シュレーディンガーの猫は元気か?
美堂薫子は、シングルベッドの上で意識を取り戻した。白いシーツの匂いに集中する。実家と同じ柔軟剤を使っているとわかり、少しずつ膨張した心臓と呼吸が和らぐ。
目を動かすと、窓や照明の位置、扉の形に見覚えがあった。すぐには思い出せなかったが、どうやら昨日まで泊まっていたビジネスホテルの一室らしい。
体を横に倒すと、わき腹に激痛が走る。そこでようやく守護者たちとの激闘の記憶が蘇った。
ナノの憎しみの刃を薫子は避けなかった。避けきれなかったのではなく、あえてその身で受けようと腹を決めて、臨んだ所までは憶えている、
直撃していれば、体が二つに増えたに違いない。不死身のせっちんではないから、その時点で幽明界を異にしていただろう。
「あ、そうだ……」
薫子は、自分の左手を顔に近づけた。左手首には、ミサンガが巻かれている。ニーナの炎で黒く焦げたらしい。ちぎれそうだったが、健在と知りほっとした。
これは甲子園に行く前に、雑貨屋で買ったものだ。薫子が敗北しても、世界の変遷に気づかないかもしれない。それをつけている間は、薫子は今の薫子という確かな証明になる。気休めだが、螺々の発案にしてはなかなか悪くない。
ミサンガを確認し終え、物音を立てないように身を起こした。絨毯には虎がぐうぐうと眠っている。薫子を救った功労者だ。
「貴方のおかげで、軽傷ですんだみたいね
虎の背中の火傷は直っておらず、みみずばれのようになっている。薫子はその傷を愛着を持って眺めていた。
「ねえ、貴方はひょっとして……」
直感を遮るように部屋の電話がけたたましく鳴った。つるりとした白い陶器のような受話器を取って、耳に当てる。薫子宛に外線が入ったという旨を受け取る。興奮した様子の丑之森螺々だった。
「心配するじゃないか。携帯にも出ないし。今度と言う今度はもう……」
当てのない怒りを紛らわせるように螺々は、息を吐いた。
「ごめん。戦ってたから」
それだけで多くの情感が伝わったと見え、螺々の息をのむ気配がした。
「そこに伊藤もいるんでしょ? 悪いけどちょっと代わってくれる?」
しばし無音の後、伊藤が電話に出た。電話口の彼はあくまでクールであり、別に薫子の無事を祝っている様子もなかった。
「美堂さん、ご無事でしたか」
「一応って感じ。それより貴方に伝えなきゃいけないことがあるの」
「ハクアに関することでしょうか」
主従の絆に距離は関係ないのだろうか。伊藤にハクアと戦うことを事前に告げていない。それでも話はすぐに通じた。
「君が責任を感じることはありません。これもNeworderに組み込まれた運命の一環です」
もはや、ため息も突き果てる。
「あーあ、相変わらずドライな奴。演技でも悲しいふりしない? 普通。この場にいたら、涙が出るまで殴ってるわ」
薫子の指摘に、伊藤は挨拶に困ったように笑い声を立てた。
「以前の僕なら、彼女を全く省みることをしなかったでしょう」
「今は違う?」
「ハクアは、僕が作り出した幻影。白井亜矢子の偽物。彼女と向き合うたび、僕は罪の鎖に囚われていると感じていました」
伊藤と、白井某の因縁を薫子は知る由もないが、穏便な間柄でないことは察せられる。
「ですが、ハクアはハクアです。彼女の変わらない愛情に僕も知らないうちに動かされていたのでしょう。今は物足りない……、いや違うな。有り体に言えば、心にぽっかりと空いた穴は風通しがよくて気持ちいい」
「……、あんたふざけてるでしょ。今度会ったら、絶対ぶん殴るわ」
同情を寄せる余地はなさそうだ。受話器を置きそうになるも、話しておかなければならないことを思い出した。
「それはそれとして、ニーナ、ナノにも襲われたわ」
「そうでしたか。よく生還できましたね」
虎と合流したことをまだ明かしていない。虎の能力についても開示は慎重になるべきだろう。螺々にすら教えるつもりはなかった。
「ナノは私を憎んでる。どうしてかわかる?」
伊藤は沈思するように、言葉を溜める。
「彼女が西野陽菜の写し身だからでは?」
「さすがよくご存じね。螺々によると陽菜は私に会ったことがあるみたい。でも世界がこんなになるまで私はあの子を知らなかった。まして」
それぞれの守護者の意味が判明する中、ナノの憎しみの矛先がどうして薫子に向かうのか知る必要がある。
「こう言われませんでしたか? 西野陽菜は美堂薫子に殺されたと」
薫子は痛みを忘れ、ベッドから飛び起きる。
「それは誤解ですよ。だって」
酷薄な笑みを浮かべる様子がありありと目に浮かんだ。
「西野陽菜を殺した張本人は僕なんですから」
心臓を鷲掴みにされたような衝撃に、薫子の体は強張る
「冗談じゃ……、済まされないわよ。伊藤嘉一郎」
「もう一度言いましょうか。彼女は僕が殺したのです」
誇らしげに断言されると、薫子はますます疑惑を禁じ得ない。
「過去、貴方と、陽菜は、恋仲だったの?」
「はい。少なくとも彼女はそう思っていたでしょう」
伊藤にとっては西野陽菜はその他大勢の生徒の一人に過ぎなかった。彼女はその事実をどう受け止めていたのだろう。
「仮にあんたが殺したとして動機は何?」
「彼女が僕を本気で愛し始めてしまったからです。僕にはそれが苦痛でした」
伊藤は弄んだ生徒が自分に夢中になると、そのつど捨てていた。その絶望に触れることが、彼は愉しんでいたのだ。
「しかし、このようなしっぺ返しが来るとは僕も予想していませんでした。西野さんと瓜二つの彼女、ナノが僕の前に現れるまでは」
ナノは伊藤に誠意を見せろと迫ったという。
それから彼は支配者の操り人形として振る舞うことになった。
「ちょっと待ってよ。じゃあ貴方は陽菜を救うために支配者に加担したの? 」
「いけませんか?」
今、電話にいる伊藤が過去に干渉出来たとして、己の過ちを悔いているとは思えない。結果的に西野陽菜の体は現代に蘇ったものの、中身は別物だし、やはり幸彦に真相を聞く他なさそうだ。
「わかってください、僕も彼女を救えず、苦しくて堪らないのです。この十字架をおろすにはどうすべきか」
伊藤から陽菜の殺害の件を深く問いただすべきだったが、薫子も疲弊しておりそれ以上、突っ込む胆力を有しない。
「もう、いいわ……、丑々森に代わって」
再び、電話口に登場した螺々を少しばかり待ち遠しく思った。
「色男と会話して若返ったかね? これからの予定を話したいんだが」
薫子は一人東京に帰ろうと考えていた。今日のような大立ち回り演じて、誰かを巻き込んでしまう恐れもあったし、螺々たち探索を任せた方が犠牲は少なくて済む。個人的に調べたいこともできたし、それを螺々たちに知られるのは避けたい。
「薫子。東京に戻りたいなんて言うんじゃないだろうな?」
「そうよぉ。悪い?」
薫子は、開き直るようにふてぶてしそうにベッドに倒れた。
「もううんざりよ。無理矢理大阪まで連れてこられて、わかったのは本物の西野陽菜はもう死んでました……、支配者はそれを隠したくてこの世界を作りましたって、何よそれ、誰が救われるのよ。こんな物語」
秘密を暴くことはかさぶたを剥ぐことに等しい行為だった。恐らく小林雪乃の死も事実。ハクアの元になった、白井亜矢子という少女の死も一つの糸で結ぶことができる。
「繋がったな。これがNeworderか。生者の代わりに死者を役者として立てる。まるで地獄の蓋を開けるような企みだったとは」
薫子はそれを非難するのを内心、躊躇っている。眼下で横たわる虎に、ある姿を投影していたのだった。
「薫子、カラベラ祭りを知ってるか?」
「知らね。切るわよ、物知り博士。そこらの飲み屋で、一杯ひっかけてくる。明日には東京に帰るわ、仕事もあるし。後はあんたらだけでやって」
「まあ聞け、ものわかりのいい社畜よ。お盆は知ってるだろ? 祖先の霊の冥福を祈る祭りのことだよ。カラベラ祭りは、そのメキシコ版だ」
「何が言いたいのよ」
「つまりだ。お盆はほんの一時、死者と過ごす。それは境界が曖昧になると障りがあると本能で理解しているからなんだな」
「障り……」
「彼岸と此岸は明確に区別されなければならない。支配者は越えてはならない一線を越えた。これを野放しにすることは私にはできない。彼らを生み出した我々にはこの物語を終わらせる責任があると思わないか」
支配者を倒すということは、彼らをもう一度冥府に帰すことに他ならない。それができるのもまたゲストだけであることも事実だ。
「あんたは、支配者の力が欲しいだけでしょ」
「む……、いや、それはそうだが」
力説していたところを水を差され、螺々は言葉を濁した。
憎しみに駆られたナノは哀れだった。破れた恋に縋るニーナ、若くして非業の死を遂げた者たちの影である、せっちん、ハクア、皆それぞれ作り出された苦しみを抱え、喘いでいるような気がしてならない。それを終わらせる責任が薫子にあるとしたら、その重責に耐えられるだろうか。
「いいわ。もう少しだけ付き合ってあげる。個人的に気になることもできたし」
「そうこなくちゃ。全てが終わった暁には、君には私の右腕になってもらいたいんだ。嘉一郎も一緒にね」
貴様等外道と一刻も早く縁切りしたいとは口に出さなかった。螺々の荒唐無稽なプランも聞く耳を持たない腹づもりだ。手綱を握らせることだけは絶対にさせまい。
「さて、次の目的地だが、君には小豆島に行ってもらいたい」
「WHY?」
覚えのない土地に、疑問を呈するのは自然な反応だった。
「灰村香澄によれば、来栖未来が小豆島に住んでいるらしい。私と嘉一郎は一足先に東京に戻る。君が行って話をしてきてくれ」
「未来さん……」
寺田幸彦の恋人だった彼女もこの世界で別の人生を歩んでいるのだ。首を突っ込むには気が引けたが、支配者の手がかりになると螺々は踏んだのだろう。
「ねえ、灰村香澄はどんな感じだった?」
「ああ、気性が荒いのは玉に傷だが、なかなか色っぽい女になってたぜ。って……、君は彼女に会ったことはないんだったな」
面識がないにも関わらず、薫子は香澄の現在の姿を克明に想像できた。薄い膜が剥がれるように自然な働きだった。
「そうだ、灰村が妙なことを言ってたんだ。それがどうにも気になってね」
螺々は思い出したように付け足した。
「西野陽菜が死ぬ数日前、寺田幸彦は妹と一緒に猫を探していたらしい。それも黒猫を」




