2話 この名はいったい誰のもの
最初に聞こえたのは、紙をめくる音だった。
ぱらり。
ぱらり。
近くで誰かが書類を読んでいる。
そう思って、トオルは目を開けた。
白い天井が見えた。
見慣れた天井だった。
マツヤマ区画管理所の仮眠室。
切れかの蛍光灯。黄ばんだ換気口。隅に古い染み。眠れない職員が何度も見上げてきた、味気ない天井。
そこに自分がいることは分かった。
けれど、なぜここにいるのかが分からなかった。
身体を起こそうとして、右腕に鈍い痛みが走る。
「……っ」
息が詰まった。
痛みは腕だけではなかった。
肩、首、背中、目の奥。
全身が、一晩中冷たい床に寝かされていたように重い。
記憶をたどる。
旧中央地下連絡路。
封鎖シャッター。
長すぎる地下道。
基底現実保全機構。
四国支部■■基地。
記録保持優先。
見るな。読むな。返事をするな。
そこまでは思い出せた。
最後のメモも覚えている。
これを読む者がいるなら。
君はもう、読まれている。
画面に映った目。
全部同じ目。
こちらを追う目。
そして、文字。
見つけた。
まだ壊れてない。
よかった。
トオルは息を止めた。
思い出せる。
あれは夢ではない。
仮眠室の中には誰もいなかった。
ただ、枕元の小さな机に、職員証が置かれていた。
トオルはそれを手に取る。
登録名の欄を見る。
トオル。
文字は読めた。
けれど、数秒間、その意味が分からなかった。
自分の登録名だ。
そう理解するのに、遅れがあった。
まるで知らない誰かの名札を拾ったようだった。
トオル。
もう一度読む。
読める。
けれど、自分の内側に引っかからない。
自分を呼ぶための音だったはずなのに、どこか遠い。
職員証の上に印字された、ただの記号に見えた。
胸の奥が冷たくなる。
「……俺の、名前だろ」
声に出してみる。
だが、言葉は部屋の中に落ちただけだった。
返ってこない。
その時、扉が開いた。
シノが立っていた。
いつものように背筋は伸びている。
古い資料庫の匂いをまとった老婦。
片手に紙束を抱えている。
シノは仮眠室に入るなり、トオルの顔を見た。
そして、眉をわずかに寄せた。
「起きたかい」
「……はい」
「返事が遅いね」
「寝起きなので」
「寝起きの目じゃない」
シノは椅子を引き、トオルの正面に座った。
紙束を机に置く。
「どこまで覚えてる」
トオルはすぐには答えなかった。
覚えている。
だが、口に出すのが嫌だった。
「地下へ行きました」
「知ってるよ」
シノは淡々と言った。
「あんた、昨日あれを見た後ずっと旧中央地下連絡路の台帳を開いてた。戻りが遅いからミオが騒ぎかけた。だから私が封鎖記録を見た」
「……俺、どうやって戻ったんですか」
「巡回班が見つけた。地下入口の近くで倒れていたそうだよ」
「中じゃなくて?」
「入口の近くだ」
シノの声に、少しだけ硬さが混じった。
「靴の裏に地下の黒い粉がついていた。服は濡れていた。けど、封鎖線は開いてなかったことになっている」
「開けました」
「だろうね」
「でも、開いてなかった?」
「記録上はね」
トオルは職員証を握りしめた。
記録上。
その言葉が、妙に遠く聞こえる。
シノはトオルの目を覗き込んだ。
「トオル」
呼ばれた。
音は聞こえた。
だが、反応が一拍遅れた。
「……はい」
「もう一度」
「え?」
「返事をしな」
シノは同じ調子で言った。
「トオル」
胸の奥で、何かがわずかに震えた。
「はい」
「トオル」
「……はい」
「トオル」
「はい」
何度も呼ばれるうちに、ようやくその音が自分へ届き始めた。
トオル。
それは職員証に書かれた記号ではない。
誰かがこちらへ投げてくる音だ。
返事をすれば、自分がまだここにいると示せる音だ。
シノは小さく息を吐いた。
「戻ってきたね」
「……何なんですか、これ」
「私にも分からない」
「シノさん」
「本当に分からないんだよ」
シノは静かに言った。
「ただ、古くから伝わってることがある。暗いところから戻った者には、名前を呼べ。呼ばれて返せるなら、まだこっちにいる」
「暗いところって、地下のことですか」
「さあね」
「知ってるんじゃないんですか」
「知っていることと、分かっていることは違う」
シノは紙束の端を整えた。
「私が知っているのは、手順だけだ。理由までは知らない。理由を残した人たちは、だいたい理由ごと消えた」
その言い方に、トオルは何も返せなかった。
視線を落とす。
そこで、初めて気づいた。
右手首に、黒い輪がある。
細い腕輪のようだった。
金属に見えるが、表面は妙に滑らかで、継ぎ目がない。
自分でつけた覚えはない。
トオルは左手で触れた。
冷たい。
だが、冷たさの奥で何かが微かに脈打っている。
自分の脈ではない。
もっと遅く、もっと深い拍。
「……これ」
シノも視線を落とした。
だが、驚きはしなかった。
代わりに、顔色だけが少し悪くなる。
「触るんじゃない」
トオルは手を止めた。
「知ってるんですか」
「知らない」
「またそれですか」
「名前は知らない」
シノはトオルの右手首を見つめたまま言った。
「でも、黒い栞に似ている」
「栞?」
「昔話だよ」
「ただの腕輪に見えますけど」
「そう見えるなら、今はそうなんだろう」
「外れません」
「外そうとしたのかい」
「今」
「やめな」
シノの声が、少し鋭くなった。
「外せるものなら、最初からついてない」
トオルは右手首を見る。
黒い輪は、最初からそこにあったように肌に馴染んでいた。
けれど、それは体の一部ではない。
誰かが、後からつけたものだ。
【次も読めるように、印をつけるね】
あの文字が頭に蘇る。
胃の底が冷えた。
トオルは立ち上がろうとした。
だが、膝に力が入らず、ベッドへ座り直す。
「昨日のこと、誰かに話しましたか」
「巡回班には、地下入口で倒れていたとだけ伝えてある。ミオには、疲労だと言っておいた」
「ミオは」
「仕事中だよ。あんたのこと、ずいぶん心配していた」
それを聞いた瞬間、扉の向こうで足音がした。
軽い足音。
すぐにノックもなく扉が開く。
「トオルさん、起きました?」
ミオが顔をのぞかせた。
手には小さな紙袋を持っている。
管理所の売店で買える安い栄養補助食だ。
「あ、起きてる。よかった」
ミオはほっとしたように笑った。
その顔を見て、トオルは少し安心した。
安心したはずなのに、その色が薄く見えた。
ミオの髪の色。
頬の血色。
制服の青み。
全部が、ほんの少しだけ灰色に近い。
トオルは目を擦った。
「大丈夫ですか?」
ミオが近づく。
「顔、かなり悪いですよ」
「寝不足」
「昨日もそれ言ってました」
「便利なんだよ、寝不足は」
「便利に使う言葉じゃないです」
ミオは紙袋を机に置き、トオルの職員証に目をやった。
「トオルさん、さっき受付で名前呼ばれてたのに、反応しなかったらしいですよ。みんな心配してました」
「そうか」
「そうか、じゃなくて」
ミオは少し眉を寄せる。
「本当に、何かありました?」
その問いに、トオルは答えられなかった。
何か。
何かはあった。
でも、それを言葉にすると、また返事をすることになるような気がした。
画面の目。
余白の文字。
印をつけるという言葉。
あれを説明するためには、あれをもう一度開かなければならない。
「地下へ行ったんですか」
ミオの声が低くなった。
トオルは思わずシノを見た。
シノは何も言わない。
ミオは紙袋を握ったまま、トオルを見ていた。
「昨日、旧中央地下連絡路のファイル見てましたよね。シノさんにも聞いてたし。そのあと、戻ってこなかったから」
「確認しただけだ」
「確認って、封鎖区域ですよね」
「入口まで」
「嘘が下手です」
ミオは小さく息を吐いた。
「トオルさん、たまにそういうところありますよね。誰も気にしてない記録を、ひとりで気にするところ」
「仕事だから」
「仕事で地下に倒れるまで行かないでください」
トオルは返事に詰まった。
ミオの声は怒っているというより、怖がっていた。
トオルが何かに巻き込まれたことを、理屈ではなく感じ取っている。
その時、右手首の黒い輪が冷えた。
トオルは無意識に袖で隠す。
ミオがそれを見る。
「今、何か隠しました?」
「何も」
「絶対隠しましたよね」
「見間違いだ」
「トオルさん、本当に嘘が下手です」
ミオがさらに近づこうとした瞬間、シノが口を開いた。
「ミオ」
「はい」
「今はそこまでにしときな」
ミオは不満そうにする。
「でも」
「今のこの子に近づきすぎると、あんたも引っ張られる」
ミオの表情が固まった。
「引っ張られるって、何にですか」
「分からないものには、分からないまま距離を取るんだよ」
「それ、説明になってません」
「説明できることなら、とっくにしてる」
シノの声は静かだった。
だが、その静かさに逆らえない重さがあった。
ミオは唇を結ぶ。
「……分かりました」
そう言って、紙袋をトオルの方へ押しやった。
「食べてください。倒れられると困るので」
「ありがとう」
「ちゃんと返事できるじゃないですか」
ミオは少しだけ笑った。
「トオルさん」
また呼ばれた。
今度は、少し早く反応できた。
「何」
「呼ばれたら、ちゃんと返事してくださいね」
ミオは冗談めかして言った。
けれど、その言葉はトオルの中に重く残った。
呼ばれたら、返事をする。
それだけのことが、今の自分には命綱のように思えた。
ミオが出ていった後、仮眠室にはまた紙の匂いだけが残った。
シノはしばらく黙っていた。
それから、机の上に一枚の古い紙を置く。
何かの写しのようだった。
端が焼けている。文字はかすれている。
「これは?」
「うちに残っていたものだよ。意味は知らない」
トオルは紙を見た。
そこには短い文章がある。
黒い栞を持つ者には、名前を呼び続けること。
返事が遅れても、怒らないこと。
目が合わなくても、離れないこと。
余白に返事を書かないこと。
トオルは最後の行で手を止めた。
「余白に返事を書かないこと」
「そう書いてある」
「誰が残したんですか」
「知らない」
シノはまた同じ答えを返した。
「けど、守ってきた」
「理由も知らずに?」
「理由を知ろうとした者が消えたなら、理由を知らずに守る方が長生きできる」
トオルは右手首の黒い輪を見た。
冷たさは消えていない。
むしろ、紙を見たことで少しだけ締まった気がした。
シノは立ち上がる。
「今日は帰りな」
「仕事は」
「休め」
「臨時職員がそんな簡単に」
「私が言っておく」
「シノさん」
トオルは呼び止めた。
「俺は、何に印をつけられたんですか」
シノは扉の前で止まった。
しばらく背中を向けたままだった。
「印をつけるものには、たいてい持ち主がいる」
それだけ言って、シノは出ていった。
仮眠室に一人残されたトオルは、右手首を見つめる。
黒い輪は静かだった。
だが、表面に一瞬だけ文字のようなものが浮いた。
読もうとした。
その瞬間、目の奥が痛む。
トオルは反射的に目を閉じた。
読むな。
シノの声が蘇る。
見るな。
読むな。
返事をするな。
けれど、もう遅い。
あの暗闇は、トオルを見つけた。
そして今も、きっとどこかで続きを待っている。
トオルは職員証を握りしめる。
そこには、確かに自分の登録名がある。
トオル。
読める。
でもまだ、その名前は少し遠かった。
お読みいただきありがとうございます。
シノさんとミオは、今後のトオルにとってかなり大事な存在になります。
特に「名前を呼ぶ」という行為は、この世界ではただの呼びかけではありません。
次話は、黒い腕輪の正体に少し踏み込みます。




