魔王(前編)
「実はね、私は稗田阿礼の末裔なんだよ」
天然の温泉に一時間程浸かった丑之森螺々は、紺の浴衣に半乾きの髪を振り振り、旅館の部屋の鴨居をくぐる。
十畳と八畳の和室、二部屋。広く取ったガラス窓から湖を望むことができるが、夜半ともなると濃い霧がかかり、全容は一幅の水墨画のようにぼけていた。
「話が見えません。のぼせていらっしゃるのでは?」
シャツ姿でくつろいでいた伊藤嘉一郎が、螺々の後れ毛に目を澄ます。
「これからどうなるかわからないし、”私”の成り立ちについて話しておこうと思ってね。興味ないかい? 嘉一郎」
伊藤は気乗りしなさそうに湯呑みに煎茶を注いだ。
「稗田阿礼と博士。関連性が見えませんね」
稗田阿礼とは、非常に記憶力の優れた天武天皇の側近で、古事記の編纂に携わったとされる。しかし、その正体はヴェールに包まれ、藤原不比等説や女性説など諸説入り乱れ、ひいては存在そのものを疑問視する声も多い。
「君には覚えがあるはずだ。私を見つけた君なら」
伊藤はお茶を飲み干し、苦い顔をした。
「博士の不死のことを言っておられるのですか」
「さすが。察しがいい」
螺々は伊藤とテーブルを挟んで向かいあって座った。
「私は、かつて単なる記録装置として存在を許された。そして役割を終え、歴史から消えた……、はずだった」
稗田阿礼は蓄えた知識の使い道に頭を悩ませた。それは単に紙に記され書庫にしまわれ、埋没する運命にある。
それよりもむしろ、記憶術が全くの無用とされたことに対する反発もあったのかもしれしれない。
「そして密かに編み出されたのが、ある速記術だった」
その速記術は記号と称していたが、むろん単なる記号ではなく、膨大な情報を少ない容量に収めることが可能になるという代物だった。
「まるでプログラムの走りですね」
伊藤は素直に感嘆した。
「それを七世紀後半に考えていたんだ、正気の沙汰じゃない。つまり人間をコンピューターとしてとらえ、ハードを取り替えれば不死が成り立つということだな。だが、初めはそこまで考えていなかったようだよ。単純に知識の保持を命題としていた」
人の一生は短い。個人の体験には限界がある。
螺々のオリジナルは記憶術を用い、記憶の上書きをして複数の体を乗り継ぎ、知識を蓄え続けた。
国を越え、為政者から奴隷まで、あらゆる人種の体験をその身に刻んできたのである。
嘉一郎は疑問を持った。
記憶=人格という定義が成り立つのか否か。
第三者に丸ごと別の記憶を移植しても、人格を完全に奪うことは可能だろうか。
例えば本を読んで感銘を受けても、作者本人になることはできない。
それでも偉大な芸術作品に心を動かされるように、与えられた記憶が言動に影響を及ぼすことは十分ありうる。
徐々に慣らすことが、肝要らしい。
古代人のアナログさと執念を伊藤は笑うことが出来なかった。
それでも今の遊び足りない様子の螺々を見れば、その野望は未遂であることはわかる。
「私に与えられた権能が知識ではなく無駄な時ばかりだったというのがこの話の皮肉でね。私は進化を求めることにしたのだよ。知識と知恵の違いに気づくのに些か遅きに失した感があるが」
「大器は完成を免れると言いますが、博士の強欲の理由がわかりました。しかし不死というのは退屈そうですね」
「やはりそう思うか」
螺々は興が乗ったように身を乗り出す。
「まるで時間を浪費するために生きているようです」
伊藤の遠慮会釈ない感想に、螺々は呵呵大笑する。
「なればこその天国だ。私は、私で埋め尽くされた世界を見てみたい。そこに格差はない。真の平等があるのだよ。そこから全てが始まる」
螺々の最終目標は自身の分身を大量に複製し、世界を埋め尽くすことにある。条件はあるものの、速記記号は複数の人間に使用が可能だ。それを利用すれば、螺々は普遍の存在となり、ひいては神という概念となる。やろうとしていることは支配者と大差ないのかもしれない。
ふと、螺々が顎を浮かす。部屋の柱時計の時刻は十一時を回ろうとしていた。
「私の秘密を話した代わりと言ってはなんだが」
強引な話の切り替えから、邪なものを察した伊藤の表情が固くなった。
「君からは、白井亜矢子の話を聞きたいね」
二
燃え盛る紅葉の絨毯に、少女は頼りなさそうに足を差し入れる。ひび割れるような葉の音に憐憫の情をさえわき起こった。
一枚拾い上げるだけで膝の間接が軋む。痛みを上回る生の儚さを、彼女は得る。
「きれい。ここに来てよかったです。嘉一郎」
白井亜矢子は、心よりの感謝を示した。長い黒髪を両脇おさげにし、白いブラウスにグレーのカーディガン、チェックのスカートを履いていた。白い頬の上部がうっすら赤らんでいる。
「別に、お前のためじゃない」
伊藤嘉一郎は、その当時十五歳。素直に異性の気持ちを受け止めるには器が足りていない。背もそれほど高くなく、猫背ぎみで三白眼、お世辞にも魅力的とは言いがたかった。
「そうでしたね、絵の題材は見つかりました?」
「まあ、まあだ……、もう寒くなってきたな、帰るぞ」
夕方にはまだ早いが、山の気温が下がってきた。亜矢子の手を引いて、嘉一郎は山道を降りる。亜矢子が咳をすると、その度に足を止めた。
「体、平気か?」
ケーブルカーに乗り山を下る最中、ようやく体を気遣う言葉が出る。それも小声で隣にいる彼女には聞き取れたかどうか怪しかった。
「平気平気、この通り!」
亜矢子は力こぶを作ってみせる。彼女は生まれつき病弱で、学校も休みがちだ。それでも月に一度は遠出に出かける習慣を忘れたことがない。
嘉一郎も表向き、仕方なさそうに付き合う。人目を気にし、あまり景色を楽しむ余裕がなかった。
「嘉一郎、学校楽しいですか?」
まるで尋問だ。嘉一郎はうまい切り替えしができなくて、小さく顎を引いた。
「何なんですか! はっきりするです」
短気な亜矢子に詰め寄られ、嘉一郎は縮こまる。
「大きな声を出すなよ、まあまあだ」
高校生活が順調かどうかの指標を嘉一郎は知らない。知ろうともしない。昔から絵を描いていれば良かった。
何度か入賞経験があるものの、自分に才能があるとは露ほども思っていない。その証拠に、小学校高学年から全く筆に力がこもらなくなった。構図もありきたり、無心で描いていたころの線の力強さもなくなった。
亜矢子は気を遣って、こうして遠出を計画するが、所詮インスピレーションなど限られた人間のものだ。
今の嘉一郎は、自分に対する失意による怒りを遠くの昔に忘れた抜け殻のようだった。
亜矢子はそうした事実を決して認めようとしなかった。どこか才能という幻想に目が曇っているのではないかと、嘉一郎は推察する。
「絵に夢中になるのはわかりますが、友達を作って……」
「友達なんていらない」
「出た! 孤高の天才自慢ですぅ」
亜矢子は赤い長椅子の上で跳ねる。
自分の中で最も触れられたくない面に土足で触み込まれ、恥辱を受ける。それでも彼女に側にいてもらいたい相反する感情を抱えている。
「僕は天才なんかじゃないよ。絵も大嫌いだ」
「じゃあ何で続けてるですか?」
嘉一郎には何かを表現したいという願望がない。それでも筆を取る理由は何か。
人は必要とされるべきという不文律がある。嘉一郎から絵を取れ上げれば、何が残るだろう。幼少の頃、手放しで誉めたたえた大人達が呪わしい。
「僕は何でもない。友達もいない。勉強もできない。誰でもない」
ふと、ふさぎ込んだように黙った亜矢子が気にかかる。彼女は胸を押さえ、浅い呼吸を繰り返していた。
「あ、亜矢子!」
嘉一郎は慌てて亜矢子のトートバックに手を突っ込み、喘息用の呼吸器を取り出すと、亜矢子の口に当てた。
「ゆっくりゆっくり」
亜矢子の喘息の発作は今に始まったことではない。それでも亜矢子の小さな心臓がはじけ飛んでしまいそうで、発作のたびに嘉一郎は我を忘れた。
「もう僕に気を遣って出かけるのはやめてくれ。同情してくれるのがわかるとやりきれないんだ」
呼吸が落ち着いてきた亜矢子の背中をさすり、嘉一郎はうめいた。
「私が信じたいだけですから。嘉一郎の描く絵は天下一……」
「いいよな」
嘉一郎は亜矢子の見え透いた世辞に耐えきれなくなり、隠していた本音を漏らしてしまう。
「亜矢子は病弱だから人に構ってもらえて」
亜矢子は泣きだしそうな顔で笑って見せた。
三
白井亜矢子は自宅の縁側に籐椅子を置いて、庭を横切る三毛猫を目で追っていた。
庭には手入れのされた立派な松と、錦鯉の池、どこか旧家を偲ばせる。事実、父方の曾祖父は財閥の出身で裕福な家柄が平成の今も連綿と続いていることになる。
父の職は検事正、母はさる大学病院の教授の娘で、医師を務めている。
二人は亜矢子が生まれても生活スタイルを変えることはなく、家を空けていることが多い。夕食は大抵お手伝いさんの作ったものを一人で食べる。亜矢子は母の味というものをあまり知らない。
それでも、亜矢子は二人を恨むことはなく、むしろ尊敬している。
体の弱い自分を気遣って、最高の医療環境を整えてくれているし、空気の良い郊外の場所に家を用意してくれた。
何を恨むことがあろうか。むしろ気を遣ってしまうのは亜矢子の方である。
やさしい二人の足かせにはなるまいと、せめて人並みの健康を取り戻すことを目標にしているが、それもいつのことになるやら。亜矢子の体は、同じ年代の婦女子に比べ、遙かに成長が遅れていた。疎遠な親戚に会った際、小学生に見間違われた時には、大きな衝撃を受けた。
「次に生まれ変わるなら、猫がいいですねぇ」
亜矢子は、休みの日に家に訪れた嘉一郎にそう漏らした。膝の上に、夏目漱石の『吾輩は猫である』の文庫本が置いてある。
「そうだな。猫は自由に出歩けるから」
嘉一郎は深く考えず、あいずちを打った。
「側で見てるだけでいいんですよ。家族が幸せな姿。私がいなくなったらどれだけ皆、負担が減るか」
一週間前、高尾山に出かけてから亜矢子は体調を崩し、学校をずっと欠席していた。
「嘉一郎の言う通りでしたね。私は病気をうまく利用してお父様たちを困らせてばかりの困った子ですぅ」
「それは……」
正にそのことを謝罪しに来た嘉一郎は出鼻をくじかれ、困惑する。責任を感じていたので、ただでさえ軽くない口が滑らかになるはずもなかった。
「今日は、寄せ書きを持ってきただけだから、もう帰るよ。明日は学校来いよな。みんな待ってるぞ」
嘉一郎は、クラスの寄せ書きを放って寄越すと、逃げるようにお屋敷を後にした。
亜矢子は寄せ書きの書かれた色紙を膝の上に乗せ、じっと目を落としていた。
そんな亜矢子の苦悩を、当時の嘉一郎は忖度できなかった。
自分の生活に精力を注いでいた。注いでいるように見せかけていたし、その上亜矢子をどう取り扱ってよいか持て余していたのである。
暮らしている団地に帰れば、どう無為に時間を潰そうかという考えに頭が占められている。
台所の母が無心で米を研いでいる。父は十一月だというのに下着姿で団扇を使いながら、リビングで新聞を読んでいた。
「嘉一郎、学校はどうだ」
嘉一郎は父を一瞥し、義務的に答える。
「まあまあだよ」
父はそうかと、銀歯を見せて笑った。目を背け、自分の部屋に入ろうとすると、 母に卵の買い付けを頼まれる。
嘉一郎は了解し、荷物を置こうと部屋の扉に手をかけた。
「ああ、そうだ。嘉一郎、この間お前に貸した本、父さんの部屋に戻しておいてくれるか」
「わかった」
嘉一郎は父の書斎に足を踏み入れる。埃が舞うのが目に取れる。書斎と言っても、みずぼらしい煎餅布団が一つと、段ボールで作った本棚がある。布団の側には灰皿と折れ曲がった競馬新聞が落ちている。
父の部屋に入る時は、呼気を止めることにしている。土が腐ったような臭いがするからだ。
亜矢子との生活水準の差に反吐が出そうになる。同じ人間なのに、まるで地虫のような劣等感に脅かされる。
人間は平等ではない。スタートで出遅れれば、それに追いつくために余分に頑張らなければ許されないらしい。嘉一郎にその気力も、才能もない。ならば諦めがつくかと言えばそうではなく、より嫉妬は心を蝕んでいく。
「亜矢子、学校にもう来なければいいのに」
薄情な台詞も、一人でいればこそ。心根の部分ではそうではないと思いこもうとしていた。自分は本当はやさしい人間で、富裕な家柄でなくとも幸せを掴めると信じたかったのである。
部屋を出ようとした嘉一郎は、タンスの角に小指をぶつけた。痛みは軽微であったのだが、それからよくなかった。タンスの上に危ういバランスで乗せられていた段ボールが、落下し頭部を直撃した。
「いてー、罰が当たったか」
段ボールには古びた水筒や、懐中時計、汗染みのついた帽子などが乱雑に詰まっている。
「すごい音がしたけど大丈夫?」
物音を聞きつけた母が部屋に首を突っ込む。
「ちょっと頭打ったけど平気だよ。これ何?」
母が隣にしゃがんで、目をこらした。
「あー、これはおじいちゃんの遺品よ。置くところないからタンスの上にあったのね。しょうがないわねえ、お父さんも」
母は愚痴を言いながら、スリッパを蹴立てて部屋に出ていった。
嘉一郎は段ボールに一つ一つ、落ちたものを戻していく。埃が指について眉をしかめる。嘉一郎に祖父の記憶はない。先の戦争時代の品だろうか。遺品に年季が入っている。
その中に異質なものを見つけた。物自体は、何の変哲ものなかったが、戦争を彷彿させるものの間に挟まっていたため目を引いたのかもしれない。
「カセットテープか」
嘉一郎の手元をのぞきこんだ父親が、その正体を認める。突然背後に立たれていい気はしない。嘉一郎はテープを手元に隠す。
「親父は演歌が好きだったからな。よくそれで聞いてたよ。ウォークマンもその中になかったか?」
嘉一郎が段ボールを漁ると、果たせるかなイヤホンの巻かれた黒いウォークマンを発見した。
「これ、もらっていい?」
嘉一郎は自然に祖父の遺品をねだっていた。
父は少し驚いたように口を開け、了承した。
土ほこりにまみれたテープのラベルを指で払う。ボールペンで書かれた文字に目を凝らす。
「何だ、これ……、魔、王」




