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扉が開くと、喧騒が風になって吹き抜けていった。開けた視界にきらびやかな光が舞い、一斉に向けられた視線、そしてまさに万雷といった拍手が圧力となってのしかかってくる。
式場となっている大広間は思った以上に広く、そして来賓の数も多かった。これはトゥドール辺境伯家の力なのか、あるいは貴族の代替わりというのはそれだけの大事ということなのか。
「それでは皆様、拍手をもってお迎えください。われらが将来の辺境伯夫人、朋友グレインディール公爵家のご令嬢、ヴァイオレット・ディ・グレインディールさまのご入場でございます!」
いや結婚式の新婦入場じゃないんだから、と思いはしたが、彼らにしてみれば同じようなものなのか。しかし元の世界では一度も経験しないまま三十を迎えようとしていたわたしが、この世界では十四にして経験することになるなんて。
「さあ、ヴァイオレットさま。お入りください」
ローエの言葉に小さく頷いて、わたしはひとりで歩を進めて大広間に入った。そうして一フロア分ほど高くなったエントランスから、広々とした円形のホールを見渡す。
来賓はざっと見ても百人は下らないだろう。見ただけで軍服とわかる装いの賓客が多いのは、この辺境伯領が今でも最前線であることと無関係ではなかろう。そうしてホールの隅に、ようやく見知って姿を見つけた。まるでヴァンパイアであることを誇示するかのように、赤みがかった紫の軍装。昨夜知己を得た、ヨハン・ドラクーリエ伯爵と従者のユゼフだった。伯爵はわたしの視線に気づいてか、小さく頷いて会釈を返してくる。
その他の来賓たちの表情を見ても、おおむねわたしに対して好意的なようだった。どうやらわたしの悪い噂はそれほど広まっているわけではなさそうだ。年齢的に若過ぎると危惧する様子もない。まあお貴族さまの結婚ともなれば、それなりに歳の開いた組み合わせもさして珍しいことでもないのだろう。
そして、その拍手は急に波が引くように止んだ。わたしの前に続いている広い階段の下、ホールの中心近くへと進み出てきたひとりの男性が、場を鎮めるように右手を上げたからだった。それが誰か、推論するまでもなくわかった。百八十センチ半ばはありそうな長身。真っ白な軍装にいくつも下げられた勲章。肩に記された竜を模した紋章。あれがこの式典の主役である新辺境伯、ルイ・トゥドールその人なのだろう。
そして、この身体の持ち主であるヴァイオレットの婚約者。将来の伴侶。しかしそのわずかに覗いた横顔に、わたしは奇妙な既視感を覚えた。
わずかに赤みがかった黒髪。顔立ちもきわめて東洋的な造作だ。それ自体は驚くことではない。ローエもそうだったし、このトゥドールの人たちはみなそうなのだろう。けれどその面差しには、確かに見覚えがあった。
不意に、いつかの息苦しさが蘇ってくる。酸素の薄い大会議室を埋めつくす大勢の刑事たち。誰もが功名心を胸に滾らせて、目はぎらぎらと鈍く光らせている。その暗い視線一身に浴びて、ひとりの男性が進み出てくる。その人は、確かにこんな顔をしていた。
「藤堂……管理官?」
単なる他人の空似かもしれないが、それにしても似ている。似過ぎている。細かい顔の造作までが記憶にあるままだ。記憶違いではない。これでもわたしは警察官だ。一度すれ違っただけの相手の顔でも決して忘れないよう訓練を受けている。
でもどうして、あの七光りエリートがここに。一瞬だけ、彼もまた殺されてこの世界にきたのかとも考えた。しかしそれも違うだろう。わたしはこうして歳も顔もまるで違う存在に生まれ変わったのに、彼だけ元の世界のままなんてことは考えにくい。なら、いったい。
しかしわたしのそんな混乱など素知らぬ顔で、元の世界の管理官にそっくりな新辺境伯はホールの中央に進み出て、もう一度賓客たちのざわめきを手で制した。音楽隊も曲の途中で手を止め、広いホールは静寂に包まれる。
「本日はお集まりいただき、まことに有難うございます。まだまだ若輩者ではありますが、このルイ・トゥドール、この最前線を守備する辺境伯の任と竜騎士団長としての務め、遺漏なく果たしてゆく所存であります」
声は低く、それでいてよく通り響く。そんなところも、あの新米管理官と一緒である。ほんと、声だけはいいんだよなあと声に出してつぶやきかけた。いやもちろん、顔だって造作そのものは整ってると言えるのだが。
「その上で、ここで皆さまに申し上げておくことがあります。ただいま入場してきたのは我が領の朋友と言うべきグレインディール公爵家の令嬢であるヴァイオレット嬢。亡き先代辺境伯とグレインディール公爵の約定に基づく私の婚約者であります」
彼はそう続けて、一旦言葉を切った。そうしてちらりとわたしを見上げる。しかしその目には、婚約者に対する親愛の情めいた色は浮かんでいなかった。しかし冷たいというわけではない。どことなく強い痛みを堪えるような、あるいはこちらを憐れむような。そんな不可解な感情が滲む目だった。
いったいどうしてそんな目を。その疑問の答えは、続く言葉ですぐに明らかになる。
「ですがまことに心苦しくはありますが、この場にてその婚約は破棄させていただく」
その言葉に、一旦静かになっていたホールがまたどよめいた。それは先ほどまでの賑やかなざわめきではなく、驚きと疑念の入り混じった喧騒。
「ルイさま……いえ閣下、いったい何を……」
わたしの後ろに控えていたローエも、たまらず声を上げた。そういや彼は昨日この新辺境伯が何を言おうと真に受けるなと言っていた。しかしこの宣言は、そんな彼ですら予想外だったようだ。
「誓って言うが、決してこの婚儀に不満があるわけではない。まったくこちらの一方的な事情であります。グレインディール公爵家には、相応の慰謝料も支払わせていただく。けっしてそれで済むものとは思わないが、これはもう決めたことだ。どうかご理解いただきたい」
正直言ってわたしとしては、いったい何がどうなっているのかわからずに呆気にとられるしかなかった。今まで一度も会ったこともない、それどころかつい先日までいることすら知らなかった婚約者に、初めて会ったかと思えばいきなり婚約破棄された。いったい何が何やら。
ああ、でもこの身体の本来の持ち主であるヴァイオレット嬢にとっては重大事なのだろう。貴族の令嬢にとって結婚は人生最大のイベントだ。いやまあ貴族に限らず多くの人にとってもそうかもしれないが、貴族の務めが家の存続と他家との縁を広げることであるならば、結婚こそがその務めを果たす最大の機会である。それも人生においてただ一度の。(いやまあ中には二度三度とする人もいるかもしれないが、そういう人は例外としておく)
では今後、ヴァイオレット嬢はどうなってしまうのか。新たな嫁ぎ先を探すにせよ、一度決まってした婚約を破棄されてしまったという経歴は汚点として残るだろう。ではどうすればいい。ここは堂々と異議を申して立てるべきか。公爵家の地位を盾に撤回を求めるか、あるいは泣いてすがって同情を引くべき?
何しろ前の人生でも、婚約をしたこともそれを破棄されたことも一度だってないのだ。こういうときにどういう行動をとればいいのかわからない。しかしヴァイオレット嬢のためにも、何も言わないで唯々諾々とそれを受け入れるわけにはいかない。
そう意を決して、わたしは一歩前に踏み出した。しかしその足の下の床が大きく沈み込むようにぐらりと揺れるのを感じた。
「ヴァイオレットさま!」
慌てたようにそう叫んで、ローエが駆け寄ってくるのがわかった。けれどそれに何か答えることもできず、視界は突然暗転する。足場を失った身体はそのまま、暗闇の中へ落ちてゆく。ああ、この感じは前と同じだ。そう頭の隅で思ったのを最後に、ぷつりと意識は途切れた。




