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あまり大事にはしたくなかったのだけど、わたしとアンジュだけで部屋から出るわけにもいかなかったようで、護衛として騎士団員をふたり伴い、四人で行動することになった。そうしてエレベーターなんて便利なものはこの世界にはないので、順に階段を降りてゆく。
わたしたちに割り当てられたのは最上階の五階なので、おそらくは他に三組か四組の賓客が宿泊していると思われた。だとしたらラウンジもずいぶんと賑わっていることだろうと予想していた。
「あなたたちはお酒も飲んでいいわよ。そのくらいの役得はないとね」
ふたりの若い騎士団員、名前は確かオリバーとジグムンドと言ったか、は揃って大きく首を振る。
「いえ、そういうわけにはまいりません。これは公務ですので」
彼らが所属する街道警備隊はお堅い集団なのだろうか。オハラたち調査隊の面々なら、断るにしろ何かしらノリツッコミのひとつもかましてくるところだが。
そうしてようやく二階まで降りてきたところで、不意にアンジュがわたしを手で制した。何かと訝ったが、その理由はすぐにわかった。賑わっているかと思った一階がやけに静かだ。それだけじゃなく、奇妙な緊張感が漂ってくる。
「……何かしらね」
「さあね。とにかく何かある。お嬢さまは下がってな」
やがて、カンという乾いた打撃音が聞こえてきた。金属を何か堅いもので弾いたような音。
「そうはいかないわ。一緒に降りるわよ」
階下で何か剣呑な事態が発生しているのは確かだ。なら、警察官であるわたしが無様に逃げるわけにはいかないかった。アンジュもしょうがねえなと言うように小さく舌打ちをして、足音を殺しながら階段を降りてゆく。ふたりの護衛はまだ状況が飲み込めていないようだが、顔を見合わせながらあとに続いてきた。
一階まで降りると、わたしとアンジュはそれぞれ階段左右の柱の陰に身を隠し、フロアの様子を伺った。フロントのカウンター内は無人で、あたりにも宿の従業員らしき姿は見当たらない。
そして奥のラウンジに目をやると、そこにはじめて数人の人影が見えた。中央には、右手にステッキをついた初老の男性。百八十はありそうな長身でぴんと背を伸ばし、杖なんて必要なさそうだ。その傍らには、低く身構えた若い男。ふたりとも、わずかな明かりでもわかる鮮やかな銀髪だった。
さらにはそのふたりを取り囲む男たちが数人。身なりは揃って黒か限りなく黒に近い濃紺一色。顔は見えないが、みな手に何か刃物のようなものを構えている。
「……アンジュ」
「 何だよ、お嬢さまぁ?」
彼女はすでに、両手に短刀を構えていた。どうも殺る気まんまんのようだ。
「殺しちゃダメよ。できる限り刃物は使わずに無力化して」
「……どうしてさ?」
「ここはグレインディールじゃないのよ。よそ様の貴族の宿を血で汚せばあとあと面倒だわ」
「そんなことを言ってる場合かよ?」
「まあ、できないなら無理にとは言わないけど」
わたしは薄く笑って、小声で「顕現魔術:バールのようなもの」と唱える。魔術行使時の発光は、身体で隠して最低限にとどめた。あれから色々試した結果、もっとも魔力の消費が少なく無詠唱でも確実に顕現できるのは今のところこれだった。微妙に不本意だが。
「……くそ。しかたねえなっ」
アンジュはそう吐き捨てるように言って、刃物をスカートの中に戻した。まあまだ相手が何者かはわからないが、彼女なら素手でも大丈夫だろう。心配なのは、むしろ後ろのふたり。どうも足運びや所作からして、そんなに腕利きとも見えない。
「あなたたちは隙を見て外へ出て、衛兵を呼んできてちょうだい。急いでね」
「しかしっ……われわれはお嬢さまのお傍を離れるわけには!」
「そのわたしの命令よ。どうも様子がおかしいわ。本当なら、この宿にももっと衛兵が詰めているはずなのに。それも確かめ欲しいの、いいわね?」
彼らはまだ困惑したように口ごもっていたが、これ以上もたもたしてもいられないようだった。取り囲んでいた黒装束たちが、一斉に刃物をきらめかせてふたりに飛びかかったのだ。そのうちのひとりを若い男が身を挺して防いだものの、残る四、五人は初老の男性に迫っていた。けれど男はまるでダンスでも踊るかのようにそれを躱し、ステッキを振り上げて刺客のひとりの得物を弾き飛ばす。
あの初老の男性、なかなかの達人と見た。足運びも優雅でありつつ無駄な動きがない。しかし多勢に無勢、このままでは数で押し切られるかもしれない。
「行くよ、アンジュ!」
そう声をかけると、彼女は音もなく柱の陰から飛び出した。そうしてまるで空を歩くかのように舞いながら、振り上げた足を襲撃者のひとりの首に後ろから絡ませ、そのまま後ろに引き倒す。もんどり打って倒れた黒装束は床に激しく後頭部を打ち付けて昏倒した。アンジュはさらに容赦なく、すでに意識のなさそうな男の喉笛に手刀を叩き込む。
「なっ……」
男たちのひとりが驚いたように何かを言いかけた。しかしわたしも少し出遅れはしたものの、口を開いた男の背後に回り込み、足を払って前のめりに押し倒す。そして顕現させたバールを警棒代わりに、後ろ手に捻じ上げた腕に通して固める。
「がっ……はぅ、あああ……」
「はい痛いでしょ。動くと余計に痛いからおとなしくしてね?」
そうこうしている間にも、アンジュは素早く動いてもうひとりの黒装束の懐に潜り込み、肘でその下顎をかちあげていた。両足が一瞬浮き上がるほどの強烈な一撃で、男はそのまま白目を剥いて崩れ落ちる。
「なっ……何なんだお前ら、そいつが何者か、わかって……」
わたしが組み敷いていた男がまだ何か言おうとしていた。しかしふたりを片付けたアンジュが、こちらに気付いて大股に歩み寄ってくる。
「そっ、そいつはなぁ……」
そうして男が先を続けようと顔を浮かせたところで、彼女はその後頭部を思い切り踏む抜いた。勢い良く顔を床に叩き付けた男の歯が、一、二本弾け飛ぶほどの衝撃だった。
「甘ぇよ、お嬢さま」彼女はわたしを見下ろして言った。「無力化しろって言ったんだろうが。それならきっちり意識飛ばさねえと」
確かにわたしが組み敷いていた男は、すでにぴくりとも動かなかった。ただ血の混じった泡を口角から垂らしているところを見るに、息はしているようだ。
「何だよ。殺しちゃいねえぞ?」
「ええ、そうね。見事な手際だったわ、アンジュ」
答えて、わたしは立ち上がった。そうして再びバールを構え直したが、もうその必要はないようだった。初老の男性の足元にはすでに黒装束の男がふたり突っ伏しており、最後のひとりも銀髪の若者が絞め落としたところだった。
「これで全員?」
「そうだね。他に隠れてるような気配もないみたいだ」
よかった。わたしは頷いて、魔術を解除した。手の中の黒い鉄の棒は、すぐに霧になって消える。
「お怪我はありませんでしたか?」
初老の男性にそう尋ねると、彼は長い右手を広げ、左手を胸に当て、芝居がかった仕草で礼を送ってきた。
「おかげさまでまったく。ご助力感謝いたしますぞ、美しきマドモアゼルがた」
「それは何より。ですが助太刀など不要だったようですね」
彼の足元に倒れているふたりを見やると、目立った傷すらないようだった。さして痛めつけるでもなく、的確に急所を突いて一撃で意識を刈り取っている。相当な腕前と言うしかなかった。
それに彼が手にしているステッキは、おそらくは仕込み杖だ。つまりそれを抜くこともなく、余裕を持って対処したということだ。たぶんわたしたちの助力など本当に不要だったのだろう。
「そのようなことはありません。命を救っていただいた御恩、生涯忘れはしますまい。お名前をうかがってもよろしいですかな、マダモアゼル?」
「もちろん。グレインディール公爵家の三女、ヴァイオレットにございます。そしてこちらは従者のアンジュです」
式典のために練習した作法通り、スカートを広げて恭しく頭を下げる。この宿にいるということは、彼らもまた貴族であることは間違いなかろう。
「おお、これはかの魔道大公家のご令嬢であらせられたか。すると先ほどお使いになられたのもやはり魔術で?」
得物にしていたバールのようなものを素早く解除したのを、目ざとく見られていたらしい。まあ魔術が使えると言ってもまだせいぜいこの程度なのはお恥ずかしいところだ。
「名乗り遅れました。私めは西方ドゥーニエ山脈の麓よりまいりましたドラクーリエ伯爵家当代、ヨハンと申します。そして隣に控えるは我が護衛、ユゼフ。どうぞ以後お見知りおきくださいませ、グレインディールの可憐な雛菊」
ドラクーリエ。傍らでアンジュが小さくつぶやいて息を飲むのがわかった。その理由はわかっている。
「それで、この者たちはいったい……閣下は何か心当たりでも?」
「さて、彼らの素性については何とも。ただこの身を狙われる心当たりはいくらでもありますが」
ドラクーリエ伯はそう言って、歯を見せて笑った。その犬歯がやけに長く鋭く尖っているのをわざと見せるように。
「私どもは、まあ、嫌われ者ですゆえ」
「……ヴァンパイア」
と、背後でアンジュがまたつぶやいた。そう、ドラクーリエ伯爵家は吸血鬼の一族として知られていた。
そのとき宿の扉が開いて、「お嬢さま!」とオリバーの声が聞こえた。続いて、鉄鎧で身を固めた衛兵たちがなだれ込んでくる。




