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せっちん!  作者: 濱野乱
澪標編
78/97

魔王(後編)

決定的な変化だった。まるで、堰を切ったように嘉一郎の欲望は爆発する。

嘉一郎は、虐げられるたびに亜矢子の側にいられる免罪符を得た気になっていた。


魔王の言は正しい。嫉妬とは優れたものに抱く感情だ。


亜矢子は嘉一郎より優れた存在で、それに刃向かうなど所詮無駄なあがきだったのだ。


「はあ……、がっかりですぅ」

亜矢子は椅子に座り、憤懣やる方ない様子で、両腕を組んでいる。


嘉一郎は亜矢子を仰ぐように、例の洋間に正座させられていた。


「まさかテストでカンニングしようとしていたなんて。私が見つけてよかったですぅ」


亜矢子の手の中には四つ折りに畳まれたカンニング用紙が握られている。嘉一郎の筆箱から亜矢子が見つけたのだ。本当はわざと見つかるようにはみ出させておいたものだった。


「ご、ごめん……」


嘉一郎は伏し目がちに謝罪した。これも亜矢子の勘に障る行為だ。


「どうして余裕を持って勉強しておかなかったんですか?」


亜矢子はテーブルを指でコツコツ叩いた。


「遅くまでゲームをやりすぎて……」


嘉一郎は横目で亜矢子の様子を伺う。亜矢子はテーブルに手を置いたまま唖然としている。


「不正をしようとしたばかりか、そんなくだらない理由から? もう我慢なりません」


亜矢子はどこから仕入れたのか乗馬用の鞭を手に入れていた。それを嘉一郎の背中に向けて、一刀を振るうように打ち下ろす。


嘉一郎は肌を裂くような激痛に歯をくいしばる。


亜矢子は息を切らし、醜い獣のようにうなっている。ひどい時には蹴りが入ることもある。それを密かに期待していた。


ところが亜矢子の暴力は、この日長く続かなかった。苦しそうに喘いで鞭を落としたのだ。喘息の発作である。


嘉一郎は、亜矢子の身の安全よりも、自身の罰が中断したことを残念に思った。


「最近、寒くなってきたからか体調が優れないんです」


発作が落ち着いてからホットミルクを飲み終わると、亜矢子は憂鬱そうな溜息を漏らす。


「ごめん、それなのに俺、変なことばっかりして」


嘉一郎は形だけとばかりに頭を下げた。

亜矢子はそれを真に受けて、ばつが悪そうに眼鏡を持ち上げる。


「わかってるなら、行動で示してください。私だってこんなこと好きでやってるわけじゃないんですから。全く」


素に戻った亜矢子は、鞭を押入れの中に仕舞った。嘉一郎はもうここに用はないとばかりに腰を浮かしかける。


「嘉一郎、痛かったでしょう? 背中を見せて」


嘉一郎の背中の肌はミミズ腫れや、治りかけた切り傷の見本市となっていた。


亜矢子は丁寧な手つきで、嘉一郎の傷に軟膏を塗り込んでいく。ふとこれが塩だったらと想像して、嘉一郎は苦笑した。


「ああ……、こんなに傷になって。でも嘉一郎も悪いんですよ、あんまり粗相をするから。もう金輪際にしてください、ねっ!」


叱るように背中を叩く。嘉一郎は気持ちよさそうに呻いた。


楽しい時間はあっという間だ。

立つだけで萎縮しそうになる亜矢子の家の門扉から出ると、嘉一郎は耳にイヤホンを当てる。


「亜矢子君は元気だったねえ。君そのうち殺されるよ」


「まさか。亜矢子は病弱じゃないか。あれがなかったら完璧なんだけど」


持久力を完備した亜矢子に延々と拷問されれば、その望みも叶うかもしれない。それも仮定の話だ。


「亜矢子君の病を治してやろうか」


「え……?」


嘉一郎は魔王の世迷い言に、しばし言葉を失ったものの努めて平静を装った。


「そんなことできるわけないだろ。そのうち大人になったら亜矢子も元気になるさ」


「その予測は当たっているだろうね。しかし考えてみたまえ。亜矢子君が元気になったら、君はもう用済みになるかもしれないよ」


亜矢子は元来、社交的で誰にでも分け隔てなく接している。学校を休みがちになってからというもの、交友関係は限定的なものに狭まっているが、魔王の言う通り未来は明るくないのかもしれない。


「……って、騙そうとしても駄目だぞ。亜矢子の体を奪う気だろ」


嘉一郎は、祖父と魔王の関係を聞き知っていた。未だ半信半疑ながら、亜矢子に狙いをつけているのは明白である。


「そのつもりだが。悪いかね」


魔王は怯むことなく、嘉一郎に目論見を暴露した。


「は? 当たり前だろ。亜矢子は亜矢子だ。かけがえのない……」


侮蔑するような笑い声で嘉一郎を遮ると、魔王はまくしたてる。


「きれいごと言うなよ。君が必要としているのは、器としての亜矢子君だろ? 中身なんかどうでもいいじゃないか。一つ試してみようか」

魔王は軽い咳払いをして、声音を調整する。嘉一郎は固唾をのんで成り行きを伺う。


「嘉一郎、ひざまずいて亜矢子の足をお舐め」


「は、はいっ!」


それは紛れもなく高飛車な亜矢子の声音で、嘉一郎は条件反射的で返事をしていた。


「こんな感じで。君が望むならどんなプレイにも対応可能だぞ。なあ、やっちゃおうぜ」


魔王は、子供がイタズラをけしかけるように嘉一郎を誘惑した。


「いいや、やっぱり駄目だ! でも……、一晩考えさせて」


一旦は踏みとどまったものの、その夜、布団の中で煩悶した。しかし心の奥底で既に決意は固まっていた。

 

 二


校舎裏に亜矢子を呼び出した。

放課後で人気の少ない時間とはいえ、第三者から目撃されるのは避けたいところだ。


後ろめたい気持ちが残っていたのか、嘉一郎は亜矢子が来るまでの時間がひどく間延びして感じられた。あるいは待ち遠しかったのかもしれない。それは恋人を焦がれるものと似て非なるものだった。


「お待たせしました」


亜矢子が面映ゆい様子で現れた。普段片時も外さない眼鏡をしていないため、嘉一郎は一瞬別人かと戸惑った。


「コンタクトにしてみたんですけど、どうです?」


嘉一郎は亜矢子の顔を禄に見もせず、ポケットを漁っていた。


「うん、いいんじゃないの」


亜矢子の腕を掴み、校舎の窓から死角になる木の陰に引きずり込んだ。小鳥のようなか弱い悲鳴が煩い。


「痛い、乱暴しないで。嘉一郎」


「ごめん、でも時間ないからさ」


亜矢子は頬を赤らめ、三つ編みをいじっている。


「前にシューベルトが聴きたいって言ってただろ? 一緒に聴こう」


亜矢子は少し拍子抜けしたように、腕を垂らした。それからいいですよと怒ったように言ってのける。


「なあ、僕のこと婚約者だって、言ってたことあったけど、あれはどうして?」


嘉一郎は、魔王を聴かせるための間を稼ぐため、興味のないことを尋ねた。


「嘉一郎、覚えてないですか?」


亜矢子が疑わしそうに眉根を寄せた。今暴れられたら、厄介だ。誤魔化すと、余計悪化することはこれまでの体験で熟知していた。


「うん。覚えてない」


「ふふ、でしょうね。亜矢子が勝手に思ってただけですから。片思いですぅ」


二人は差し向かいで沈黙した。それは居心地の悪くないもので、どちらも口を開くのをためらったほどだ。


「嘉一郎、私の肖像画を描いてくれたの覚えてますか?」


それは恒例の遠出の際、嘉一郎が描いたものだった。高校受験を控えた中三の冬、二人は寒風吹きすさぶ海辺を散策したことがあった。


どうしてそんな陰気な場所にわざわざ出向いたのか、どちらも覚えていなかったが、そこで嘉一郎は亜矢子をスケッチし、油絵の肖像画を描いた。


出来は思わしくなかった。気候に釣られて色が重たくなり、亜矢子の気質と遠い印象の絵が完成した。 


気晴らしに描いたものとは言え、亜矢子に似ても似つかないものを渡すわけにはいかず、廃棄しようとしたが、本人は意外にも満更でもなさそうであった。


「実はあの時まで、嘉一郎のこと何とも思っていませんでした」


軽い目眩がした。亜矢子とは中学校一年からクラスが同じだったから、控えめにでも好意を抱かれていると自惚れていたのだった。


「でもあんな絵でどうして?」


亜矢子は嘉一郎の鈍感に辟易したように、軽く肩を押した。いつもの折檻とは違い、彼女の手が吸いつくように感じられた。


「亜矢子わかったんです。嘉一郎は本当の私を見てくれる。醜い私を受け入れてくれる。この人と一緒にいたいって」


天地がひっくり返りそうな衝撃で、嘉一郎は側の木に手をついていた。自分は亜矢子を、まるでモノのように扱おうとしているのに、彼女は全幅の信頼を寄せてきている。


このままでいいはずがない。


嘉一郎は、計画の中止を決断した。土壇場で人の道に立ち返ったのである。


「さあ、シューベルトを聴くんでしょう? 片方借りますね」


亜矢子は嘉一郎の手から、イヤホンを取り上げる。


「駄目なんだ。やっぱりやめよう」

「え?」


亜矢子は普段のならいで嘉一郎に遠慮なく食い下がる。


「ここまで誘っておいてそれはないですぅ。曲は何ですか?」


「ま、魔王」


亜矢子は不吉な響きを嫌ったのか、イヤホンを耳に当てるのを少し躊躇する。


「確か、怖い曲でしたね」


「そうなんだ、浚われるんだ。亜矢子も。行っちゃ駄目だ」


動揺と焦りはうまく伝わらず、懇願も聞き届けられることはなかった。


「嘉一郎と一緒なら怖くないです。告白のお返事は、曲を聴き終わってからでいいですから」


亜矢子のさらさらの髪が持ち上げられ、イヤホンがはめられた。目を閉じたまま音楽に聴き入っているようだった。


思い返せば、魔王と接触して嘉一郎は何事もなかったのだ。亜矢子もそうなるのではないか。一縷の希望はあっけなく崩れさることになる。


「……っ!?」 


亜矢子は眉間に皺を寄せ、こめかみを押さえた。


「いいからイヤホンを外せ、それは」


嘉一郎はこれまで以上に亜矢子の安否を心配した。しかし時既に遅し。


「耳鳴りが、痛い……、嘉一郎、助けて……」 


魔王の冷たいかいなに亜矢子が浚われていく。嘉一郎はただ指をくわえて見ていることしかできなかった。


倒れた亜矢子は頭を押さえ、地面を芋虫のようにのたうち回る。目を背けたくなるような凄惨な光景を前に嘉一郎は止まることすら難しくなった。


「あ、亜矢子」 


「あたま、頭が、いたっ……、くて、ああああああああ」


一際甲高い悲鳴と同時に仰け反ると、一切の反応がなくなってしまった。まるで形だけをそこに残した抜け殻のようだった。


「まさか、死」


自分の責任の有無を考え、それを退ける。亜矢子を助ける方法を探るのが先決だ。


「おい、魔王! どういうことだ。亜矢子はどうなったんだよ」


「いやー、すまんすまん」


切迫した状態でイヤホンを当てるも、暢気な反応に怒りすら沸く。


「結論から言おう。彼女の中に入り込むのに失敗した」


亜矢子は?

これからどうなる。去来する思いは一つとして明るいものではない。


「落ち着けよ。まだ話は終わってない」


嘉一郎は震えながら、イヤホンを深く耳に押し当てた。


「彼女もまた”魔”に対する抵抗が強かったようだ。しかし、君ほどじゃない。今現在、私と、彼女の回線が混在している状態にある。君が呼びかけてやれば、白井亜矢子は意識を取り戻すだろう」


「い、いいのか? 体が欲しかったんだろ」


嘉一郎は早期解決に疑念を傾けた。狡猾な魔王にしては調子が良すぎる。


「私に乗っ取られないためには、明確な意志が必要だ。彼女にもそれがあって、私を拒んだ。それに敬意を表してこの場は引くよ。なあに、体ならいくらでも探せるからね」


祖父を教訓に、安易に乗りこなせない体は避けておきたい事情も透けて見えたが、今は好都合だ。後は亜矢子が目覚めれば、全てが元の鞘に収まる。


悪臭が鼻をついた。


ふと、目を落とすと亜矢子の足の側の地面が黒く湿っている。失禁していたのだ。


白目を剥き、口からは涎を垂らしている。大きく開けた口から普段与り知れぬ奥歯の銀歯の被せものが光っていた。


これが本当に、自分が仰ぎ、虐げられることを望んだあの白井亜矢子なのだろうか。


嘉一郎は亜矢子の口元に、耳を寄せる。自分の名前を繰り返し呼んでいる。まるで黄泉の国のイザナミの呼び声のようで、嘉一郎はすかさず身を引いた。


「なあ、何て呼びかければいい?」


「野暮なこと聞くなよ。ジュリエットに囁くロミオの振りでもすりゃあいいだろ。催眠がかかりやすい状態だから何でも君の言うとおりになるぜ」


それを聞いて、嘉一郎は薄笑いを浮かべた。亜矢子の耳に舌をつっこみ舐りつくすと、愛の言葉を投げかける。


「亜矢子、舌を噛み切れ」


亜矢子の下顎に力が加わる。口の端から赤い糸が垂れ、しだいに泡を含むような黒い流れとなった。


「おいおい、少年、何やってるんだい。亜矢子君が死んでしまうじゃないか」


「いいんだ。これで。汚い亜矢子なんてもういらないよ。僕は完璧な亜矢子が欲しかった。もうどこかに行ってしまった。ああ……、亜矢子、僕を置いていかないで」


嘉一郎は亜矢子に覆い被さって慟哭した。

  

 



あれから二十年以上経過してもなお、伊藤は亜矢子の面影を追っている。


教師という職を選んだのも、手に入らない憧憬への自覚あってのことだった。


美しく気高いものを汚すその瞬間でしか、オーガズムを感じられなくなってしまった。亜矢子の呪いかもしれない。


嘉一郎は、旅館の客室で眠ってしまった丑之森螺々の素足の裏を丹念に舐めていた。


汗に混じって、石鹸の匂いが鼻をついた。


西野陽菜の味とは違う。中身が違うだけで、足の味も変化するらしい。余人には知られぬ発見である。


隣室には布団が敷いてあり、螺々を運んでゆっくり横たえた。


「うーん……、答えは竜頭蛇尾……、だ」


螺々は陽菜と違い、恐ろしく寝相が良かった。本来の陽菜は、ひどい寝相で同じベッドにいると蹴られるのは当たり前。ベッドから落ちるのが心配で一晩中目が離せなかったほどだ。


かつて嘉一郎は、眼下の西野陽菜と同じ姿の少女を汚したことがある。


彼女もそれを望んでいたし、彼は盲目的に彼女に従った。亜矢子にそうしたように。


だが、その蜜月は唐突に終わりを告げた。

寺田幸彦の存在だ。


彼は伊藤に似ている。見上げるだけで満足する卑怯な人間。


案の定、彼は手を伸ばすだけで陽菜に触れることすら叶わなかった。


伊藤に対する罰が白井亜矢子の写し身、ハクアだとするなら、幸彦に対する罰もまたキャストが執行することになるのだろう。


いささか嫉妬の念に駆られ、目の前の螺々の体で欲求を解消しようと、浴衣に手を入れようとした所、


「お客様、夜分遅く失礼致します」


年増の仲居が若女将、灰村香澄の意識が戻ったと報せにやって来た。


伊藤は何食わぬ顔で螺々を起こし、香澄のいる離れに向かった。


呪われた一九九九年の刻の歯車がゆっくりと動きだそうとしているのを、遠い大阪にいる薫子は知る由もない。

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