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賊たちを引き渡して簡単な状況説明をしてやると、衛兵たちはあとは後日と引き上げて行った。もっと色々事情聴取とかあるのかと身構えていたが、やはり貴族相手にそうそう面倒はかけられないということか。
それよりも、賓客をもてなすはずの宿でこのような騒動が起きてしまったことが大問題だったらしい。衛兵たちと入れ替わりにトゥドール竜騎士団の副長以下数名が現れて、伯爵に対して平謝りしていた。
彼らにしてみれば大失態であり、ことによってはトゥドールとドラクーリエ両家のいわば外交問題に発展しかねない事件であった。しかし初老の伯爵は鷹揚に、騒ぎ立てるつもりもないから気にしないでくれていいと答えるだけだった。おそらくは本当にこれはいつものことで、その都度彼はあの剣技でやり過ごしてきたのだろう。
そうして騎士団員たちが去って行くと、ようやくラウンジに静寂が戻ってきた。しかし気が付けば、夜もすっかり更けてしまっていた。
「それでは、わたくしたちもこれにてお暇しましょう。どうか閣下にユゼフさま、良い夜を」
「いえ、もしお時間が許されるようなら一杯奢らせてはいただけませんかな、マダモアゼル。命の恩人を何もせずに帰らせては、伯爵家の名が廃りますゆえ」
初老の伯爵は辞去しようとしたわたしたちをそう言って引き留めた。それはわたしにとってはこの上ないお誘いだったのだが、アンジュの顔を見るとわずかに引き攣っている。彼らがヴァンパイアであることを知ってからというもの、ずっとそうだ。あんな立ち回りを見せておいて、今さら何を怖がるというのか。
「……あーでも、奢るったってここには誰も……」
彼女はそう言って、ラウンジのカウンターの中へ顎をしゃくった。確かにここにはもうバーテンダーもウェイターもいない。おそらくは、騒ぎの早々に逃げ出してしまってそのままなのだろう。
「おお、そういえばそうでしたな……ではユゼフ」
「はぁ……何でしょう、ヨハンさま?」
「お前も、気の利いたカクテルのひとつでも用意できるだろう。何、我々は客だ。そこにあるものを自由に使わせてもらっても構わないさ」
ユゼフと呼ばれたその若者は、どこかうんざりとした表情で肩をすくめた。年の頃は二十歳そこそこといったところだろうに、こちらもなかなかに生意気な従者だ。それでもこんな無茶振りもいつものことなのか、嫌々ながらもカウンターに入ってゆく。
「わかりました。それではご厚意に甘えて」
わたしがそう言ってスツールに腰をかけると、伯爵は嬉しそうに頷いてひとつ開けて隣に座った。そうしてカウンターの中のユゼフに、「お嬢さまにはノンアルコールで何か作って差し上げろ。気が利いたものをな」とさっきの台詞を繰り返す。若者は「……はいはい」と頷いて壁に並んだ瓶を手に取る。
アンジュはまだ険しい顔のまま、警戒を解かずにわたしの後ろに立っていた。彼女も長くウォレンたちとともに裏社会にいたはずだが、それでもヴァンパイアに会ったのは初めてらしい。
もちろんそれはわたしも同じだったが、わたしの場合は警戒よりも興味のほうが強かった。この世界にはヴァンパイアやエルフ、あるいは半人半獣の人狼などの様々な種族がいることは文献で知っていたが、そうした存在はグレインディールでまず見かけることはなかったからだ。
しかしそのうちのヴァンパイア、それも彼らの長と言われるドラクーリエ伯爵と知己を得られたことは、この世界を知る大きな一歩だった。それはまた、元の世界へ帰る手段を見つけるために必要な一歩でもある。
「それにしても、やはり命の恩人などとおっしゃるのは大袈裟ですわ。閣下は剣を持たせてもたいそうお強いのでは?」
わたしがそう口を開くと、カウンターの中のユゼフのほうが自慢げに鼻を鳴らした。
「もちろんです。今でもヨハンさまに敵うものなど、ドラクーリエ領にはおりません」
「やはり。ではわたしたちがおらずとも、あの者たちを退けるのはわけもなかったはず」
その言葉に、彼はゆっくりと首を振った。
「それでも、ご助勢いただけたことは嬉しかったのですよ。この宿には他にもお泊りの方々がいらっしゃいますが、皆様見て見ぬふりでしたので」
なるほど、その言い振りからすると、ことが起こったときにはこのラウンジにも他の客や従業員がいたのだろう。そしてその誰もが、彼らを置いて我先にと逃げた。まあそれだけなら無理もないと思えもするが、誰も衛兵を呼んだり衆を恃んで助けに戻ったりはしなかった。
それにこの宿には、他にも各地からの来訪者が宿泊している。特に階の近い二階や三階の宿泊者の中には、この騒ぎに気付いたものもいただろう。いずれも各地の貴族で、多くの護衛を連れてもいたはずだ。けれど誰ひとり、様子を確かめに来る者さえいなかった。
それはつまり、彼らが自身で言っていたように「嫌われ者」であるからに他ならなかった。この王国の中に制度としての差別は存在しないが、残念ながら暗黙のうちのそうした忌避があることは認めざるをえないようだ。
しかし実際のところ、彼らヴァンパイアが人に害をなしたという記録はないらしい。伝承としては確かにそうした時代もあったようだが、歴史の中で彼らは人の血への渇望を断ち切ることに成功し、少なくともこの二、三百年は人間たちと共存して社会を形成してきたという。それどころか人より強靭な身体を持つヴァンパイアたちは戦争においても進んで前線に立ち、大きな功績を挙げたとも聞く。人間からすれば感謝こそすれ忌避するような存在ではないはずだった。
それでも、人間は差別をせずにはいられない生き物なのか。戦争が終わって長い月日が経ち、その記憶も遠いものともなれば、自分たちと異なる者など厄介者でしかなくなるのか。
「ですから護衛の者をもっと増やしてくださいと申したはずです。それなのにヨハンさまは……」
「それは何度も説明したはずだよ、ユゼフ」
確かに、伯爵ともあろう人が宿の中とはいえ、お付きをひとりしか伴っていないというのは寂しすぎる。
「護衛を断られたのですか?」
そう尋ねても彼は苦笑を返すだけだった。代わりに、カウンターの中の若者が憤慨したように答える。
「そうです。道中の護衛だって、最初の街で雇った流しの冒険者たちですよ。他の者は、みなヨハンさまが断ってしまわれました。まあ私は断られてむ無理やりついてきましたけどね!」
口調はぶっきらぼうでも、この若者が伯爵のことを慕っているのは伝わってきた。それがわかると、いちいちプンスカしてるのも何だか可愛く見えてくる。
「しかし考えてもみてください。私たちのような者が、大挙して他領を訪れたらどうなるか。いらぬ騒ぎを起こすだけです」
「それは……確かに」
彼らにそのつもりはなくとも、周囲はどう反応するか。ともに最前線で戦ったトゥドールにはそのような差別意識は薄いかもしれないが、襲爵式には王国の各地から人が集まってくる。貴族だけではなくその護衛や付き人も、さらには商人や野次馬も。中には彼らヴァンパイアや獣人たちによからぬ感情を抱く者もいるだろう。
「……どうぞ」
そのとき、ユゼフがそう言ってわたしの前にグラスを置いた。逆三角錐形のその華奢なグラスには、わずかに琥珀色がかった液体が注がれている。わたしはひと言「ありがとうございます」と答えてそれを手に取る。
「それでは、良き出会いに」
伯爵のその言葉で乾杯を交わし、静かに口に運んだ。アルコールは入っていない。もちろん血の味もしない。柑橘系の爽やかな酸味と甘味がすっと舌から鼻へと通り抜け、かすかな後味だけが残った。
「……美味しい」
素直に言うと、ユゼフは相変わらずぶっきらぼうに「どうも」とだけ答えた。それでもどうやら、飲み物を疑いもせずに口へ運んだことへ好感は与えられたようだ。
せっかく得られた知己だ、できるだけ良い印象を持っておいてもらわないと。でももちろん、美味しかったのは本当だ。しいて言えばここにアルコールも欲しかったところだが、この身体ではそこまで言うまい。
そしてふた口目を含んだところで、再び正面玄関の扉が開いた。門番よろしく立っていたオリバーとジグムンドが、弾かれたように身構える。
現れたのは、白銀の鎧に身を固めた騎士だった。見たところまだ若く小柄だが、重装の鎧を身に着けてもきびきびと歩くそのさまは、なかなかの貫禄さえあった。鎧に刻まれた紋章は竜。つまりはトゥドール竜騎士団のものだった。
「ドラクーリエ伯爵閣下はこちらに?」
騎士は正面玄関から数歩入ったところで足を止め、フロアを見渡して言った。伯爵は音もなくスツールを降り、胸に手を当てて礼を送る。
「これは騎士さま。私に何かご用向きですかな」
それを受けて、騎士は彼の前へと歩を進めてきた。そしてそばに控えた配下たちとともに膝をつき、深く頭を垂れる。
「私はトゥドール竜騎士団副長補佐、フィリップ・ローエと申します。此度の襲爵式典において、市中警備隊の指揮も預かっております」
「それはそれは、お勤めご苦労さまでございます」
伯爵は穏やかな声でそう言った。その声には、皮肉めかした響きはまったくない。
「この度は我が領の者たちが大変な非礼を働き、まことに申し訳ございません。かの者たちは厳しく処分いたしますゆえ、どうかお怒りを収めていただきたく存じます」
「はて、非礼……いったい何のことでしょうか」
「ご宿泊の皆様がたを守るべきである衛兵が、閣下を置き去りに現場から逃亡した件にございます」
「ほう……そうでしたか」と、彼はなおもとぼける。「それで、あのかたがたにお怪我は?」
ローエと名乗った騎士は顔を上げ、伯爵の返答に戸惑ったように眉根を寄せた。
「いえ……当然、かすり傷ひとつなく」
「それは重畳。私も身を挺して皆さまがお逃げになる時間を稼いだ甲斐がありました。あのかたがたには技倆的に荷が重かろうと思いましたもので」
つまり伯爵は、彼を見捨てて逃亡した宿の警備兵たちを、自分の判断で逃したことにしたわけだ。これでトゥドール側にも瑕疵はなかったことになる。甘いと言えば甘いが、これも彼らヴァンパイアが波風を立てずに生きていくための処世術なのだろう。
「しっ、しかし、あの者たちは……」
「そんなことよりも」
ローエはまだ何かを言いかけたが、伯爵はわずかに語気を強めてそれを遮った。
「屯所へと連行された刺客たちは、尋問できるような状態でしょうか」
「……は、はっ!」
膝をついていた騎士たちは立ち上がり、姿勢を正した。
「狼藉者六名のうち数名はまだ意識が朦朧としているようですが、命に別状はありません。治癒師たちの処置を待って、明日からでも尋問をはじめたいと思っています」
「では差し出がましいとは存じますが、その尋問に立ち会わせてはいただけないでしょうか。彼らと話す機会をいただきたいのです」
その申し出もまたどうやら意外だったようで、ローエたちは一瞬返答に詰まった。
「ですが……あの者たちは閣下のお命を狙った不届き者ですよ?」
「はい。しかし彼らはみな、わが同胞なのではありませんか?」
その言葉に、その場にいた一同が息を呑んで黙り込んだ。つまりあの襲撃者たちは、伯爵と同じヴァンパイアだったということだ。
「……気付いておられましたか」
「それは当然。彼らの剣技も、私には見慣れたものでしたゆえ」
「ということは、彼らもドラクーリエ領の住人ということですか?」
わたしが横から口を挟むと、伯爵は目を伏せて残念そうに首を振った。
「まったく不徳の致すところではありますが、どれほど心を砕いたところですべての領民を満足させることはできません。わが領にも職にあぶれ、生活に行き詰まり、故地を捨ててならず者に身を落とすものはおります。おそらくは彼らもそうした者たちでしょう」
公爵邸にあった文献によれば、ドラクーリエ伯爵家は代々名君と称され、その治世は非常に安定したものだとされていた。しかしそのような土地でも、どうしようもなくあぶれてしまう者もいる。つまり先ほどの襲撃は、そうした者たちによる反乱とでも言うべきものだったのか。
「私には、彼らの鬱屈を受け止める義務があるのでしょう。さらには彼らの真意と、その背後にいる存在を明らかにもしなければなりません」
「背後に……」そう言いかけて、ローエは忌々しげに目を眇めた。「そんなもの、尋問するまでもなく明らかでしょう」
「はい、それはわかっています。魔術には魔術を、ヴァンパイアにはヴァンパイアを。それが彼らのやり口ですから。されど確認をせぬわけにもまいりますまい。そしてその上で、かの者らには寛大な処遇をお願いしたく」
伯爵はそこまで言って、また静かに頭を下げた。ローエはまた戸惑いながらも、しばし黙り込む。そうして思案ののちに、低い声で答えた。
「かしこまりました。尋問は怪我の軽い者から順に、明日の朝より行います。その前に、またこちらにお迎えを寄越します」
「格別のはからい、感謝いたします」
騎士たちはとんでもないと首を振り、深々と礼を返した。そうして初めて、伯爵のうしろに控えていたわたしたちに目を向ける。
「その際は、こちらの従者の皆さまもご一緒に?」
「いえ、従者だなどととんでもない。このおふたかたは、居合わせてわれわれに助力をしてくださっただけですよ」
「と、言われますと……ご宿泊の」
そこでローエは、はっと息を呑んだ。
「はい。グレインディール公爵家のご息女、ヴァイオレットさまと従者のアンジュさまです」
伯爵がそうわたしたちを紹介すると、こちらが口を開く間もなく、騎士たちはまた一斉に膝をついて深く頭を下げた。
「大変ご無礼をいたしましたっ!」
「いやそんな無礼というほどでも……どうかお顔を上げてください」
その反応に、わたしとしてはむしろ恐縮してしまう。
「いえ、貴方さまは間もなくわれらが妃となられるお方。その方がお泊りの宿でこのような騒動を許してしまったわれらの不手際。どれほど詫びても許されますまい」
そういえばそうだった、と今頃思い出す。それならこういう場合貴族さまとしては尊大に振る舞ったほうがいいのかしらんとも思ったが、そんな振る舞いは慣れてない。慣れてないことをうまくやれる自信もない。
「ですから、もういいですって!」




