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17・衝突する少女クリス

「怪我はないだろうか」


 お久しぶりです。

 まだ、長野なこであったときの話だ。

 私は、つらいことも、悲しいことも、苦労も、経験してきた。それでも自分の身の上を不幸だと呪ったことはないし、そういうことの自慢をしたってただの無駄だが、それでも言うと、クラスの女子の中では割とトップで大変な人生を歩んでいると自認していた。

 今は、クリスは、それ以上に面倒な生活だけど。

 だから、もしかしたら、気がついて以いないだけで見下していたのかも知れない。貴女は甘い環境でゆるりと幸せを噛みしめていたんでしょう、って。




 すごく、惨めな気分になった。

 庭を出て、逃げるように廊下を走りながら痛感する。

 私は精一杯逃げていた。頑張る、から。向き合う、から。

 今までだって結構嫌なことあったじゃん。だから、さ。いいでしょ? 今ここでこれくらい手を抜いたって、結果は変わらないし。

 それが私なのだ。

 苦労って色々あるな、とぼんやり考えた。

 私の体感してきたものたちと、ミニョロ殿下が味わってきた苦痛は確実にベクトルが違う。どちらが重いとかは、もちろん、ない。でも、私からすれば気に食わない彼女だって、彼女なりのやっかいなことを乗り越えているのだ。

 いや。まだだ。現在進行形で、彼女の悩みは続いているはずだ。

「……」

 無意識のうちに舌をかんでいた。難儀なことに直面した私の、一種の現実逃避の癖であった。

 床に敷かれた赤いカーペットを見つめながら、ただひたすらに自分を恥じ__突然、視界が揺らいだ。衝撃は遅れてやってきて、その頃にはとっくに景色は先程までとは違う向きになっていた。

 やたら頭が痛い。鈍痛だ。ぐわぁんぐわんと、頭の中で目眩が起きているような、不快なやつだ。

 多分、前を見ていなかったから何かにぶつかったのだ。そして、失速していなかったから、そのままの威力があだとなって勝手に転がったのだろう……と、鼻先から数センチの白い壁を見ながら推測した。

 ぶつかったのが壁ならいいが、感触がどうも違った。すごいやわらかいとかそういうことではないけど、明らかに無機質じゃないだろ、これ、というものであった。もしかしなくても人間に衝突したのではないだろうか。申し訳なさすぎる。馬鹿だろ、私。

 はやく謝らねばと理解しているのに、身体が状況を飲み込めていないのか上手く動かない。立ち上がりたいのに、ぼうっとする。

「悪い」

 その一言は、慣れたわけではないけど、異様に印象に残っているので、誰の発したものかすぐにわかった。靄がかかったような思考の中で、唯一、ピン! とはっきり納得できた。

「おう、じさま」

 紛れもない、私の婚約者の声である。

「怪我はないだろうか」

「あ、えっと、はい。大丈夫です」

 頭がくらくらしていたので、ゆっくりと身体を起こしながら答える。

「本当に?」

「はあ」

 今ここで嘘をついたところで私に何の得もないのだが。王子様の表情はぴくりとも動いていなかったが、私は怪我がないか確認した。うん、ない。

「問題ありませんよ、王子様」

「なら、よかったよ」

 と返事をするくせに、信用していないのかまじまじと観察してくる。気まずいし気恥ずかしい。

「きみはどうしてそんな格好で走っていたんだ」

「走って……あ、ああ!」

 そうか、私はまた王女らしくないことをしてしまったんだ。賓客用の区域で猛ダッシュとかありえないだろう。

「すみませんでした!」

 咄嗟に頭を下げていた。

「王子様の顔に泥を塗るようなことをしてしまい、本当に申し訳ありません」

「きみが謝る必要はない。僕は理由を聞いているだけで、咎めるつもりもない」

 それに、と王子様は続けた。

「それより、王族が……オラディア王子の婚約者が軽々しく頭を下げることの方がどうかと思う」

 え、そうなの!? ぱっと顔を上げてみると、さっきとは違って表情を__それが呆れか困りのどちらからきたものかよくわからないほどほんのりとしたそれだったが__浮かべていた。

「女性が男に向かって謝罪するのもよくない」

「そう、なんですか」

「オラディアでは、女性の権利を男と同等に扱おうという動きがさかんで、実際どうかは別としても、古くからの礼儀として女性からすぐに謝罪をしたり頭を下げることをよしとしていないんだ」

 確かに、私の国はアットホームすぎてよくわからないけれど、お父様が家族の、一応女子である私にも躊躇ためらいなく暴言を吐くあたりは性差と立場の関係が表れている……の、かも?

「……ライディアとオラディアの属する区分は少し違うから、考え方は異なるのかもしれない」

 今のは、フォローなのだろうか。知識不足な自分に、しゅんとしている私への。

「……」

 自分の身長より上に位置する王子様の美貌は、困り顔に見えた。色々考えてくれているのだな、と思うと嬉しい。

「ありがとうございます」

「?」

 お礼の意図がわからなかったのか、整った眉が中央に寄せられた。今度こそ推測でもなんでもなく、本当に困惑しているとわかった。

「ああ、そうだ」

 急ぎの用事があったときのように、はっと王子様がなった。

「きみはニョロを見かけなかったか」

「に、にょろ?」

 にょろにょろ?

「失礼、正式な名前を伝えればよかった。ミニョロ・ニーケ・ラウリ姫のことだよ」

「ミニョロ殿下ですか」

 言った途端、先程までの動悸とこみ上げる不快感に見舞われてくらりとした。よろめいて王子様に心配をかけなかったことがせめてもの救いだった。

「えっと、お庭で」

「そうか。情報、感謝する」

 黙礼すると王子様はすっと流れるような優美さで私の横を通り過ぎ、私が走ってきた道を早足で進んでいった。

 なんか、なんていうんだろう。

 よくわからないけど。

 微妙な感じだ。

「もし」

 ふと、廊下の途中で王子様は言う。呟くみたいに小さな声なので、この距離でその音量やめてください。聞き間違いしたら恥ずかしいじゃないか。

「もし、きみが僕とぶつかったことで怪我をしていたら後で報告してほしい」

 その話まだ続いていたのか。王子様は律儀だなあ。

「どこか痛むようだったらギーにでも相談して」

 よし、ギーには絶対に教えないことにしよう。あいつのことだから走るなんてみっともないとかなんとかねちっこく責めてくるだろう。

「心配だから」

 より一層聞き取りづらいささやかな一語。私は王子様の背中を見つめた。無性に気になってしまった。その人は、どんな顔をしているのだろう。建前を述べねばならないことへの嫌悪感か、気恥ずかしくなったときの赤面か、台詞に対しての照れか。

「わかりました」

「そうしてほしい」

 振り向くことなくそれだけ伝えると王子様はまた進み始めた。

 なんていうか、私は王女の役目も所作も、王子様のことも全然わかっていないらしい。

 ミニョロ殿下なら、もっと知っているのかもしれない。王子様の趣味や嗜好だって。国のために自分がなさねばならないことだって。

 あれ。私あの人に勝ってる場所って一個もないな。

「いじめられてるのかな」

 やっぱり。

 ミニョロ殿下はきっと、つらい思いをしている。王子様はきっと、助けに行く。

 クリスってなんなんだろう。

「さくこ……」

 懐かしい妹の名前を呼ぶ。

「あんたの考えてる話は意味がわからないよ」

 情けないオーラをまき散らしながら私はマナー講義に向かった。

王子登場。ついに登場。

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