Quo vadis,Domine?
夜半、小雨が霧のように煙り、団地の壁をしとどに濡らす。
古びた団地は、高度経済成長期に建てられた。往時は、数百人がその敷地内で生活し、そこだけで世界が完結していた。
二千十年代の今となっては、住民の高齢化と減少、建物の劣化もあいまって、取り壊しが決定している。
東棟二階の角部屋の扉に、藁半紙が貼られている。
「空蝉上映中」
と、子供がかき殴ったような拙い筆の代物であった。
水色の扉は鍵がかかっていない。玄関に靴が二足、パンプスと、履きつぶしたスニーカーだ。
開け放されたリビングの扉を抜ける。
家具は一切なく、フローリングの床にスーツ姿の女性が足を投げ出し、座っている。
目線の先には白い壁がある。プロジェクターがほんの数分前まで稼働し、そこに作品を映していた。
水色のパーカーを着た男が、壁際で気配を殺している。
突発的に女性が床を蹴り、男に肉薄し掴みかかる。
「たかが芝居にそこまで熱くなるなよ」
男は壁際で逃げ場をなくしたにもかかわらず、逆に女性を突き放すように冷たく言い放った。
女性は我に返り、温度のない床に座り込んだ。
「ごめんさない……、つい」
「大丈夫かい? 刺激が強すぎたかな」
女性は、芝居を観劇に来た観客に過ぎない。キャストの迫真の演技に感情を揺さぶられたのだ。
「私に似た人とか、知人に似ている人が出てきたから、取り乱してしまって」
「他人の空似だよ。フィクション。本物じゃない」
噛んで含めるように言って、男はプロジェクターを片づける。右足を引きずりながら手間取っていると、どこからともなく同じ色のパーカーを着た子供が部屋に現れ、作業を手伝い始めた。
「あの、ヒロインの女の子はどうなったんですか?」
「幸せに暮らしてるんじゃないかな。昔のことなど忘れてのうのうと」
女性は唾を飲み込んだ。
「思い出は、常に美化される。邪悪なものを壁の奥に埋め込んで」
男性は低く笑う。咳をするような不吉な笑いが響いた。
「私にも隠していることがあるって言いたいの?」
女性は膝立ちで、刺々しく詰問する。
「いいじゃないか。隠しておいても」
男は諭すような声で応じる。
「木を隠すなら、森の中。物語は大切な物を隠すにはもってこいだ。その裏側にどんな邪悪を潜ませていても、喜劇は演じられる」
「貴方は幸せ? 寺田君」
男はパーカーのフードを被り、総白髪を隠した。
「それは僕じゃないよ、美堂さん。物語はもう終わったんだ」
扉が悪魔の歓声のようにわななき、閉ざされる。
美堂薫子は腕をまっすぐ伸ばし、救い主を求めるような姿勢で闇の中、取り残された。
(了)




