表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神様だって書き換えられる 〜暗闇が「神話を殺せ」と囁き嗤う〜  作者: ヤマザキ ハルノ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/9

2話 この名はいったい誰のもの

最初に聞こえたのは、紙をめくる音だった。


 ぱらり。


 ぱらり。


 近くで誰かが書類を読んでいる。


 そう思って、トオルは目を開けた。


 白い天井が見えた。


 見慣れた天井だった。

 マツヤマ区画管理所の仮眠室。

 切れかの蛍光灯。黄ばんだ換気口。隅に古い染み。眠れない職員が何度も見上げてきた、味気ない天井。


 そこに自分がいることは分かった。


 けれど、なぜここにいるのかが分からなかった。


 身体を起こそうとして、右腕に鈍い痛みが走る。


「……っ」


 息が詰まった。


 痛みは腕だけではなかった。

 肩、首、背中、目の奥。

 全身が、一晩中冷たい床に寝かされていたように重い。


 記憶をたどる。


 旧中央地下連絡路。

 封鎖シャッター。

 長すぎる地下道。

 基底現実保全機構。

 四国支部■■基地。

 記録保持優先。

 見るな。読むな。返事をするな。


 そこまでは思い出せた。


 最後のメモも覚えている。


 これを読む者がいるなら。

 君はもう、読まれている。


 画面に映った目。

 全部同じ目。

 こちらを追う目。


 そして、文字。


 見つけた。

 まだ壊れてない。

 よかった。


 トオルは息を止めた。


 思い出せる。


 あれは夢ではない。


 仮眠室の中には誰もいなかった。


 ただ、枕元の小さな机に、職員証が置かれていた。

 トオルはそれを手に取る。


 登録名の欄を見る。


 トオル。


 文字は読めた。


 けれど、数秒間、その意味が分からなかった。


 自分の登録名だ。

 そう理解するのに、遅れがあった。


 まるで知らない誰かの名札を拾ったようだった。


 トオル。


 もう一度読む。


 読める。

 けれど、自分の内側に引っかからない。


 自分を呼ぶための音だったはずなのに、どこか遠い。

 職員証の上に印字された、ただの記号に見えた。


 胸の奥が冷たくなる。


「……俺の、名前だろ」


 声に出してみる。


 だが、言葉は部屋の中に落ちただけだった。

 返ってこない。


 その時、扉が開いた。


 シノが立っていた。


 いつものように背筋は伸びている。

 古い資料庫の匂いをまとった老婦。

 片手に紙束を抱えている。


 シノは仮眠室に入るなり、トオルの顔を見た。


 そして、眉をわずかに寄せた。


「起きたかい」


「……はい」


「返事が遅いね」


「寝起きなので」


「寝起きの目じゃない」


 シノは椅子を引き、トオルの正面に座った。

 紙束を机に置く。


「どこまで覚えてる」


 トオルはすぐには答えなかった。


 覚えている。

 だが、口に出すのが嫌だった。


「地下へ行きました」


「知ってるよ」


 シノは淡々と言った。


「あんた、昨日あれを見た後ずっと旧中央地下連絡路の台帳を開いてた。戻りが遅いからミオが騒ぎかけた。だから私が封鎖記録を見た」


「……俺、どうやって戻ったんですか」


「巡回班が見つけた。地下入口の近くで倒れていたそうだよ」


「中じゃなくて?」


「入口の近くだ」


 シノの声に、少しだけ硬さが混じった。


「靴の裏に地下の黒い粉がついていた。服は濡れていた。けど、封鎖線は開いてなかったことになっている」


「開けました」


「だろうね」


「でも、開いてなかった?」


「記録上はね」


 トオルは職員証を握りしめた。


 記録上。


 その言葉が、妙に遠く聞こえる。


 シノはトオルの目を覗き込んだ。


「トオル」


 呼ばれた。


 音は聞こえた。


 だが、反応が一拍遅れた。


「……はい」


「もう一度」


「え?」


「返事をしな」


 シノは同じ調子で言った。


「トオル」


 胸の奥で、何かがわずかに震えた。


「はい」


「トオル」


「……はい」


「トオル」


「はい」


 何度も呼ばれるうちに、ようやくその音が自分へ届き始めた。


 トオル。


 それは職員証に書かれた記号ではない。

 誰かがこちらへ投げてくる音だ。

 返事をすれば、自分がまだここにいると示せる音だ。


 シノは小さく息を吐いた。


「戻ってきたね」


「……何なんですか、これ」


「私にも分からない」


「シノさん」


「本当に分からないんだよ」


 シノは静かに言った。


「ただ、古くから伝わってることがある。暗いところから戻った者には、名前を呼べ。呼ばれて返せるなら、まだこっちにいる」


「暗いところって、地下のことですか」


「さあね」


「知ってるんじゃないんですか」


「知っていることと、分かっていることは違う」


 シノは紙束の端を整えた。


「私が知っているのは、手順だけだ。理由までは知らない。理由を残した人たちは、だいたい理由ごと消えた」


 その言い方に、トオルは何も返せなかった。


 視線を落とす。


 そこで、初めて気づいた。


 右手首に、黒い輪がある。


 細い腕輪のようだった。

 金属に見えるが、表面は妙に滑らかで、継ぎ目がない。

 自分でつけた覚えはない。


 トオルは左手で触れた。


 冷たい。


 だが、冷たさの奥で何かが微かに脈打っている。

 自分の脈ではない。

 もっと遅く、もっと深い拍。


「……これ」


 シノも視線を落とした。


 だが、驚きはしなかった。

 代わりに、顔色だけが少し悪くなる。


「触るんじゃない」


 トオルは手を止めた。


「知ってるんですか」


「知らない」


「またそれですか」


「名前は知らない」


 シノはトオルの右手首を見つめたまま言った。


「でも、黒い栞に似ている」


「栞?」


「昔話だよ」


「ただの腕輪に見えますけど」


「そう見えるなら、今はそうなんだろう」


「外れません」


「外そうとしたのかい」


「今」


「やめな」


 シノの声が、少し鋭くなった。


「外せるものなら、最初からついてない」


 トオルは右手首を見る。


 黒い輪は、最初からそこにあったように肌に馴染んでいた。

 けれど、それは体の一部ではない。


 誰かが、後からつけたものだ。


 【次も読めるように、印をつけるね】


 あの文字が頭に蘇る。


 胃の底が冷えた。


 トオルは立ち上がろうとした。

 だが、膝に力が入らず、ベッドへ座り直す。


「昨日のこと、誰かに話しましたか」


「巡回班には、地下入口で倒れていたとだけ伝えてある。ミオには、疲労だと言っておいた」


「ミオは」


「仕事中だよ。あんたのこと、ずいぶん心配していた」


 それを聞いた瞬間、扉の向こうで足音がした。


 軽い足音。


 すぐにノックもなく扉が開く。


「トオルさん、起きました?」


 ミオが顔をのぞかせた。


 手には小さな紙袋を持っている。

 管理所の売店で買える安い栄養補助食だ。


「あ、起きてる。よかった」


 ミオはほっとしたように笑った。


 その顔を見て、トオルは少し安心した。

 安心したはずなのに、その色が薄く見えた。


 ミオの髪の色。

 頬の血色。

 制服の青み。


 全部が、ほんの少しだけ灰色に近い。


 トオルは目を擦った。


「大丈夫ですか?」


 ミオが近づく。


「顔、かなり悪いですよ」


「寝不足」


「昨日もそれ言ってました」


「便利なんだよ、寝不足は」


「便利に使う言葉じゃないです」


 ミオは紙袋を机に置き、トオルの職員証に目をやった。


「トオルさん、さっき受付で名前呼ばれてたのに、反応しなかったらしいですよ。みんな心配してました」


「そうか」


「そうか、じゃなくて」


 ミオは少し眉を寄せる。


「本当に、何かありました?」


 その問いに、トオルは答えられなかった。


 何か。


 何かはあった。


 でも、それを言葉にすると、また返事をすることになるような気がした。


 画面の目。

 余白の文字。

 印をつけるという言葉。


 あれを説明するためには、あれをもう一度開かなければならない。


「地下へ行ったんですか」


 ミオの声が低くなった。


 トオルは思わずシノを見た。


 シノは何も言わない。


 ミオは紙袋を握ったまま、トオルを見ていた。


「昨日、旧中央地下連絡路のファイル見てましたよね。シノさんにも聞いてたし。そのあと、戻ってこなかったから」


「確認しただけだ」


「確認って、封鎖区域ですよね」


「入口まで」


「嘘が下手です」


 ミオは小さく息を吐いた。


「トオルさん、たまにそういうところありますよね。誰も気にしてない記録を、ひとりで気にするところ」


「仕事だから」


「仕事で地下に倒れるまで行かないでください」


 トオルは返事に詰まった。


 ミオの声は怒っているというより、怖がっていた。

 トオルが何かに巻き込まれたことを、理屈ではなく感じ取っている。


 その時、右手首の黒い輪が冷えた。


 トオルは無意識に袖で隠す。


 ミオがそれを見る。


「今、何か隠しました?」


「何も」


「絶対隠しましたよね」


「見間違いだ」


「トオルさん、本当に嘘が下手です」


 ミオがさらに近づこうとした瞬間、シノが口を開いた。


「ミオ」


「はい」


「今はそこまでにしときな」


 ミオは不満そうにする。


「でも」


「今のこの子に近づきすぎると、あんたも引っ張られる」


 ミオの表情が固まった。


「引っ張られるって、何にですか」


「分からないものには、分からないまま距離を取るんだよ」


「それ、説明になってません」


「説明できることなら、とっくにしてる」


 シノの声は静かだった。

 だが、その静かさに逆らえない重さがあった。


 ミオは唇を結ぶ。


「……分かりました」


 そう言って、紙袋をトオルの方へ押しやった。


「食べてください。倒れられると困るので」


「ありがとう」


「ちゃんと返事できるじゃないですか」


 ミオは少しだけ笑った。


「トオルさん」


 また呼ばれた。


 今度は、少し早く反応できた。


「何」


「呼ばれたら、ちゃんと返事してくださいね」


 ミオは冗談めかして言った。


 けれど、その言葉はトオルの中に重く残った。


 呼ばれたら、返事をする。


 それだけのことが、今の自分には命綱のように思えた。


 ミオが出ていった後、仮眠室にはまた紙の匂いだけが残った。


 シノはしばらく黙っていた。


 それから、机の上に一枚の古い紙を置く。


 何かの写しのようだった。

 端が焼けている。文字はかすれている。


「これは?」


「うちに残っていたものだよ。意味は知らない」


 トオルは紙を見た。


 そこには短い文章がある。


 黒い栞を持つ者には、名前を呼び続けること。

 返事が遅れても、怒らないこと。

 目が合わなくても、離れないこと。

 余白に返事を書かないこと。


 トオルは最後の行で手を止めた。


「余白に返事を書かないこと」


「そう書いてある」


「誰が残したんですか」


「知らない」


 シノはまた同じ答えを返した。


「けど、守ってきた」


「理由も知らずに?」


「理由を知ろうとした者が消えたなら、理由を知らずに守る方が長生きできる」


 トオルは右手首の黒い輪を見た。


 冷たさは消えていない。


 むしろ、紙を見たことで少しだけ締まった気がした。


 シノは立ち上がる。


「今日は帰りな」


「仕事は」


「休め」


「臨時職員がそんな簡単に」


「私が言っておく」


「シノさん」


 トオルは呼び止めた。


「俺は、何に印をつけられたんですか」


 シノは扉の前で止まった。


 しばらく背中を向けたままだった。


「印をつけるものには、たいてい持ち主がいる」


 それだけ言って、シノは出ていった。


 仮眠室に一人残されたトオルは、右手首を見つめる。


 黒い輪は静かだった。


 だが、表面に一瞬だけ文字のようなものが浮いた。


 読もうとした。


 その瞬間、目の奥が痛む。


 トオルは反射的に目を閉じた。


 読むな。


 シノの声が蘇る。


 見るな。

 読むな。

 返事をするな。


 けれど、もう遅い。


 あの暗闇は、トオルを見つけた。


 そして今も、きっとどこかで続きを待っている。


 トオルは職員証を握りしめる。


 そこには、確かに自分の登録名がある。


 トオル。


 読める。


 でもまだ、その名前は少し遠かった。

お読みいただきありがとうございます。


シノさんとミオは、今後のトオルにとってかなり大事な存在になります。

特に「名前を呼ぶ」という行為は、この世界ではただの呼びかけではありません。


次話は、黒い腕輪の正体に少し踏み込みます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ