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拡散していた意識がひとつところに集まり、再びわたしを形作ってゆく。真っ白だった視界はやがて本当の闇に変わり、その中をふわふわと漂う感覚だけがあった。
やがて再び重力が戻ってくると、わたしはベッドの中にいた。まるで落ちてきたところをベッドに柔らかく受け止められたみたいに思えたが、まあ気のせいだろう。もとからそこに横たえられたところで、ようやく目を覚ましただけだ。そして薄く瞼を開き、宿の天井を確認すると、すぐにまた閉じる。部屋の中に、別の人間の気配を感じたからだ。
「いったい何をお考えなのですか、ルイさま!」
まず聞こえてきたのはマリーの声だった。いつも冷静なはずの彼女が、珍しく激昂している。
「思い付きで言ったことではない。もうずっと、長いこと考えていたことだ」
続いて、男の声が聞こえる。マリーがルイと呼んでいたところを見ると、あの辺境伯もいるのだろう。元の世界の七光り管理官との関係を問い質すいいチャンスかもとは思ったが、さっきの今でどう顔を合わせればいいのかもわからない。なのでひとまず、状況を把握する間だけでも寝ているフリをしていようと決めた。
目覚めたばかりだというのに、奇妙に思考はクリアだった。おそらくついさっきまで、あの奇妙な白い空間にいたからだろう。なるほど、これが夢という機能の効果か。意識を失っている間も脳は活動していて、目覚めてもすぐに行動したり、思考したりできるように人間はできていると。
「だが確かに、決断したのはさっきだ。会場で、この子の姿を見たときだった」
「どうしてです。ヴァイオレットお嬢様の容姿にご不満でも?」
「不満も何も、まだほんの子供じゃないか。考えてもみろ、私はもう三十だぞ!」
それまで冷静を保っていると聞こえた男の声が、不意に狼狽したように震えた。
「ああ、私を見てどう思っただろう……こんなおっさんが婚約者だと知って、気持ち悪かったのではないか」
「貴族の社会では普通のことです!」
マリーはまた叫ぶように言ったが、その声には呆れの響きもあった。使用人が他家の主、それも貴族に対してとっていい態度じゃない。なんだかずいぶんと気安い雰囲気だなと感じた。
「ヴァイオレットお嬢さまももちろんご承知の上です。この方は、お相手の年齢ぐらいでごちゃごちゃ言うような器の小さなお方ではありません」
えっそうなの、とは思ったが確かにそれは問題ではない。何しろこちらの中の人ももうすぐ三十である。年齢的には釣り合いが取れていると言えるだろう。むしろこの身体と同年代の十四、五歳の男の子が婚約者として現れたなら、よほど罪悪感を覚えていたところだ。
「そもそもが、そのお歳になるまで伴侶を娶ろうともしなかったルイさまが悪いのです。今となっては、年齢が釣り合うお方などもうどこにもおられません!」
何しろ十歳で婚約を決めるような界隈だ。貴族社会というのは早婚なのだろう。それでは、同年代でまだ独身の女性など残ってはいないのも無理はなかった。
そのときふと、マリーはいくつなのだろうと気になった。見たところは二十代後半といった雰囲気だが、それでも結婚している様子はまったくない。それならもう、いっそ彼女が相手になってしまえばいいんじゃないかとも思った。会話を聞いているとずいぶん気安い感じだし、案外お似合いかもしれない。
「だとしてもだ。この女性の伴侶として私が相応しいとは思えない。これはもう決めたことだ。覆す気はない」
「亡きお父上とグレインディール公爵とのご約定はどうなるのです。それはルイさまと言えど、違えて良いものではありませんよ。トゥドール辺境伯家の名誉に消えぬ傷を残します!」
「その約定は、あくまで妹のフランソワとアルフォンス殿との婚姻についてだ。わかるだろう、父は何より、あの妹をこの地から外に出したかったんだ。だがそれは叶わなかった。妹が死んだ以上、その約定はなくなったとみなすべきだ」
そのあたりの話は前に聞いていた。ヴァイオレットの父親であるグレインディール公爵と先代のトゥドール辺境伯の間で交わされた約束は、本来はアルフォンスの元にトゥドールの令嬢が嫁ぐというものだった。しかし残念ながらトゥドール家のフランソワ嬢は病のために急逝し、約束は果たされなかった。
そのため代わりに彼とわたしの婚姻が進められることとなったようだが、それは本意ではなかったかのような物言いだった。まるで、兄とフランソワの婚約には家の繋がりを深めるためとは別に何か目的があったかのようだ。だとするとそれはいったい何か。
「むろん、このご令嬢には悪いことをしたと思っている。さっきも言った通り、償いはさせてもらう。あるいはあらためて、ジュールとの婚儀を進めるのもいいだろう。年齢的にも、私などよりずっと釣り合うはずだ」
「ですが弟君は、まだご自分の竜を得てはおられません」
「だからこそだ。いっそ婿入りという形でこのトゥドールから離れるのもいいだろう。今ならまだ、あいつも自由になれる」
そう言ったあとに、辺境伯が席を立つ音がした。これ以上いくら話しても平行線だと思ったのだろうか。
「また来ることとする。彼女が目を覚ますのを待ってあらためて謝罪をさせてもらおう」
「……わかりました」マリーも諦めたような声音で答えた。「ルイさまのお気持ちは、私からもお伝えしておきます」
そうして、足音が遠ざかって行く。やがてドアが閉まり、部屋の中に静寂が訪れた。
ドアの外の気配が完全に消えるのを確かめたのか、ややあってマリーが言った。
「さて、狸寝入りももうよろしいでしょう、お嬢さま」
どうやらわたしが目覚めていたことに、彼女も気が付いていたようだった。観念して、気まずい思いとともに目を開く。
「いつから?」
「辺境伯閣下がお越しになられてすぐですかね。あの方がくどくどと弁解をはじめたあたりです」
つまりわたしが目を覚ましてすぐということだった。
「お嬢さまのことは、マリーには何でもわかりますから」
まさかそんなことは、と思いつつも納得してしまう。しかしさすがに、中の人がヴァイオレット嬢ではなくてアラサーの警察官であるとまではバレていないだろう。たぶん。
そのとき、窓辺に置かれた花瓶いっぱいのバラの花が目に入った。あんなものは到着したときにはなかったはずだ。
「その花も、辺境伯が?」
「ああ……こちらは下のフロアにご宿泊の伯爵家のご当主さまからです。半刻ほど前に、お見舞いに来てくださいまして」
昨夜会ったドラクーリエ伯爵だろう。どうやら、あの人にも心配をかけてしまったようだ。あとでこちらからも、お礼と無事の報告に行かなければ。
「伯爵には先日、下のラウンジでお会いしたのよ。それで挨拶をさせてもらって」
「さようでございましたか」
あまり詳しく話すと、アンジュが叱られることになる。なのでそのへんはふんわりさせておくことにしよう。
「それより、わたしもマリーのことが少しわかったよ」
「何を、でございますか?」
「あなたはトゥドールの出身だったんだね。おそらく、以前はあのルイっていう新辺境伯閣下に仕えてた」
「はい、そうですよ。お話ししていませんでしたか?」
もしかして、本来のヴァイオレット嬢なら知っていなければならないことだったか。だとしたら失敗だが、マリーはそのことをさほどに訝しんではなさそうだった。ということは、隠してこそいなかったがわたしが知らなくても不思議ではないことだったのだろうか。
「つまりマリーがいつも言っていた『田舎』って、トゥドールのことだったのね。いったいどんな魔境なのかと思っていたけど、十分に都会じゃないの」
確かにまだ満足に見て回れてもいないけれど、この領内が活気があって栄えていることはわかる。とてもじゃないけど、マリーがたびたび言っていたような田舎ではない。
「違います。私の生まれ故郷はここからさらに北、竜の山の中腹にある小さな村でして」
「そうなんだ。そこはどんなところなの?」
「本当に、何もないところです。かつて竜と人が敵対していた頃は、たびたび竜の襲撃を受けていて、女も子供も剣をとって戦っていたのだと。その名残があってか、今も村の子供はみな剣技を仕込まれるのです。おかげで、竜騎士を多く輩出する土地でもあります」
「じゃあ、マリーも実は竜騎士だったりする?」
「いえ、竜騎士になるには竜に選ばれなければなりませんから。女の身で竜に選ばれることはまずありません。なので私は近衛兵として志願しました」
もしかして女は竜に乗れないということか。昨日あのローエという騎士は気を持たせるようなことを言っていたが、あれもそれを知っての上で適当にあしらったということか。
「やがて閣下から腕を認められて、護衛も兼ねたフランソワさまの傍付きに取り立てられたのですが、あの方は残念ながら輿入れが叶わず……その後新たにルイさまの婚約者となったヴァイオレットお嬢さまのお傍に仕えることとなり、グレインディールへ赴いた次第です」
「そうだったのね……でもどうするの。婚約破棄なんてことになって、マリーもトゥドールに戻されるのかしら」
「いえ、ご心配には及びません。あれもルイさまの気の迷いにございます。すぐに後悔して撤回するに決まっていますので、お嬢さまは心安らかにお過ごしください。あとのことはすべて、このマリーにお任せを」
うんまあわたしとしては婚約破棄なら破棄で構わないのだけど、ヴァイオレット嬢の今後を考えれば撤回してもらったほうがいいのだろう。とはいえわたしにできることはなさそうだし、マリーもこう言うなら彼女に任せたほうがよさそうだった。
「でもなんかさっきの口ぶりだと、別にわたしのことを嫌ってのことでもなさそうよね。むしろわたしに気を遣ってでもいるみたいで。ねえマリー、竜騎士団長の家に嫁ぐのって、そんなに過酷なことなの?」
「そのようなことは決して。確かに重責ではありますが、それだけに王国からの信任も厚く、誉れ高いお立場にございます。そしてお嬢さまなら必ず、そのお役目も果たされるとマリーは信じております」
はたしてそうした過酷さだけなのだろうか。先ほどあの辺境伯は、この話はそもそも彼の妹のフランソワをこの地から出すためのものだったと言っていた。次は弟をわたしと結婚させてグレインディールに向かわせようとも。それはまるで、家族をここから避難させようとしているみたいで。
確かにこのトゥドールは王国の最東端でかつては激しい戦場になったとも聞いた。しかしそれも過去のことだ。今はまったく平和で、命の危険などないはずなのに。
ーー戦争は終わってなどいませんよ。
ふと、昨夜のドラクーリエ伯爵の言葉が耳に蘇った。本当に彼の言う通り、今も変わらず水面下で激しい戦いが続いているというのなら。




