1話 暗闇が読んでいる
神に閉じられた世界、シコク。
そこでは人が神に納められ、納め損ねたものはゾンビとなって街へ戻る。
マツヤマ区画管理所の臨時職員トオルは、ある日、読んではいけない記録を読んでしまう。
そして暗闇に、印をつけられた。
マツヤマ区画管理所の朝は、いつも紙の匂いがする。
電子台帳への移行は何年も前から進められているはずなのに、封鎖区域課の奥には、まだ古い紙束が山のように残っていた。黄ばんだ報告書。角の潰れた地図。誰が貼ったのか分からない付箋。何度も修正され、修正されたことさえ忘れられた記録。
トオルの仕事は、それらを一枚ずつ確認して、残すものと捨てるものに分けることだった。
重要な仕事ではない。
少なくとも、正規職員たちはそう思っている。
臨時職員のトオルに回されるのは、だいたいそういう記録だった。誰も読みたがらない。けれど、捨てるには少しだけ気味が悪い。だから誰かが最後に目を通さなければならない。
その“誰か”に、トオルはよく選ばれた。
「トオル、北側倉庫の古い封鎖台帳、午前中に見ておいて」
隣の机から、ミオが声をかけてきた。
ミオも臨時職員だった。トオルより少し若い。紙資料が苦手で、端末処理は速い。人の名前を呼ぶ癖がある。
「北側倉庫って、昨日も出なかったか」
「出ました。でも昨日のは西側です。今日は北側です」
「違いが分からない」
「分からないから残ってるんですよ、ああいうの」
ミオは笑って、トオルの机に薄いファイルを置いた。
表紙には、かすれた文字でこう書かれていた。
旧中央地下連絡路。
トオルは、少し眉を寄せた。
「これ、まだ残ってたのか」
「知ってるんですか?」
「名前だけ。中心街の地下にあった古い通路だろ。今は封鎖済み」
「そうらしいです。わたし、場所は知らないですけど」
知らない。
その言い方が普通だった。
この区画には、そういう場所がいくつもある。地図には載っているのに誰も行かない場所。昔はあったらしいが、今は誰も詳しく覚えていない場所。封鎖された理由だけが残り、何故封鎖したのかが曖昧になった場所。
トオルはファイルを開いた。
最初の数枚は、普通の封鎖記録だった。
老朽化。地盤沈下。迷入事故。夜間立入禁止。未確認の空間拡張。
珍しくはない。
けれど、奥のページへ進むにつれ、記録の体裁が崩れていった。
項目名が欠けている。
日付が途中から消えている。
担当部署の欄に、見慣れない文字列が残っていた。
基ー■■保全■ー
四国ー部■■基地
トオルは手を止めた。
その下に、別の筆跡で短く書かれている。
見るな。
読むな。
返事をするな。
トオルはその三行を、しばらく見ていた。
警告文にしては乱れている。
走り書きにしては、筆圧が強い。
誰かが焦って書いたのではない。
恐怖に震えながら書いたような字だった。
「シノさん」
トオルは古い紙資料の棚へ向かって声をかけた。
棚の向こうで、老婦がゆっくり顔を上げる。
シノは正規職員だった。年齢は分からない。誰に聞いても「昔からいる」としか返ってこない。封鎖区域台帳と紙資料の扱いについては、管理所で彼女に逆らえる者はいなかった。
「なんだい」
「この記録、見たことありますか」
トオルはファイルを差し出した。
シノは表紙を見て、目を細めた。
その目が、ほんの一瞬だけ止まった。
「旧中央地下連絡路かい」
「この下の文字です。基……何かの保全? 四国の基地って読めますけど」
「知らないね」
返事は早かった。
早すぎた。
シノはファイルを閉じるように、表紙を軽く叩いた。
「古い台帳には、そういうのが混じるんだよ。部署名も、施設名も、今と合わない。読めないものは読まない。臨時の仕事は、無理に解くことじゃない」
「でも、警告みたいな追記があります」
「なら、なおさらだ」
シノはトオルを見た。
「見るな、読むなって書いてあるものを、わざわざ読むんじゃないよ」
「それ、仕事としてはだいぶ無理があります」
「仕事より大事なこともある」
そう言って、シノはファイルをトオルに返した。
それ以上は何も言わなかった。
知らない、という顔ではなかった。
思い出したくない、という顔だった。
昼を過ぎる頃には、その記録は端末上から消えかけていた。
トオルが紙台帳と照合しようとすると、施設番号の一部が空欄になる。再読み込みをしても戻らない。地図データを開くと、中心街の地下構造図に、不自然な余白があった。
そこに何かがあったはずなのに、地図の方がそれを表記できない。
そういう消え方だった。
トオルは画面を閉じた。
こういう記録は、放っておくと消える。
消えた後は、最初からなかったことになる。
誰かが困るわけではない。
誰かが怒るわけでもない。
ただ、そこに何かがあったという事実だけが、きれいに片づけられる。
トオルはそれが嫌いだった。
勤務後、トオルは中心街へ向かった。
夕方の中心街は、まだ人が多い。商業棟の明かり、帰宅する職員、閉鎖線の黄色い標識。日常は、壊れた世界の上にも平気で積もっていく。
旧中央地下連絡路の入口は、中央封鎖区にある商店街手前古い階段の先にあった。
地上から見ると、ただの封鎖シャッターだった。横には案内板の跡がある。施設名は剥がされている。下半分だけ残った矢印が、地下へ向いていた。
封鎖は厳重ではなかった。
厳重にする必要がないのだろう。
誰もここを覚えていないのだから。
トオルは管理所の簡易端末をかざした。反応はない。
次に、紙台帳に挟まっていた古い解除札を試す。
シャッターが、低い音を立てて開いた。
地下は暗かった。
非常灯は点いている。けれど、その光は通路全体を照らしていなかった。壁のタイルは湿り、古い広告の跡が黒く浮いている。地下なのに、遠くで紙をめくるような音がした。
トオルは携帯しているライトをつけた。
通路は、記憶していたより長かった。
いや、トオルにこの通路の記憶はない。
それでも、長すぎると思った。
途中で、案内板があった。
出口名は剥がれている。だが、その下に別の文字が浮き上がっていた。
『我々は何をしたのか』
トオルは息を殺した。
さらに奥へ進むと、通路の空気が変わった。
商業施設の地下ではない。駅でもない。避難路でもない。壁が厚くなり、天井が低くなり、床には細い溝が走っている。排水溝に見えたが、水は流れていない。
突き当たりに、隔壁があった。
古い金属扉。
ひび割れた銘板。
ライトを当てる。
文字が見えた。
基底■実保■機構
■国支部■■基地
記■保持優■
その下に、刃物で削ったような文字が刻まれている。
見る■。
読■な。
■■を■るな。
トオルは、喉の奥が乾くのを感じた。
帰るべきだ。
シノの声が頭に浮かんだ。
読めないものは読むな。
けれど、ここまで来て帰れば、この記録は消える。
この場所が何だったのか、誰も知らないまま終わる。
トオルは扉に手をかけた。
鍵はかかっていなかった。
中は、記録室だった。
棚は倒れ、書類は床に散らばっている。端末は黒く焼けている。壁には古いモニタが並んでいたが、どれも消えていた。
部屋の中央に、机があった。
その上に、一枚の紙が置かれている。
紙は古い。だが、妙に綺麗だった。
黄ばみも破れも少ない。そこだけ時間が避けたように残っている。
手書きだった。
震えた文字。
急いだ文字ではない。
最後まで書かなければならないと分かっていた者の文字。
トオルは紙を持ち上げた。
最初の数行は、ほとんど読めなかった。
文字が欠け、ところどころ黒く抜け落ちている。
読めたのは、断片だけだった。
我々は、記録した。
名を与えた。
忘れられるはずのものを、保存してしまった。
世界は避難所として改稿された。
正常だった世界は、すでに敗北している。
トオルは意味を理解できなかった。
けれど、最後の一文だけは、はっきり読めた。
これを読む者がいるなら。
君はもう、読まれている。
その瞬間、部屋の中で音がした。
ぶつり。
壁のモニタが一台、点いた。
次に二台。
三台。
割れていた画面まで、順番に白く光る。
全部の画面に、同じものが映っていた。
目だった。
人の目に見えた。
けれど、瞬きの間隔が人間ではない。
トオルは後ずさった。
すべての目が、同時に動いた。
すべてが、トオルを見た。
モニタの一つに、文字が滲む。
【見つけた】
次の画面に、続きが出る。
【まだ壊れてない】
別の画面。
【よかった】
トオルは声を出せなかった。
目は瞬きをする。
そのたびに、部屋が少し暗くなる。
トオルの手の中で、紙が冷たくなる。
逃げようとした。
だが、足が動かない。
画面の目が、笑ったように細くなった。
【もう、閉じないで】
紙の余白に、最後の文字が浮かぶ。
【次も読めるように印をつけるね】
右手首が、氷のように冷えた。
何かが巻きつく感覚があった。
それは痛みではない。
名前を書かれるような、嫌な感覚だった。
トオルは息を吸った。
返事をしてはいけない。
本能がそう思った。
けれど、返事をしたかどうかを確かめる前に、意識は暗闇へ落ちた。
お読みいただきありがとうございます。
この世界では、神様は救いではなく災害に近いものです。
トオルが読んでしまった記録、そして彼を見つけた暗闇。
ここから少しずつ、シコクという閉じた世界の輪郭を出していきます。
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