8
結局その日はベッドの上で夜まで過ごすこととなった。マリーが退出した後も護衛のオリバーたちが部屋の外で張っていて、勝手な外出など許してはくれなさそうだったからだ。そして五階となれば窓から忍び出ることもできず、退屈を持て余しながらも大人しくしているしかなかった。
しかしわざわざトゥドールの地まで来たのに、ホテルの部屋に閉じ籠っているのももったいない。もちろん観光に来たわけではないのはわかっている。だがわたしのすべきこと、この世界を知り、元の世界へ帰るための手掛かりを得るには絶好の機会なのだ。グレインディールでは見れないもの、知れないこと、会えない人間。きっとこの扉の外は、それらでいっぱいのはずだ。
「ねえ、アンジュ?」
ひとり室内に残ってわたしの世話をしてくれているアンジュにそう問いかけると、すぐに「……ダメだ」と返ってくる。
「まだ何も言ってないんだけど?」
「聞かれなくてもわかってる。外に出たいんだろ?」
「いやまあそうなんだけど」
「さすがに今日はダメだろ、昼間ぶっ倒れたばかりなんだから。あいつも本気で心配してたんだぜ。せめて今日くらいは大人しくして安心させてやんな、お嬢さまよ」
口調は口調だが言っていることはもっともだった。自分の目的も大事だが、そのせいで周りに迷惑や心配をかけるのも本意ではない。
「……わかった」
だからそう言って、渋々頷くしかなかった。それでもせめてと思って体を起こし、ベッドから降りる。このフロアを少しうろつくぐらいは許してもらえるだろう。
「それでも寝てるだけじゃ息が詰まる。バルコニーに出て外の空気を吸うくらいはいいでしょう?」
「まあ、そのくらいなら」
アンジュも肩をすくめて許してくれた。
「腹は減ってないかい。減ってるようなら、外のやつに言って持ってきてもらうけど」
「いいね」と、笑って答えた。「軽くつまめるものでいいからお願い。もちろん、あなたの分もね」
そうしてわたしたちはゆうに十畳以上はありそうなバルコニーに出て、置かれていたテーブルセットに腰を下ろす。最上階とあって、見上げるとすっかり更けた夜空が広がっていた。いくぶん風はあったが、髪が乱れるほどではない。むしろ程よく冷たく、ベッドで汗ばんでしまった頬に心地よかった。
五階からだけに、宿の外の街並みもある程度は見渡すことができた。とはいえ夜の帳が下りたあとともなれば、点々とまばらに灯った松明の明かりくらいしか見えるものはない。それでも、このトゥドールの街の広さくらいはだいたい把握することができた。
「あのあたり……松明が集まってるところが兵舎かしらね」
「ああ、あれは北門の守衛所みたいなもんじゃねえかな。竜騎士団の本部も、辺境伯邸と一緒でこの反対側だ。ここからは見えない」
確かに、松明が集まって入るけれど、本部と呼ぶにはいささか小さかった。おそらく彼女の言う通り守衛所か、巡回の衛兵の詰所だろう。そう思いながら目を凝らしていると、ちょうどそこから黒い影が羽ばたきながら舞い上がるのが見て取れた。
「見て、竜よ」
黒いシルエットはそのまま真っ直ぐに五、六十メートルほどの上空まで達し、そこで一度小さく旋回すると、城壁に沿ってゆっくりと飛行を開始した。おそらくはパトロールのようなものだろう。ああしてこんな夜でも市内を巡回し、市民の安全を見守っているのだ。
聞こえるわけがないとわかっていても、ついついお疲れさまです、と声が漏れる。どんな世界にも、こうした激務を人知れず黙々と続けている人たちがいる。それはわたしの元いた世界と同じだ。
そんな人たちに思いをはせながら、用意してもらったサンドイッチを口に運ぶ。しかしそのときだった。不意に、頭上の夜空から奇妙な圧力を感じた。その感じには覚えがあった。そう、数ヶ月前にグレインディールで経験したのと同じ、大規模な魔術が発動したときの感覚だった。
「……何?」
傍らでアンジュもこめかみを押さえながらよろめいていた。先の一件で、彼女はわたし以上に魔力への感受性が強いのはわかっていた。わたしが圧力を感じる程度のことでも、彼女にはかなりの苦痛でさえあると。
「アンジュ、大丈夫?」
「平気だ。それより、何だこれ?」
わたしにだってわからない。わかるのは、何か大きな魔術が発動しようとしていることだけだ。しかし、どうして。誰が。魔術師はほとんどいないはずのこのトゥドールで。
次の瞬間、空に巨大な方陣が浮かび上がった。以前グレインディールで見たどれとも違うが、方陣であることだけは確かだ。しかしそれもほんの一瞬。まばたきひとつほどの間に、方陣は跡形もなく消え去っていた。
そして同時に、のしかかるような圧力もなくなった。あとにはただ、満天に星がまたたく夜空があるだけだった。
「何……だったの、今のは」
もう一度、答えがないのを承知でつぶやいた。だが見間違いじゃない。確かに、何かの魔術が発動した。しかし今の方陣は何だ。いったい何の魔術だ。
ここにワッツ魔検士を伴っていないことが悔やまれた。彼なら、方陣を見ただけでどういった魔術かを読み取ることができたはずだ。それなら、先ほど見たものを覚えている限り書き留めて、あとで彼に見てもらうしかない。
「アンジュ。紙と筆を持ってきて」
これでも記憶力には自信がある。一度すれ違っただけの人の顔を、寸分違わず正確に記憶すること。それは警察官としての必須の技能である。警察学校でもその技術を徹底的に叩き込まれた。もちろん大きな方陣のすべてを記憶しておくことは不可能だが、ところどころの重要そうなパターンは脳裏に焼き付いている。
「……アンジュ?」
しかし彼女にはわたしの言葉が聞こえていないようだった。驚きに目を見開き、じっと眼下の街を見下ろしている。
「どうしたの?」
「いや……見たかい、お嬢さまよ」
「見たって……何を?」
彼女は一瞬言葉に詰まったように黙り込み、それから一度唾を飲み込んでから続けた。
「竜が……墜ちた」
はっとして空を見上げると、さっきまで空を巡回していた飛竜のシルエットが見当たらなかった。かわりに街がざわついている。西の城壁沿いの家のあたりに、松明を持った人々が集まりつつある。その明かりに照らされて、一軒の家の屋根が不恰好に陥没しているのが見て取れた。
「墜ちた……竜が。いったいどうして……」
もちろん、アンジュはそれには答えなかった。けれど先ほど空に見えた方陣、そして発動したのであろう魔術と関係があるのだろうことだけは確かだった。




