今日は会社休みます
物語を愛する全てのクソ紳士、クソ淑女に捧ぐ。
「今日は会社休みます」
電話口で、美堂薫子は声を震わせる。部屋には数日分の衣類を詰め込んだトランクが一つばかり置いてあった。
有給休暇を七日間一気に消化する旨を申告したのだ。どこの職場においても、慢性的な人手不足にあることには変わりない。社会人にとっては、よほどの覚悟が必要だった。
これだけの勝手は会社に弓を引くことと同義であると、理解しているつもりだ。
それでも、薫子は失われた過去に立ち返る。
深く突き立てられた杭を辿り、記憶の海原へと漕ぎ出す。
血塗られた物語を破滅に導くために。
物語に魅入られた彼を救うために。
美堂薫子、最後の七日間が始まる。
一
二○一○年、六月某日。
都内にある大衆居酒屋は、素の表情に戻った会社員のたまり場だった。ビールジョッキを握っている間だけは人間になれる。そう信じている者も中にはいるだろう。
「マルクスってすごいんすかぁ」
入社して三ヶ月、右も左もわからない宇田春香は、呂律の回らない口調で管を巻いた。
「あんた、飲むね。先輩さしおいてよく飲むね」
晴美の先輩、茂木智代は後輩をいなす。別にいなす必要もないのだが、職場にいる時の癖が抜けていないのだった。彼女たちは、コールセンターに勤める同僚である。
「全共闘ってすごいんだぞ! って言われてもねえ……、大学で暴れてて、浅間山荘で人死んでるじゃねーか!」
「宇田ちゃん、どうどう。誰だって輝かしい時代はあるんだから。オヤジたちの戯れ言だとだと思って。あれはね、もう甲子園、球児だと思えば可愛く思える。たぶん!」
宇田ちゃんは、オヤジの自慢話に呆れているのだ。哀れんでいるのだ。彼女の今日の顧客は、まさにその時代の人であり、今時の若い奴はマルクスを読まないから駄目だと何かにつけて因縁をつけてきたのだ。
「軍曹は、マルクス主義者をどう思われます?」
剣呑な宇田ちゃんに問いただされたのは、同じテーブルにいた、スーツ姿に赤いフレーム眼鏡の妙齢の女性。化粧っ気はないものの、スタイルははなはなだよろしく、店内の男たちは、通りがかりに彼女を舐めるように観察していた。
「いいんじゃないの? 夢中になれることってそうないわよ」
気のなさそうに言って、軍曹は芋焼酎を煽った。ジャケットの上からでもわかる平均以上の胸囲が揺れる。隣のテーブルの中年男が目を皿にしてその光景に見入っていた。
「でもですねえ、主義を押しつけるのってどうよって話です」
「ねえ、宇田ちゃん」
軍曹は酒にめっぽう強いらしい。眼鏡の奥の瞳は全く揺れ動いていなかった。
「たとえば中学の同窓会行ってさ、初恋の人がハゲてたらどうする?」
「なしです。私的に」
宇田ちゃんは、即答する。隣のテーブルの中年男はしゅんとうなだれた。
「残酷ねぇ。でもその初恋の人からしたら、宇田ちゃんのことなんか知ったことじゃないかもよ」
宇田ちゃんはグラスを強く握った。
「主義主張は日本国憲法に定められ……」
「宇田ちゃん、それじゃおじさんと同じよ」
軍曹は、テーブルから腕を伸ばし宇田ちゃんの鼻をやさしくつついた。
「うぐぐ……、えっと」
「もうよしなって。あんたが軍曹に口で叶うわけないんだから」
智代は酒がまずくなるのを鑑み、不毛な議論を終わらせた。
軍曹は涼しい顔で杯を重ねる。酒には決して飲まれないと見える。
「ごちになります!」
終電前に、飲み会はお開きとなった。店の前で宇田ちゃんは体を四十五度にして、お辞儀をした。顔を上げた時、軍曹にはしゃいだ笑顔を向ける。
「ところで美堂さんって、やっぱりおじさん好きなんですね。肩持ったし」
やめなよーと、わざとらしく智代が制止するが目は笑っていた。
「そうだけど。何か問題あるの?」
美堂薫子は、軍曹とあだ名される精神のタフさを見せつけた。周りは、苦笑いで誤魔化す他なくなった。
「やっぱり本当なんですかね。不倫が原因で出向したって」
薫子と別れてから、宇田ちゃんはつぶやいた。智代は眉根を寄せる。
「きっと上司が悪い男だったんじゃない。軍曹真面目そうだし」
薫子は、道すがら風俗店の看板を蹴りとばした。仕事では埋められない空白を彼女は抱えていた。
混雑する電車を乗り継ぎ、二十分ほどして駅に自宅最寄り駅に降りる。線路沿いの暗い道を一人歩く。パンプスがアスファルトを叩く音が虚しく響いた。六月の湿気に、肌にブラウスが貼り付く。
駅から十分ほど歩いて家賃六万円の単身者用のアパートに着くと、外階段を上り、部屋の鍵を開ける。ここ数ヶ月、電気をつける習慣がなくなっていた。帰って眠るだけ。シャワーは朝に済ませることにしている。
「つまらん人生だな、社畜というのは」
奥行きのない、ワンルームから薫子の内面を代弁するような声が出迎える。
薫子は電気をつけていない。それでも白光が部屋を洗った。
ベッドに腰掛けていたのは、黒いレースの刺繍が入ったベビードールを着たあどけない少女だった。貝殻の髪飾りを付けた黒髪のマッシュボブ、露わな鎖骨は未成熟ながら危うい色気を漂わせている。彼女の全身から白い光が溢れていた。
「働かないと食っていけないの。詐欺師にはわからなくて当然でしょうけど」
薫子はプラダのハンドバッグをフローリングの床に投げ捨てると小型冷蔵庫に満載されているビール缶をひっつかみ、喉を鳴らした。
「帰れば酒。朝起きても酒。肝臓やられるぞ医者でなくともわかる」
「うるさい。放っとけ」
少女の忠告に反抗するように、薫子はビールを三本空けた。
「酒に逃げる他ないのが、悲しいな。不倫がばれて系列会社に出向させられ、早半年余り。本社に戻れる見込みなし。ああ、私の人生なんだったの……、敗者に厳しい日本死ねとでもネットに書くか?」
薫子は少女の細い首を鷲掴みにし、ベッドに押し倒した。
「ベラベラ喋り過ぎよ。あんた、何しに来たの?」
西野陽菜の姿をした何かは、余裕のある表情で殺気だった薫子の目を見つめた。
「君に話が訊きたくてな。時空を跨いで来てやったぞ」
薫子は陽菜から手を離した。そしてベッドに倒れ込む。
「話すことなんかないわ。貴女が西野陽菜だろうが、丑之森螺々だろうが、私には関係ないもの」
意識を飛ばすには、まだアルコールが足りない。酒量は日に日に増えるばかりだ。
菊と刀、空蝉、という芝居を観劇してから薫子の日常は一変した。螺々は薫子の部屋にいついているし、消えてくれない。幻覚だと言い聞かせても、酒を飲んでも事態が好転することはなかった。今のところは、仕事に支障がないように振る舞っているが、いつまで続くだろう。
「首尾よく美堂薫子の所に辿り着いたはいいが、西暦二○一○年だと……。一気に時間が飛んだな。それに君が私の知る薫子と同一か自信がもてない。あの時はこんな小さかったしな」
「いつの話してるのよ!」
薫子は、大声を出したものの慌てて口を押さえた。隣近所に筒抜けだ。
「君は、自分が何者なのかまだ知らない」
螺々は、もったいぶった調子で続ける。
「忘れてしまったのか、無意識に隠しているのか知らないが、君は真実を隠している」
薫子は飲みかけの缶にちびちび口をつける。
「隠してるって何を?」
「西野陽菜は美堂薫子を知っていた」
薫子の首すじに汗が浮かんだ。
「私は今、西野陽菜だから、彼女の記憶を閲覧できる立場にある。彼女は君に出会う前に君を知っていた。矛盾するが、そういうことらしい。心当たりは?」
「あんな娘は知らない。もう消えてよ。私は物語にかまけるほど子供じゃないんだから」
螺々はすらりとした足を寝そべったまま組んだ。
「本当にフィクションだと思うのか?」
「え?」
「現実を凌駕する圧倒的なフィクションは、実存を許されたんだよ。好きなように世界を改変するのが、支配者の目的だ。私を差し置いて、このまま歪んだ物語が続くのは、正直おもしろくない」
薫子は耳を塞ぎたかった。これも物語の中の会話に過ぎないのではないか。それを別の薫子が見ているだけかもしれない。酒を飲まなければ、精神をやられてしまう。
「カヲリ=ムシューダが繋げたこの世界を、君は完遂する義務がある。私も立場は違えど、それを見届けたいと思っているんだ」
薫子は、カヲリを思い出し涙ぐむ。他人の空似とはいえ、彼女は勇敢で気高い魂を持っていた。
「仮に貴女の言うとおり、パラレルワールドがあったとして、どの口が言うのよ。貴女が全て台無しにしたくせに」
螺々はベッドに力なく倒れる。
「あの時はああするしかないと思った。真の支配者を見つけるまで、また同じことが引き起こされるだろう」
真の支配者は、虚構と真実を織り交ぜ人々をもてあそぶ。螺々ですらその掌の上だ。
「世界がいくつあろうが、一つ確かなことがあるわ。私はパパの娘ってことよ」
薫子は父の位牌を窓際の棚から手に取った。すると、ベッドの少女はうつ伏せになる。
「真実って何かしら。成長しろとか、誰もがこのまま安穏に生きていてはいけないっていうけれど、何にも問題ないじゃない。たとえ、芝居の中だって…」
明日も明後日も、機械のように心を殺して働き、意識が飛ぶまで酒を飲んで、いつまで……?
早朝、薫子が目覚めると螺々の姿はなく、空き缶をフローリングに並べた現実を受け入れざるを得なかった。
「仕事……、行かないと」
カーテン越しの日差しが目に痛い。最近光に敏感になっている。電気をつけないのもそのためだ。
突如、キツツキのようなけたたましいノックがドアを襲い、薫子は縮み上がる。
子供の舌っ足らずな声がノックに追随した。
「おるか! あけんかいわれ」
薫子は、のろのろ這ってドアに向かってチェーンを外した。
扉の外には誰もおらず、絣の着物に髪を巻いた女児が逃げ去る背中がかすかに捉えられた。
扉には、スーパーのチラシが貼ってある。その裏には
「にげるべからず」
と、子供のまずい筆で書かれていた。
「は、はは……」
魂ごと力が抜けたように地面に座り込む。酒をやめよう。そうれば、この異常な世界も終わるに違いない。
休肝日にしようと思い、会社に電話した。
「今日は会社休みます」




