在りし日の歌
薫子はホテルの四畳ほどの広さの浴室に入る。薄緑色のバスタブは、手足を伸ばすには手狭だったものの、自宅アパートよりは恐らく手入れが行き届いていて、好印象であった。
シャワーに手をかけた際、姿見に気を取られる。目を見開き絶句する。あるべきところにあるべきものがない。
「うっそおおお! マジで! 腰? これ腰? ウェストマイナス何センチになってんの? キャッホー!」
虎に時間融資を受けた影響で、薫子の肉体は逆行し、若返りと同じ効果を得ていた。代謝が良かった数年前は余計な体脂肪と無縁だったと見える。生活習慣の乱れた現代人は、加齢と共に負の遺産を引き継がなければならないらしい。
「肌の張りも昨日と全然違う。もっと融資を受ければ……」
見違えるような姿を思い浮かべるだけで、黒い笑みが浮かぶ。もう螺々に馬鹿にされずに済むのだ。しかしその誘惑は、ゲーテにおけるファウストが受けた誘惑と変わらない。危ういところで踏みとどまった。この若さも代償であるという自覚を忘れてはならない。
「時よ止まれ。お前は美しい、か」
ファウストの一節を口ずさみ、手際よくシャワーを浴び終える。
バスローブを着て浴室を出ると、虎はベットに横たわり、テレビを夢中になって視聴していた。
「もう起きてて平気なの?」
「病人扱いすんなよ。かすり傷だ。このくらい何でもねえ」
ダウンタウンのコントを観て笑っている虎は、人間の機微と遜色ないものを持ち合わせているように思える。
「ちょっとテレビの音量下げてくれる? 電話かけるから」
虎は不満そうにリモコンを手で隠してしまう。
「また螺々か? 後にしてくれよ」
「違うわよ。あいつの声なんてもう聞きたくない。ほらちょっと退いて」
虎をどかし、ベッド端に腰掛ける。電話の相手は北海道の叔母だ。
「薫ちゃん、あんた元気でやってるの? 都会はせかせかしてるって聞くけど」
育ての親である叔母は薫子の身をまず案じた。今の状態を叔母に教えるのは気が引ける。つきたくもない嘘に口が重くなるが、仕方ない。
「それが結構イイ男見つけちゃってさ。リア充って感じ」
「また不倫じゃないでしょうね」
厳しい声に、薫子の顔面筋は強張る。
「そんなんじゃないって。ちゃんとした人」
「お仕事は?」
素早い叔母の切り返しは、まるで尋問だ。自業自得とはいえ、心休まる暇もない。
「き、教師。学校の先生……」
信じがたいことに、つい数時間前話していた伊藤の話に直結しそうになってしまう。勘の鋭い叔母を相手に作り話をする余裕がなかったのだ。
「安定はしてるのね。人柄は?」
「背は高くて、きれい好き。時計はオメガ。車は、黒のポルシェで、電車とか好きで」
「本当に教師? ずいぶん羽振りがいいみたいだけど」
すかさず突っ込みが入った。
薫子も伊藤を疑惑の目を向けることは多々ある。教師以外の禄でもない収入源があるのは間違いない。結局の所、叔母は納得してくれた。
「ま、今度はうまくやんなさいよ。あんたが片づかないとこっちも安心して墓に入れないから」
「気が早いって! まだまだママには元気でいてもらわなくちゃ」
心配かけ通しの叔母を一刻も早く安心させたいのは山々だったが、その前にやらなくてはならないことができた。それはもはや宿命と言っても過言ではない。本題に入る。
「ねえ、私のパパのことなんだけど」
「あ……、何よ。急に」
薫子がその話題を切り出した途端、叔母は難渋する気配を見せた。
「確か、肝臓ガンって言ってたよね?」
薫子の実父は、薫子が十七歳の時に亡くなったらしい。一緒に暮らしていたにも関わらず、その当時の薫子の記憶は曖昧だ。螺々の実験による後遺症は色濃く残っていた。海馬に問題があり、意識の統合がうまくできていなかったのだろう。父親が切り取られたように、突然消えたように記憶している。父が亡くなってから、暮らしていた岡山を、離れて北海道の叔母夫婦の元に引き取られた。薫子の知る真実といえばそれだけだ。
「でもどうしてもあの頃のことを思い出せないのが気になるの。パパはどうして急に消えちゃったの?」
「それは! あんたがあの男にひどい目に遭わされたから、脳が忘れようとしているんだよ。思い出す必要なんかない」
断固たる口調で、叔母は結論を急ぐ。
生理現象で薫子の目を逸らそうとしているのが、今ならわかる。甘える時期はもうとうに過ぎたというのに。
「ねえ、ママ、私を気遣ってくれてるのなら、もう平気だよ。覚悟はできてる。どんな真実でも受け止めるよ」
叔母は薫子の勢いに気圧されたのか、秘密を打ち明けてきた。
「あの男は、交通事故でなくなったんだ」
薫子は怪訝に目を細める。死因を変えた所で印象の違いが生じるだけに過ぎないのではないか。
「十二月の初め頃、住んでた家の前の道路で倒れてたみたい。ひき逃げよ。犯人はすぐに捕まったんだけどね。トラックの運転手。もう娑婆に出てきてる。けど、行方はわからない」
薫子は過失を犯した見ず知らずの人間より父親の情報が知りたいのだ。歯切れの悪い叔母の説明に、若干の苛立ちすら覚える。
「こんなこと言いたくないけど、薫ちゃん、あんたを探しに出た所を……」
叔母は絞り出すようにそう告げた。
「ちょっと待ってよ! 何でパパは私を探してたの? 私はその時、どこにいたの?」
叔母は、しばし後、驚くべきことを口にした。
「薫ちゃんは、神隠しにあってたのよ。一ヶ月してからひょっこり戻ってきたって。どこに行ってたのかあんたは言わなかったけど、猫を探しに出かけたと言ったわ」
「猫?」
体を丸めた虎が目に入ると、頭痛がした。因果関係をほのめかされたようで、慌てて視界から外す。
「わけがわからない。私は神隠しにあってて、その間にパパが死んでいた。そんなことってある……?」
良心の呵責を得ようにも、実感すら湧かない。虚しさだけが胸に残る。
「薫ちゃんが自分を責めないようにこれまで黙ってたんだよ。ごめんね……、ごめんね」
叔母の涙声に、薫子は我に返る。
「ママは何も悪くないわ。言ったでしょ。全部受け止めるって。それより今まで黙っててくれてありがとう。愛してるよ、ママ」
薫子が叔母をママと呼ぶのは、生みの親以上の情を感じているからに他ならない。その信頼は些かも揺るがなかった。
「まさかこんな日が来るなんてねぇ……、あんなに小さかった薫ちゃんが、頼もしくなって」
叔母の涙声に薫子の涙腺も釣られて緩くなる。
「お、おおげさよ。私だってもう子供じゃないんだから」
「親にとっては子供はいつまでも子供なの。あ、そうだ。うちに来た頃の写真送ろうか。絶対びっくりするから」
叔母の言い方に若干戸惑いながらも、薫子は受託した。
「不思議ねえ。親は子供に大きくなって欲しいと思ってるけど、いつまでも変わらないでいて欲しいとも願ってる。欲張りなのよね。そんなの無理に決まっているのに」
叔母は感慨深そうに溜息をついた。
それから二、三他愛のない会話を交わした後、薫子は電話を切った。虎のごわごわした背中に顔を埋める。ほんのり男性の加齢臭がした。
「悲しいのに、涙が出ないの。どうしてかな」
虎は目を瞑ったまま答えようとしなかった。
二
翌日、薫子はクリーニングを終えて戻ってきたスーツに袖を通した。新品のような肌触りに、背筋が伸びる。このスーツは入社した時に、叔母に買ってもらったものだ。まだお返しはできていない。
守護者によって、使いものにならなくされた昨日のスーツは廃棄した。荷物は少ない方がいい。
「おっ、ついに遷都か。薫子」
虎が、ベッドの上であくびをしていた。尻尾はカーペットに垂らしている。
「悪いけどもう少し先になるかな。次は小豆島に行くけど、貴方は無理についてこなくてもいいわよ」
愚問と言わんばかりに虎は太い牙を見せた。
「俺の役目は、お前の時間を全て奪うこと。それが終わるまで離れるつもりはないね」
本音と建前は別なのだろうが、ありがたい言質である。薫子の体が分子レベルまで巻き戻るまで時間融資を使いたい放題ということを意味する。表だって協力を願い出ない所もいじらしくて、気に入った。
「さ、出かけましょう。と言いたい所だけど……」
虎の二メートルはあろうかというと図体は人目を引く。周りに関知されないところを見るに、この世界で守護者は大手を振って歩くことを許されているのだろう。薫子にはそれが未だに慣れなかった。
「変な所で神経質だな、お前。これならどうだ」
虎は一端、手足を伸ばすとゴムが伸縮するように一瞬でサイズを変更した。ぱっと身、単なる黒猫そのものだ。
「何それー! きゃんわいいいいん♡♡♡」
虎に頬ずりにしながら、エレベーターに乗り込む。
「そういえば、貴方の名前決めてなかったわね。なんて呼べばいい?」
「好きに呼べよ。どうせ短い付き合いだ」
「じゃあ、クロ」
クロは返事をしない。薫子の腕の中で眠った振りをしている。
ホテル一階のフロントにカードキーを返し、出立の準備は整った。
ところが、表は気勢を削ぐような土砂降りであった。客が濡れネズミになって、ホテルに入ったらしくフロントの一角は水浸しである。
水の跡をたどると、泥のついたスニーカーが目に入る。
そこから目線を上げると、総白髪の男が背中を丸めて立っていた。
「やあ……、出かけるところ?」
男は前髪から滴を垂らして、薫子に話しかけた。それから前のめりに重心が崩れる。薫子はとっさに彼を抱きとめた。
「ちょっと! どうしたの!」
薫子は彼の額に手を当てる。ひどい高熱だ。
「よかった会えて……、もう時間がないから」
鍵を握る来訪者、寺田幸彦は薫子に身を預けるようにして、気を失った。




