいじましく思った。
「私の奢りなんだから気にしないの。じゃあ、貴女のお母さんも連れてきましょうか。みんなで食べると美味しいわよぉ!」
「あ、あ、わかりました。お母さんにこんな話したら絶対怒られる。ゴチになりますから内緒にして下さいね」
「そちも悪よのう」
同意が済んだ所で座敷に上がり、借りたタオルで互いの水気を拭き取る。
「お姉さん、眼鏡外してくれますか。顔も濡れてますから」
「貴女もね。じゃあせーので」
互いの眼鏡のつるを持ち上げる。どこか寄り目気味で、鼻が高い二人は似通った所が多々ある。
逞しい蟹が運ばれてくると、 カヲリは少し気後れしていたが、目を逸らせずにいる。誘惑に負けるのも時間の問題だろう。
「お忙しいようでしたけど、もしかして私、お仕事の邪魔してますか?」
」
「仕事関連じゃないから平気よ。雨で弱った猫を拾ったから、面倒見てるの」
カヲリは薫子をまじまじと見つめた。
「何?」
「い、いえー、ただ」
歯切れの悪い答弁を好まない薫子である。とはいえ、相手は可愛い後輩のようなものだ。話しやすいように会話を誘導する。
「無礼講ってことで、いいんじゃない? それに、私に何か話したいことがあったんでしょ」
カニの脚を剥いて小皿に載せカヲリに差し出した。カヲリは生唾を飲み込んだ。
「で、では、お言葉に甘えて」
カヲリは改まった様子で薫子の肌を指す。
「美堂お姉さん、一昨日より若返ってませんか?」
薫子は黙って蟹の甲羅を割る。そして笑顔で顔を上げる。
「ほうら、蟹を食べなさい。蟹を食べると元気になるわよ。若いんだから、どんどん食べて、大きくなりなさい。暴食は若さの特権だから。この年になるとねえ、全部お肉に転化されるんだから。笑ってられるのも、今のうちよ、ほんと。ふふ……」
薫子の当てこすりにカヲリは涙目で、頭を下げた。
「ひえー、お許しを。変な意味じゃ」
「全然気にしてないわよ。若返ったのは事実だから」
怪訝なカヲリをよそに、薫子は軽く冷えたビールを煽る。
「ま、冗談はさておき、そろそろ本題に入ろうじゃない。美の秘訣を知りたくて私を探してたんじゃないんでしょ」
カヲリは逡巡する様子を見せたが、やがて重たい口を開いた。
「私と、美堂お姉さん、ずっと昔どこかであってませんか?」
薫子は動悸が高鳴るのを感じた。
「どうしてそう思うの?」
「美堂お姉さんの箸の使い方です」
薫子は、箸の使い方が苦手でよく注意される。実家では勿論、付き合った男にも難色を示されることもあった。
「ああ、これね。自分でもわかってるんだけど、直らなのよ。でも箸の苦手な人なんか一杯いるわ。根拠としては弱いけど」
「それだけじゃないんです。うまく説明できないけど、でも……」
薫子もカヲリの存在をどう消化すべきか悩んでいる。カヲリもまたキャストなのかそれともゲストなのか。
時間のズレ。この世界で、カヲリだけが若い姿を保っている。そのことは何を意味するのだろう。
「年下に口説かれるとは思いもよらなかった。ありがとう、気持ちは嬉しいわ」
カヲリは茹でた蟹のように赤くなって否定する。
「そ、そういう意味じゃなくてですね、あの」
「わかってる。会っていても不思議じゃないわね、私たち。だって同じ世界で暮らしているんですもの」
過去、現在、未来、ひたすら同じレールの上を走ると思われていた電車の行先が、もし分岐していたとしてたら、世界は幾つも存在するだろう。それでも、真実は形を変えずそこにある。
真実を辿るこの道は決して間違いではない。例え、真実が残酷な顔をしていたとしても。
「お姉さん……?」
「何でもないわ、そろそろお開きにしましょうか」
蟹の料金に正直面食らったが、見栄を張るのは大人の専売特許だ。涼しい顔でクレジットカードで支払いを捌く。
「ご馳走さまでした」
深々と頭を下げる礼儀を持つカヲリに、薫子は破顔する。
「いーの、いーの。それにしてもよく食べたわね。美味しかった?」
「はい、蟹も美味しかったですけど、お姉さんとお話できて楽しかったです」
裏表のない素直なカヲリの言動は、薫子の感情を著しく揺さぶる。感極まり、力一杯抱きしめる。
「あーもう、こいつ、可愛いんだからもう」
「く、苦しいです。口から色んなものが出ちゃいます」
酸欠寸前のカヲリを解放し、表通りで二人は別れの挨拶を交わす。
「お姉さんの言った通り、この世界には私の知らない人がたくさんいて、知らないうちに出会っていたりしてるんですね。もっと色んな人に会いたい。早く大人になりたいなあ。そして運命の人と……、なんて」
にやけるカヲリとは対照的に、薫子は真顔で請け負う。
「なれるわ、貴女ならきっと。他の誰でもない貴女に」
「えへ、お姉さんにお墨付きもらっちゃった」
二人はお互いに去り難い気持ちを抱えていた。これが今生の別れになることを理解していたのかもしれない。
まるで磁石のように結びつきを強めた二人だったが、カヲリの携帯が鳴り、母親に呼び出されたのを契機に、距離を取った。
「じゃあ、また。あの、もしかしてですけど、お姉さんって弁護士さんですか?」
「そんなお固い仕事じゃないわ。社畜よ、ただの。どうしてそう思ったの?」
「何となく」
「貴女、そればっかりね。まあいいわ。それじゃ。あんまり男にうつつを抜かさないで、親孝行に励みなさい」
「ど、どうしてそれを」
「大人は何でもお見通し……、って顔してないと生きていけないの。ダサいでしょ」
「そんなことないです! お姉さんはかっこいい大人ですよ」
数年前に黒歴史を刻んだ薫子が聞いたら死んでしまうかもしれない。脳内お花畑だった自分から少しは脱却できているのだろうか。
「初めて言われたわ、そんなこと。貴女も、素敵な女の子よ。そのままで、十分」
奇しくも、二人は互いに最も欲していた言葉をかけあった。これは偶然だろうか、それとも運命と呼ぶべき必然だったのか。
さよなら、またね。
十年来の友人のように、心のこもった目配せをすると、二人はそれぞれの世界に戻っていった。
三
カヲリと別れた薫子は当初の予定通り、買い物袋を両手に抱えホテルに帰還した。
念を入れてフロントの従業員に人の出入りを訊ねた。元ヤン風の女性従業員は豪雨の影響からか、新規の客が現れないことをぼやいていた。薫子が不在の間、不審な人の出入りは全くなかったと請け負った。
「あ、そういえば」
「え? 何か気になることでも」
薫子は動悸と共に身を乗り出す。
「先ほどお連れさんが、外へ煙草を買いにでかけられましたよ」
「煙草? どこまで?」
一瞬、逃げられたかと思ったのだが、話を聞いてみると違うらしい。
「はい。歩くのもやっとという感じなのに、多分向かいの酒屋さんじゃないですか。十分くらいで戻ってきましたもの。お連れさんにも注意しましたけど部屋は禁煙ですからね」
煙たそうに、薫子を見やる。問題ばかり起こす迷惑な客だと認定されてしまったようだ。
薫子は部屋の扉を三度ノックした。すると、扉の下方から爪でひっかくような音がする。
「ちょっと! 病人出歩かせたら駄目じゃない。お守もできないの?」
薫子が激するとクロはしくじりを認めまいと、反論してくる。
「だって、この体だろ? 止められないじゃないか」
「元の大きさに戻ればいいでしょ。図体だけはでかいんだから」
「あ、そうか」
するすると、元の猛獣サイズになり通路を塞いだ。今度はその大きさが進行の妨げになる。
「今更、おっきくなってどうするのよ! 役立たず。ほら、退いて」
「ひ、ひどい……」
虎は文字通り小さくなってベッドの下に引っ込んでしまった。
幸彦は濡れたままの格好でベッドに腰掛けていた。口に火のついてない煙草をくわえている。
「昔、西野がさ、僕の前で言ったことがあるんだ。もしも運命の人がいるのなら、自分は幸せになれる。でも僕の前で言うってことは、僕は彼女の運命の人じゃないってことだろ」
薫子は、幸彦の隣に腰掛けた。雨の匂いが鼻を伝う。
「どうかしら。貴方に攫って欲しかったのかもしれないわよ」
「それが出来ないからこうしているわけさ。もうどうにもならない」
お手上げとばかりに諸手を上げる彼が哀れで、薫子は天井に目を向けた。
「確認するけれど、貴方が支配者で、その目的は西野陽菜や、雪乃ちゃんを救うこと?」
「そう」
幸彦は消え入りそうな声で肯定した。
ここまでの情報を整理すると、これまで薫子が見てきた世界は過去である。今薫子達がいる地平は、他の世界からすると未来に当たるわけだ。
すると、起点はどこにあるのか不明瞭になる。高校生の幸彦たちがいる世界が事の始まりで。高校生の幸彦やキャスト達が原因で出来た世界がA。
キャスト達が当時存在せず、時間を経てから誕生し、過去の世界に影響を与えているのが、Bという世界。
二つの仮説が成り立つがもっとたくさん存在しても不思議はない。世界は無数に存在するのだ。いずれにしろ、大切な人間は帰ってこない……
「貴方が支配者になったのはいつ?」
「半年前」
幸彦が嘘をついていないとするならば、Bルールが成立することになる。大きな収穫だ。
「駄目元で訊くけど、もうやめない?」
「やめない……、というかやめられない」
幸彦の言葉は、自分の意志ではどうにもならない状況に陥っていることを示唆していた。
「僕はキャスト達のことを誤解していた。彼らは確かに生きている」
「生きてないわ……、悲しいけどそう見えるだけよ」
「僕らの理の外にいる彼らを君の物差しでわかった気になるなよ」
「貴方はやはりそっち側の人間みたい。残念ね」
二人は同時に口を閉ざしたが、幸彦が先に話し出す。
「カヲリ=ムシューダと会っただろ」
「それが?」
薫子の声は震えている。一際若いカヲリに何故か嫉妬以外の言葉に出来ない嫌悪が僅かながらにあったことも事実であった。そのため、会話が少なくてすむ蟹を食べさせたのだ。
「君も“ああなる″。 君だけじゃない。世界の全てが。それがNew orderの真の完成」
「ちょっと待って! わけわかんない。キャストは人の心の隙間に漬け込んで過去に干渉するだけじゃないの?」
「君、暴食のキャストと取り引きしただろ」
幸彦は不躾なほどの勢いで、薫子に指を突きつける。
「おかしいと思わなかったのか? 時間を飛び越えて移動できるような強力な能力の代償が若返りなんて。リスクになっていない。普通は逆だ。年を水増しされるはずなんだ。なのに、君が失ったのは過去の時間。それってどういうことだと思う?」
「わ、わからないわ」
薫子の全身から、嫌な汗が吹き出る。結論を急ぎたくないが、かといってこの場から逃げ出すことも出来ない。
「キャスト達が生きる時間は僕らとは真逆なんだ。つまり過去にしか生きられない。もし僕らにもそのルールが適用されたとしたら?」
「ちょっと待った」
クロがベッド下から音もなく現れ虎の姿に戻っていた。
「支配者、それ以上は御法度なんじゃねえか? こんなことを言いたくないが、支配者権限に引っかかる。それにナノはあんたとの約束を守ったぜ。これ以上ないほど残酷な方法でな。気に入らないっていうならどうする? また別の世界に行きますかい? お供しますよ」
虎のからかう調子に合わせるように、幸彦は力なく笑った。
「いや、もう無理だ。ナノが許さないだろうし、もう疲れたよ」
うなだれる幸彦を胸ぐらを掴む。どうにもならない感情の捌け口にするように揺さぶる。
「勝手なことして、勝手にセンチ気取って、あんた何様よ」
「僕は……」
「あんた何でノコノコ私の前に何度も現れるのよ! 私に過去の世界を見せたりして、何がしたかったのよ。隠れてコソコソやってりゃ良かったじゃない。本当に」
薫子は、背を向ける。背中を震わせる。
「助けて欲しいなら、助けて欲しいって言わないと……、誰もあんたを助けられないじゃない。いい年してそんなこともわからないの」
薫子はかつて自分に幸彦を重ねている。常に何かに怯えるような生活だった。普通に生活していても、いつか父親に引き戻されるのではないか。怖かった。でも助けてと誰にも言えずに生きてきた。
人はエゴの塊だ。勝手な理由で人を求め、切り捨て、あまつさえ、それを運命と呼ぶ。
「もし、西野がここにいたら」
幸彦の頬から、水滴が滴り膝に落ちた。
「きっと、“大丈夫、全然平気″って答えただろうね」
「そうね、でも本当は全然平気じゃないんでしょう? 貴方も」
雨音が次第になりをひそめる。互いの息づかいまでも聞かれる距離で、薫子は幸彦の涙に気づかない振りした。
「明日は晴れるよ。小豆島にいくんだろ? 僕も行ってもいいかい?」
初めからそのつもりで、彼は自分を尋ねてきたと邪推する薫子だった。反対する理由はない。
前に進むのなら、一人より二人がいい。
これが二人の運命だ。




