決意
冷水のシャワーが頭上に降り注ぐ。美堂薫子はバスタブの縁にもたれていた。スーツを着たまま、焦点の合わぬ目、背中は瀕死の野鳥のように、か弱く上下している。
「ちがう……、私じゃ、ない」
さしもの薫子でさえ、十時間以上の水浴びで肌の感覚は失われている。低体温著しいが、悲しいかなそれでも意識が途切れることはないのであった。
唇は絞り出すように譫言を繰り返す。
「殺したのは、私じゃない……!」
一
ビジネスホテルをチェックアウトした薫子は、一つ所に向けて歩きだした。
昨日、ハクアは甲子園で待つと宣戦布告した。急がなくてはならない。何せあれから一日が経過し、十四時を過ぎているのだ。
これまで何をしていたかと言うと、ホテルを叩き出されるまでシャワーで頭を冷やしていた。替えの服がないため、近場の老舗ブティックまで、ホテル従業員を走らせ、ことなきを得た。
『ざ・わーるど』というロゴのついたTシャツとジーンズに便所サンダルで辺りをうろついても余り人目が気にならないのは、昨晩の螺々の報告があってのことだろう。
支配者の取り戻したかったものを知った。それは薫子が踏み込めない地平の話であり、知ったことを後悔する内容であった。
そのこともあって踏ん切りがつかない。これからハクアと戦うことに意義が見いだせなかった。
「でもどうしろって言うのよ、私に」
気づけばカップ酒を握り、街を徘徊している。これが美堂薫子の物語だとしたら惨めが過ぎる。
「酒がまずいと心が病んでるらしいぞ。気をつけな」
通天閣などの観光地を回ってから電車を乗り継ぎ、気づけば四天王寺動物園に足を踏み入れていた。平日にも関わらず、家族連れが肩で風を切って歩いている。檻の動物の方が気を遣っていそうだ。
薫子は虎の檻の前に立っていた。虎は腹ばいで週間少年ジャンプをめくっている。爪が鋭いから表紙はとっくの昔にはがれたらしい。
「げっぷ」
薫子が人目も憚らずげっぷをした。すかさず年長者のような渋い声の虎に注意される。
「汚ねえな。そんなんじゃ嫁の貰い手も来ねえぞ」
「余計なお世話よ。ていうか、貴方喋れたのね」
檻の中の黒い虎は、笑うように目を細めた。金の縦縞の混じった独特の毛並みが特徴の、暴食のキャストと薫子は断定した。
「レベルアップって奴よ。他の守護者もそうなんじゃねえか」
「守護者?」
薫子は耳なれぬ言葉に反応した。
「もう俺らはキャストじゃねえ。秩序を守る守護者に格上げされたのよ。勝てば官軍とは正にこのこと」
「私と螺々は、幕軍ってわけね。でもそっちの方がわかりやすい。倒すべき相手がいるのはいいことだわ」
果たしてそれでいいのだろうか。迷いがなかったら、甲子園に今頃たどり着いていただろう。
「お前、暇そうだなあ。羨ましいよ。こちとら動物園の専属タイガーという身分に甘んじているというのに」
「貴方も私に、会社に行けっていうの」
虎はちらっと、薫子を視界に収めた。
「それはお前が決めることだ」
薫子はひとまず安堵した。自分はどの程度戦えるのか自信がなかったし、自分のキャストを完全に敵に回すのも避けたかった。
「それはそうと、どうして動物園なんかに?」
よくぞ聞いてくれたと、虎は身を起こし延びをした。
「決まってるだろ。お前を待っていたんだよ、美堂薫子」
薫子の背後を、ジュースを持った子供が走り抜ける所だった。子供はつまずき、缶が手から勢いよく飛び出し、放物線を描いた。ただし、地面には到達せず宙に停止していた。
空を通過しようとしていた鴉も羽ばたき止めている。
飼育員は象に水をまく姿で硬直し、飛び込んだペンギンは嘴を水面に入れて止まっている。
「これは、貴方の仕業?」
時間の停止現象を薫子は落ち着いて受け止めた。
「まあな。これが俺の能力、”時間融資”」
自慢げに披露するだけのことはある。その気になれば薫子を瞬殺できる能力だ。
「前の時と違うけど。これもレベルアップって奴?」
虎はあくびをした。すると、子供が地面に転び泣き出し、ペンギンは水面に飛び込んで、飛沫を上げる。
「そういや、お前はあの一九九九年を見ていたんだっけ。そしてこの世界で真相にたどり着けたみたいだな」
「真相を」
西野陽菜の所在が物語の真相だとしたら、やはり支配者は寺田幸彦と見て間違いなさそうだ。螺々もそう睨んでいると言っていた。
「明らかにしたところでどうなるのかしら。この世界では、もう全ては終わったことなんでしょう?」
「時間を司る俺からしたら、まだ始まってもいないんだ。支配者もそうだが、お前ら人間は自分が如何に小さな箱にいるか気付こうともしない。それに気づけりゃあるいは……」
虎も支配者に思うところがあるらしく、言葉を濁した。
偽りの秩序を守るための守護者。彼らと出会うたび、虚しい気持ちに浸るのは避けられない。
「寺田君はどこにいるの? 彼と会わなきゃ」
「知るか。そんなことより、薫子」
肌がざわつく。どんな交渉を持ち出されても不利であることは変わりない。先手を打たなかった薫子の失態だ。
「取引しようぜ。俺をここから出せ。その代わり時間を融資してやるよ」
二
薫子は市内の量販店でスーツを新調した。戦うのに不向きとは言え、これが今の薫子の全てのような気がしてならない。まるでキャラクター性を堅持しようと躍起になる学生に逆戻りした気分だ。
これが支配者の目論む逆転現象だとしたら、虎が往来を通行することもあるべき秩序に含まれるのだろう。
薫子は動物園の檻を素手でねじ曲げ、虎の脱走を幇助する羽目に陥っていた。
強引に時間の融資を持ちかけられ、虎が脱走する際に時間停止を許諾せざるを得なかった。あのまま放置するのも気が咎めた。
「なあ、少年ジャンプ買ってくれよ」
虎は薫子の手に鼻をこすりつける。
「貴方、さっき読んでたじゃない。あれ今週号だったでしょう?」
ハクアのワゴンに最新号が積んであったのを覚えていたため指摘すると、虎は不可解なごね方をした。
「こち亀が最終回なんだよ。買ってくれなきゃこっちにも考えがあるぞ」
「? こち亀が終わるなんてあり得ないでしょ」
この当時、ジャンプの長寿マンガが終了するとは夢想だにしない薫子であった。
「今西暦何年だったか」
「時間を操る癖にそんなことも知らないの? 今は二千十年……」
得意になったのも束の間、口を閉ざす。
「そうかそうかまだ早かったか! 間違えた。もういいよ。ハクアの所に行こうぜ」
薫子は足を止めた。
「何迷ってるんだよ。あいつを倒さないともっとヤバい奴らが来るぞ。俺はお前を守ってなんかやらないんだからな」
突き放す態度もそこまで強いとは言えないのだった。絆の名残香を感じる。いざという時は頼りにしてしまいそうだ。虎と会わずにまっすぐ甲子園に行くべきだった。
虎と電車に乗り込み、甲子園を目指す。駅員の前を悠々とすり抜け、改札を一飛びする勇姿に苦笑を堪えきれない。
「あいつは、もう支配者のためではなく自分のために死に物狂いで戦うだろう。勝算はあるのか?」
「さあね。検討もつかないわ。でも私は私の世界を守るためにあの子を……」
車窓の見慣れぬ景色で気を紛らわせる。
甲子園前で降り、蔦で覆われたコロッセオに似た野球場を目の当たりにした。
「テレビで観るのと大差ないわね。ハクアは……、球場の中なのかしら」
警備はそう薄くないだろうし、薫子は顔パスとはいかない。面倒な場所を選んでくれたものだ。それも戦わずして薫子を東京に帰す術中なのかもしれない。
「ねえ、貴方たち……、守護者……、は、他の人間にも認識されるようになったんでしょ? ハクアは中に入ったと思う?」
「野暮なこと訊くな。決戦とくりゃあ、それなりの場所で暴れたいと思うのは自然な感情だ。高校球児と一緒だよ」
高校球児と比較するのはどうかと思ったが、ハクアの決意が胸に迫る。
そこで中に入る算段をしようとしたが、虎が甘えるようにのどを鳴らした。
「時間を融資してやろうか。罠もこれで回避できる」
つい便利だからと甘い誘いに乗ってしまう。考えるゆとりが失われつつあった。
停止した時の中を薫子と虎は進んだ。入り口を通り過ぎ、広い通路が左右に伸びていた。
ひとまず、球場内を一望できるスタンド席へと上がった。
グラウンド中央の小柄な人影を視認する。
薫子はスタンド席を飛び降り、ハクアの元に走った。球児が憧れる土の感触を味わうことなく、ピッチャーマウンドで待つ刺客の元に急ぐ。
「随分待たせましたね。ビビって東京に逃げ帰ったと思ったです」
嫌みを受け流せず、薫子は誤魔化すように笑う。
「何笑ってるです?」
「いや。本当に貴方と会ったのは私じゃないけど、初めての気がしなくて」
現実か、芝居か。事象の境は、本当は些細な違いなのかもしれない。それでもここに立つということは、薫子の信じる現実を守るために他ならない。
「ねえ、ハクア。貴女も伊藤が失った誰かの代わりなの?」
「それを知ったところでお前はどうするです?」
それは伊藤が解決する問題だと考える。守護者はそれぞれの関わった死のメタファーだ。薫子がハクアと決着をつけるのは望ましくないだろう。
「吾輩は、腹を括りました」
ハクアは両手で分厚い辞典をしっかりと持った。
「嘉一郎様には、白井亜矢子が必要。吾輩がその代わりになることで秩序は保たれる」
「誰かが誰かの代わりなんてできないわ」
薫子の言葉にハクアは目を上げ、急所を突かれたように、声を荒らげる。
「聞いたようなことをほざいてんじゃねえです。秩序を破壊するものは罰せられなければなりません。吠え面かかせてやるです、美堂薫子」
ハクアの辞典が高速でめくられる。先手を打てば、あの能力は防げると直感するも、時既に遅し。
薫子のこめかみに、硬球が直撃した。ハレーションを起こしたように景色が白くぼやけ、膝を折る。
「戦いは既に始まっているのです。気を抜けば、死にますよ」




