魔王(中編)
一
翌週の月曜日、教室に白井亜矢子の姿があった。顔色よく、トレードマークのおさげが闊達に揺れている。
亜矢子の方が、嘉一郎よりも早い時間に着席していた。自家用車での送り迎えがあるから当然であると、嘉一郎は合点する。
亜矢子は気が置けない友人複数に囲まれている。教室に入っても誰にも挨拶されない嘉一郎とは大違いである。
「あー、嘉一郎、おはようございますぅ!」
邪気なく接してくる亜矢子が、これほどいとわしかったことはない。教室中に響く声で呼びかけられた。昨日まで病人然としていた少女とはまるで別人だ。
「あ、う……」
耳まで赤くした嘉一郎は亜矢子に目線を向けずに手を振る。それも自信がなさそうに。教室中の失笑に包まれると、死にたくてたまらなくなる。
ずっと下を向いて午前中を耐える。昼食は大抵、校舎裏の日当たりの悪い場所で食べている。食べる姿を人に見られたくないのだ。
「しかし、さっきのあれはやっかみだったね。皆、君のことが羨ましいのさ」
「妬みたいのはこっちなのに、妬まれていいことなんてこれっぽっちもない」
嘉一郎は耳にイヤホンを差して木によりかかり、喋っている。その周囲には人気はない。
「嫉妬とは自分より優れた者に抱く感情だよ。あの時、君は他の俗物とは一線を画していた。私はそう思うね」
「優れていた、か。優れているのは亜矢子だよ。あいつは僕なんかじゃ釣り合わない」
亜矢子は休みがちにもかかわらず、勉強に遅れを全く見せない。むしろ嘉一郎の方が、教師に指名されてまごつく始末だ。
嘉一郎は頭をかきむしる。
「あいつは何考えてんだろ。わかんねえ」
「呼びました?」
亜矢子が木を回り込んでひょっこり現れる。
嘉一郎は驚愕のあまり、手にしていたウォークマンを落としてしまう。耳からイヤホンも抜ける。
「さっきから亜矢子亜矢子って一人で言ってますけど、もしかしてそれに私の声でも録音してるですか?」
ウォークマンを拾おうとする亜矢子の手を掴んで止める。
「ち、ちがう」
「じゃあ、何の音楽聴いてたですか?」
亜矢子は間髪入れず、質問を継ぐ。考えさせる暇を与えない。
「し、し」
「? はっきりするです。早くしないとイヤホンを」
「シューベルトだよ!」
嘉一郎はこれまでの人生で一度も出したことのないような大声を出した。
亜矢子は首を傾げ、嘉一郎の目をのぞき込んだ。
「最近、クラシックにはまっててさ、シューベルトの魔王って聞いたことないか?」
亜矢子は納得したのかしないのか、はたまた花を持たせようとしたのか、
「すごーい、嘉一郎、インテリですぅ。かっこいいですぅ」
飛び上がって喜んだ。嘉一郎が腕を掴んだままなので、一緒に飛び跳ねることになった。
「他の奴らには黙っておけよ。最近聞き始めたばっかりだし」
「ええ、ええ! 私も聞きたいですぅ。一緒に聞きましょう、イヤホン片方貸してください」
「い、今は駄目だ。後でな」
「じゃあ、嘉一郎のおうちに行ってみたいです」
白けたように、嘉一郎は亜矢子の手を離していた。
「悪い、それもまた今度な」
嘉一郎はウォークマンを制服のポケットに突っ込み、早足で教室に戻った。
道中、イヤホンを耳に当てる。男の声がイヤホンから流れてきた。
「何故、家に上げてやらん。連れ込んでやっちまえばよかろう」
嘉一郎は廊下で立ち止まり、唾を飛ばした。
「な、何てこと言うんだ、馬鹿野郎! 亜矢子とはそんな仲じゃ……」
周りから見たら、一人言をわめく危ない奴だ。嘉一郎はイヤホンを耳から引きちぎり、教室への道を急いだ。
嘉一郎のポケットの中でカセットは動き続けていた。
「白井亜矢子……、あの娘は使えるな」
二
喋る不思議なカセットテープを、祖父の遺品から手に入れた嘉一郎は、その日の夜に絶句した。
試しに再生したカセットから聞き覚えのない男の音声が流れてきたのだ。
「やあ、これを聞いて精神をやられていないということは君は資格ありということだね」
声は男のようでもあり、女のようでもあり、年齢も不詳に感じられた。祖父の若い頃の声だろうか。
「おい、何とか言い給え」
威厳を漂わす謎の声による叱責に、嘉一郎は困惑し、沈黙せざるを得なかった。テープの意図がまるで読めない。祖父は何の目的でこんなものを保管していたのだろう。
「伊藤耕作はもう死んだか?」
耕作は祖父の名前だ。心臓が大きく高鳴った。
「祖父は、亡くなりましたけど」
嘉一郎は慎重に口を開いてから、枕に顔を埋めた。テープと会話するなど馬鹿げている。聞かれたことに正直に答える小心者ゆえの心理だ。
「そうか、ありがとう。では君は耕作の縁者かね」
嘉一郎は横になっていた布団から飛び起きた。
「喋った! そんな、まさか、偶然だろ」
「歴史上、偶然で会話が成立した事例はない。君は意志疎通の客観的成果を認める必要があるよ」
嘉一郎の思考は停止し、イヤホンを耳から外す他なかった。夢でも見ているのか。聞き間違いか、祖父のイタズラなのか。自分を納得させる理由をいくつか挙げたものの、テープと会話が成立する事実は如何ともしがたい事実としてのし掛かってくるようだった。
「きっと疲れてるんだ。朝になったらきっと……」
蛍光灯の紐を引いて、明かりを消すと強引に床についた。
目をきつく閉じるも、眠りは訪れない。沈黙に耐えきれなくなり、イヤホンを手探りで引き寄せ耳にはめた。
「人の話は最後まで聞けと教わらなかったか」
生唾を飲み込む。本物だ。本当にこのテープは意志を持っている。嘉一郎は意を決し、会話を試みる。
「あなたは、誰なんですか?」
「んん? そーだな、名前か。君が再生しているこのテープのラベルには何て記してあったんだい」
嘉一郎は底の見えない暗い井戸から、汲み上げるように言葉を選んだ。
「魔王って、書いてありました」
「そう。ならそう呼んでくれて構わない。君の名前を教えてくれ」
「伊藤、嘉一郎です。耕作は祖父です。祖父は十年くらい前に亡くなりました」
「いいね、いいね。コミニュケーションが円滑になってきたな。そうか、あいつは召されたか」
テープが数秒途切れたように無音になる。
「あの?」
「ああ、すまない。あいつは天国に行けたのかと思ってね」
嘉一郎は遺影に写された老人の顔を思い浮かべる。祖父の頭髪は薄くなっていたし、父も最近気にしている。自分も他人事ではない。憂鬱になった。
「どちらでもいいんじゃないですか」
テープが再び途切れる。嘉一郎は失言を疑い、後ろめたい気持ちになる。
「ふーん、どうしてそう思う? 死後の世界は信じない派かい?」
「いや、そういうことではなく、どうせ考えたって答えなんか出ないし、俺、祖父ちゃんのことほとんど知らないから。今はそれより、自分のことで手一杯だし」
テープは無音で廻転している。それから含意ありそうに笑い声を出した。
「君は利己主義者なんだね。どうりで私と波長が合うわけだ」
利己主義者という響きは受け入れがたかったものの、嘉一郎は否定しないでおいた。やり過ごすことが彼なりの処世術である。
「耕作はそうではなかった。自分よりも仲間を愛し、祖国を愛し、誇りのために命を賭けることも厭わない利他の男だった」
祖父は旧満州でロシアの捕虜となり、シベリアに移送された過去があると父は言っていた。かつて嘉一郎はどこか遠い世界の物語としてそれを聞いた。
「耕作とはシベリアで出会ったんだ。久しぶりに祖国の地が踏みたくなって、お邪魔したのさ」
嘉一郎は違和感を確かめたくなって、話に分けいる。
「戦後まもなくカセットなんか」
「お邪魔したのは、耕作の頭の中だよ」
嘉一郎は半信半疑だ。まるで体を乗っ取るとでも言うのだろうか。何年か前に図鑑で見た蝸牛の脳に寄生する寄生虫を思い起こさせた。
忌々しそうに魔王は続ける。
「ところが耕作は強情な奴だった。”私たち”を体の中に押さえ込んだんだ」
魔王とは、他人の精神を乗っ取る怪物らしい。それが何のための営みなのか、少年は探る余裕がない。
結論として祖父は知性を乗っ取られまいと、魔王に抵抗した。その戦いは五十年余り続いたという。
「危うくあいつに道づれにされるところだったよ。余命幾ばくになって、衰えたあいつを操り、このテープに吹き込むことに成功した。それでも多くの情報が失われたがね。ああ、嘆かわしい」
「祖父ちゃんは」
嘉一郎は慎重に言葉を選んだ。
「どうしてそうまでして拒んだんだろう。僕だったら続かないだろうな」
「嫉妬だよ」
魔王はてらいなく、嘉一郎の疑問に答えた。
「私たちは、人類の英知だ。悲願だ。その価値を理解できないあいつは本物の愚物だったというだけの話さ」
不思議と祖父を悪し様に罵られても、怒りはわかない。父を見ていればわかる。伊藤家の形質として、常識的な無難な生き方が遺伝したに違いない。自分もまたその範疇に与していると思われるのも癪だった。
「ねえ、僕の頭を乗っ取るの?」
それはそれで魅惑的な世界が広がるような気がする。
テープは不安を煽るように間をもたした。
「いいや。君は耕作以上に、”魔”に対する抵抗力が強いらしい。それに」
嘉一郎は強烈な眠気に襲われ、寝返りを打ったので、イヤホンが外れ、魔王の音声はそこで途切れた。
「君は天国のその先に住まう資格がありそうだ。私が水先案内人になってあげよう。ふふ……、おもしろくなってきた」
三
亜矢子にテープの正体を勘ぐられた同じ日の夕刻、嘉一郎は地元商店街を確固たる足取りで歩いていた。
魔王を手にしてから、ある種の選民思想にも似た感情が芽生えつつあった。これがあれば、亜矢子に劣等感を抱く必要ももはやない。
「僕は変われる。もう絵なんてなくても」
折しも、小さな文房具店の店先にいた。唾を鳴らして、サッシの扉を開ける。
「おい、絵の具でも買うのかい」
イヤホンから魔王が楽しげに話しかける。
「しっ、黙って」
店は奥行きが狭く、そびえ立つように高い棚には、ノートや、ホッチキスなどが陳列されていた。埃のついた商品すらある。
老いた店主のいるカウンターは店の奥に位置しており、丁度棚が死角になっていた。
嘉一郎は、水彩絵の具のチューブを制服のポケットにすばやく忍ばせた。それから脇目もふらず、店を後にした。 「どうだ……、やってやったぞ、僕だって」
イヤホンからため息のようなものが聞こえた。
嘉一郎はそのまま歩幅を広げ、両手を高く振り上げ団地へと急いだ。しかしその高揚は長くは続かなかった。
「で、どうしてそんなことしたんです?」
明くる日、嘉一郎は亜矢子の前に正座させられていた。
結局嘉一郎は良心の呵責に耐えられなくなり、一睡もできずに、亜矢子に相談を持ちかけたのだった。
亜矢子は放課後、自宅の洋間に嘉一郎を呼び出した。洋間にはオルガン、ビスクドールが飾られている。亜矢子は椅子に座り、用のない足をぶらぶらさせている。
嘉一郎には、亜矢子の血色のいい指先と、真珠貝のような美しい爪に目を奪われていた。
「なんとなく」
「なんとなくで万引きされちゃ、お店もたまらないでしょうね。反省してますか、嘉一郎」
嘉一郎は不器量に何度も頷く。
亜矢子は包容力のあるやさしい笑みを浮かべると、音が鳴るほど激しい平手打ちをした。
「えっ……!?」
嘉一郎は頬を押さえて、うずくまる。瞬間、息が止まりそうになり、涙が堪えきれなくなる。
「謝罪の気持ちが足りないのではないですか。目には目を歯には歯を。嘉一郎には罰が必要ですぅ」
亜矢子はうずくまる嘉一郎に馬乗りになり、尻に手のひらを打ちおろした。一回や、二回ではない。非力な亜矢子でも塵もつればなんとやら、同じ箇所に打撃は激痛を招く。嘉一郎に時間の感覚がなくなるまで、亜矢子の折檻は続いた。
「ふう、このくらいでいいでしょう」
爽やかな汗を額に浮かべ、亜矢子は嘉一郎から離れた。
「亜矢子は好きで嘉一郎を虐めるわけではないのですよ。ちゃんとした人間になって欲しくて、婚約者としての勤めを果たしたまでですぅ」
嘉一郎は薄ぼんやりとした意識の中で、疑義を呈する。しかしそれを口に出す機会は失われることになった。目を覚ますと亜矢子に引きずられるようにして、文房具店に絵の具を返しに行った。
店主は事実を知り、ご立腹だったものの亜矢子のたおやかな謝罪が効をそうし、今回限り許してもらうことができた。学校にも親にも知られることがなくて、嘉一郎は胸をなで下ろす。
「嘉一郎、何か悩みがあるですか?」
亜矢子は、嘉一郎の変化に人一倍敏感だった。
「別に」
帰り道、亜矢子がその悩みの種だとは言えず、腫れているだろう尻に手をやる。
「今度やったらそんなものじゃすみませんよ」
亜矢子は真顔で拳を突き出す。嘉一郎は身をすくませた。
話しながら歩いているうち、団地が近づいてきた。
「僕の家、あそこだから。それじゃ」
その時、亜矢子の目に憐憫が宿るのを嘉一郎は見逃さなかった。亜矢子がいくら否定しようとも、無意識に現れる機微に敏感なのは彼女だけではないのだ。
「おやすみなさい、嘉一郎。あまり思い詰めないでくださいね」
その夜、失意のどん底にあっても、嘉一郎は布団の中で自慰をした。普段よりも興奮が高まったのは言うまでもない。




