フラクタル
大阪駅の温度計は二十二度を記録していた。
毛玉のついた虎柄のニットを着たおばちゃんが薫子の前をふいに横切る。
アニマル柄が嫌みなく新鮮に映る。鉄板ネタの真偽がはっきりし、溜飲が下がる薫子である。
すれちがう間際、ニットに描かれた虎の口が上下に動いた気がした。
「東京に帰れ」
二度見するも、既に虎は物言わぬ絵図となっている。立ち止まって凝視していると変に思われるので、目線を外した。
空耳に心動かされるのも、見知らぬ土地に足を踏み入れた故の迷いであろう。
心斎橋筋付近で薫子は気を取り直し、歩きだした。
大阪市中央区にある繁華街である。
腹の疼きから、そこの一角にあるお好み焼き店の暖簾に手をかけていた。店構えはサイコロのように小さいが、せっかくなのでチェーン店ではない店で味を確かめておきたかった。
店を入った所にレジカウンターがあり、招き猫が置いてある。
「おーい、ちょっと来てー」
奥から野太いが女性らしき呼び声がする。
店内は照明が落ちており、日光も奥まで届かないらしい。薫子は目が慣れる前に手探りで中に進んだ。
数歩で椅子に足の小指をぶつける。
薫子の肉体は同年代の女性に比べれば、飛び抜けて頑健だ。それでも神経の量が多い小指は急所に匹敵する。
「あぎーっ!」
薫子は三メートル近くの高さの天井まで跳ねた。頭をぶつけなかったのは、不幸中の幸いと言えた。
「こら、何騒いでるんてんだい!」
泣き面に蜂というか薫子はさらなる驚異を目の当たりにする。
分厚い肉の塊が薫子を見下ろしていた。否、太った中年女性だったが上背があり骨も太いので、壁のようにぶ厚い。
彼女は太い腕で、薫子の首根っこを猫のようにつまみ上げた。
「カヲリ! 帰ってきたんなら、ぼさっと立ってないで。仕込みを手伝いな」
薫子は首をガクガクさせ、地に着かない足を力なく下げていた。
誰かと勘違いされている。腕力差に訂正する気力が萎える。抗えない状況をいかに切り抜けるか、思案しようとしていると、入り口の格子戸が開く音がした。
「ただいまー」
快活な声が店内に響く。
「あれ、お母さん、何やってるの?」
ラクロスのラケットと、スポーツバックを下げた白いポロシャツ姿の少女は目を丸くした。
薫子を捕らえている女性は、少女と自分の手を交互に見比べる。
「カヲリが……、二人? どうなってるんだい」
「もー、そんなわけないでしょ。お客さんを乱暴に扱っちゃ駄目じゃない。大丈夫ですか……、本当にすみません」
少女は薫子を地面に下ろすのを手伝ってくれた。面と向かい合うと、少女は確かに薫子に似ている。鼻の頭が少し日焼けしていたが、黒髪のセミロング、同じブランドのレッドフレームの眼鏡をしていたし、体型も出るところが出ている。柔らかそうな額のつやは……やはりカヲリに軍配が上がった。
「世界には自分に似た人が三人いるっていいますけど」
カヲリは鉄板を熱しながら喋る。
野獣(カヲリの母)に解放された薫子は、鉄板焼を饗されることになった。
本来、店は五時開店らしい。準備中の看板を見過ごした薫子は辞去を申し出たのだが、カヲリが迷惑をかけたお詫びにと、引き留めたのである。
「何だかお姉ちゃんができたみたいで嬉しいです」
お店の娘らしくら愛想よく笑うカヲリを前に、薫子は憮然と頬杖をついていた。
「鉄板、もういいんじゃない?」
「あ、いっけない」
熱した鉄板に、溶いた具を流していく。その間も薫子への対応を忘れない。
「お姉さんは、出張でこちらに?」
「え? どうして」
「いえ、この辺じゃ見ない方だと思って。この辺に勤めてる方なら大体うちの店を知ってますし、観光ならスーツはおかしいかなって」
「なるほど。まあ、仕事みたいなものよ。貴女、この店の娘さんなの?」
ヘラを素早く動かし、形を整えていく。カヲリは鉄板から目を逸らさない。
「はい、カヲリ=ムシューダっていいます」
薫子は腰を浮かしかけた。
「え? 今なんて」
「えっと、私の父はトルコ人で、近くで店をやってるんですけど」
「あ、そういうこと。ごめんね、ちょっとびっくりして」
「皆そういう反応しますから気にしないでください。今では自己紹介のネタにしてるくらいですから」
カヲリはたくましく胸を張る。
「学校は楽しい? カヲリちゃん」
「はい! 四月に高校に入った時は不安でしたけど、友達もできたし、ラクロス部も楽しいです」
柔軟な若さを前にして、若干辟易したようにコップに口をつけた。
「友達、か……」
甲子園で待つですよ!
薫子は我関せずと保ってきた均衡が崩れていくことに煩悶していた。自分のやろうとしていることは本当に正しいのだろうか。秩序を壊すことで救われないものも、必ずいる。
「さ、できました。熱いうちにソースでどうぞ。お飲物は、ビールになさいますか?」
「いいえ、ウーロン茶を」
薫子は即答し、遅い昼食にありつく。久方ぶりに自分のペースで食事を堪能することができた。螺々とは犬猿の仲だし、同僚との食事も、味わうより会話を楽しむのが主だった。たまには一人飯も悪くない。
「ごちそうさま。大阪に来てよかったわ」
食後すぐに、心からの礼を込める。
コンビニで下ろした現金は、スーツケースに入れていたため、持ち合わせは少ない。会計はクレジットカードで済ませた。
「ありがとうございました。近くにお越しの際は、ぜひぜひまたいらしてくださいね」
「すぐ来るわ」
間を置かない返答に、カヲリは怪訝そうに薫子の顎当たりを見つめた。
「貴女とブッシュドノエルを食べたい子がいるから、その子を連れてくる。待ってて」
カヲリの絆創膏のついた手を力強く握ってから、薫子は店を後にした。
「変なお姉さん。ブッシュド・ノエルなんて季節外れなのに」
カヲリは釈然とせず、後頭部をかいた。
「でも、どうしてかな。懐かしいような、悲しいような不思議な気持ち。今度会えたら、お姉さんに聞いてみよう」
カヲリは、お客の名前を聞き忘れたのを悔やんだ。
けれど、薫子の名刺がテーブルに置かれていたことがわかって、ようやくフルネームを知ることができたため喜んだ。
薫子は店を出てすぐ顔を押さえ、うつむきながら歩いた。
「ぼさっとすなや!」
自転車に乗った中学生に怒声を浴びながらも、薫子は顔を上げなかった。
カヲリ=ムシューダ。
自分に似たもう一人の少女の存在を薫子は、肌一枚を隔てたように今でも近くに感じていた。親近感以上の感傷は、時として気分を落ち込ませる。
カヲリの世界もまた薫子と同じように崩壊し、今の世界に統合されたのだろうか。これが死なない世界、New orderのなせる業なのか。小さな世界が延々と作られ、秩序を構成している。
「やはりあれは芝居じゃなかったんだわ。あの娘の笑った顔とか……、初対面とは思えないし」
過去に干渉するだけでなく、別個の世界を一つに統合したことによる歪みであることを薫子はまだ知らない。
目の奥が焼け付くように痛んだ。ハクアの元に行くにしても、時間が遅くなり過ぎたため、明日に持ち越すことにした。
近くのビジネスホテルを探し、宿泊する。
小型テレビ、シングルベッドにシャワールームも完備され、休憩するには申し分ない施設だ。
堅いベッドに大の字で横たわる。
カヲリは、薫子のことを知らないようだった。薫子もカヲリが実在するとは思わなかった。銀幕を覗いたような居心地の悪さが付きまとう。ここもまた舞台の上なのだという可能性を突きつけられ、気が滅入る。
バッグに入れた二つ折りのガラケーがバイブ音を立てる。寝たままバッグに手を入れた。
「はーい、もしもーし、絶賛休暇中の薫子ちゃんでーす」
覇気のない声で応答すると、安堵したような間が広がり、螺々の平坦な声がそれに続いた。
「やっと繋がった。無事か」
薫子は大儀そうに身を起こした。
「無事でもないわよ。でも色々新しいことがわかったわ。そっちは? 会えたの? 灰村香澄に」
「それなんだが」
螺々は言いよどむ。
「何? 伊藤と一緒に福島にいるんじゃないの? ピンチなら飛んでいくわよ」
薫子は軽快な冗談を飛ばす。余裕のない時の癖だ。内心、彼らが危機に瀕していても助けに向かわないだろう。そこまでお人好しではない。
螺々はまじめ腐った声で返してる。
「いや、君はそっちで待機していてくれないか。身の危険がなければだが」
幸彦との邂逅やハクアとの決闘の件については黙秘すると前もって決めていた。私闘という概念が未だくすぶり続けているためだ。
「……平気よ。それより何かおかしくない? あんたの割に口が重いっていうか。怪我でもしたの?」
螺々がかさついた笑い声を立てる。
「君に心配されるとはヤキが回ったかな。私の方は心配いらない。五体満足だ。気になるのは、灰村香澄だな」
「どうかしたの?」
薫子は力を込めて携帯を握る。
「私の顔を見て、倒れた」
螺々は現在、西野陽菜の皮を被っている。過剰に反応したということに一抹の不安を抱かずにはいられない。
「落ち着いて聞いてくれ、この世界の西野陽菜は」




