25
騎士団の屯所は夜でも当然篝火が煌煌と焚かれていた。おそらくは団員総出で昼夜を問わぬ厳戒態勢を続けているのだろう。調査隊も街中の巡回に出ているかもしれなかったが、用があるのはオハラひとりだった。彼なら、屯所に残って指示役に徹しているはずだった。
正門で来訪を告げても、もう以前のような騒ぎにはならなかった。向こうも慣れてきたということか、あるいは今はそれどころじゃないということか。まあ別に敬われたいわけじゃないからこちらとしてはそれで構わない。もちろんだからと言って歓迎されていないわけでもなく、快く調査隊の詰所へと通してもらえた。
こちらはマリーとふたりだった。彼女には屋敷を出ることを反対されるかとも思ったが、存外簡単に同意してくれた。これも兄から命じられた務めの延長とでも理解したのだろうか。彼女の真意はまだ読めないが、反対されないならそれでよかった。
「ヴァイオレットお嬢さま。どうしてこちらに……?」
調査隊のに割り当てられている区画に入ると、まだ残っていたビトーが目ざとくわたしに気付き、驚いた声を上げた。
「オハラ隊長は、まだ中に?」
そう尋ねると、彼はすぐに道を開けた。そして隊長の執務室までわたしたちを案内する。
「忙しいところにごめんなさい」
「いえ、それは構いませんが」
いつもと変わらぬ飄々とした声音でオハラは答えた。けれど確かに、ぴりぴりとした緊張感をその身にまとわせているのは感じられた。
「それよりお嬢さまこそ、このような時刻に何用で?」
室内には伝令役と思われる若い隊員が入れ替わり出入りしているようだが、そのせわしない様子を横目に見てわたしは言った。
「ちょっと隊長さんにお願いがあって。悪いけど、人払いをお願いできるかしら」
オハラはわたしの言葉に一瞬怪訝な表情を見せたが、すぐに傍らの隊員たちに目で合図を送った。マリーもまた心得たもので、小さく頭を下げてともに部屋をあとにする。
そうして室内にわたしたちだけとなると、オハラは声を落として尋ねてきた。
「それで、お願いとは何ですかな?」
「ええ。わたしは今夜これからマーカス・ウォレンに会いに行くことになったので、その護衛を頼みたくて」
彼はそう聞いても、特段驚きもしなかった。また何かの冗談とでも思われているのか。
「さようですか。しかしあの男の所在は、我々もまだ掴みかねておりますが」
「それについては問題ないわ。今回は向こうからのご招待だから、拠点まで案内役も用意してくれることになってる」
アンジュはわたしに仔細を伝えたのち、一度マーカスの元に向かっていた。こちらの準備が整った頃合で、再び姿を現わすだろう。
そう言ってみても、オハラはまだ半信半疑といった様子だった。おそらく手札を隠したままでは、彼の信用を得るのは難しいのだろう。
「あなたには、包み隠さずにすべてお話しするわね。現在このグレインディールで、不穏な企みが進行していることを公爵家は掴んでる。相手はおそらくフィールズ一家。彼らはわたしたちが先日推測したのと同じ方法で、すでに三十人近いヤミ魔術師をこの街に送り込んできてるらしいわ」
騎士団特別行李を利用して、城門の検閲を回避する。そうやって彼らは多くの人間を『密輸』してきた。それはすなわち、騎士団の一部とルヴァン商会も彼らと結託しているということになる。
「そこで公爵家は今回の事態に際して、秘密裏にウォレン兄弟との協力関係を結ぶことにしたの。この招待は、そのために彼らが用意した連絡手段を通じてのものよ」
オハラの眉がきゅっと険しく寄った。それを見て、わたしも胸が痛くなる。もちろん知己を得てまだ日も浅く、縁や義理と呼べるようなものがある間柄とは言えないが、それでもやっぱりこの人に失望されたくはなかった。けれどそれを恐れて言葉を飾れば、いっそう信義を失ってしまう。
「あなた方騎士団調査隊としては、不愉快な話だと思うけど」
「はい。確かに面白くはありませんな」
内に湛えた怒りを押し殺すような、低くひび割れた声でオハラは言った。
「それはわかってる。けれど独自の武力を持たない公爵家としては……」
「公爵家がウォレンのような反社会的勢力を利用して、懸案を密かに処理していることは知っていました」
彼はわたしの弁明を遮り、重い声で続けた。
「まあ一定以上の役職にある者なら、みな何らかの形で知らされていることです。いわば公然の秘密とでも呼ぶべきものでしょう」
ではいったい何をそんなに怒っているんだ。そう尋ねようとしたが、声は出なかった。抑えていても漏れ出てくる彼の怒りに当てられてか、気付けば喉がからからに渇いている。
「どんな社会にも、どんな組織にも、暗部というものは存在します。それは公爵家も、またこのグレインディールも同じです。もはや逃れ難い必然とも言えるのでしょう。しかしお嬢さま、それをあなたが知る必要はなかった」
「えっ……それって、つまり……」
「それはすなわち現在の領主代理であるあなたの兄君が、まだ若いあなたをこの街の暗部へ引きずり込んだということです。私はそれが、例えようもなく不愉快です」
要するにこの人は、わたしが知る必要のないことを知ったこと、兄によって知らされたことに憤っているのだ。それによって、わたしが汚されたとでも。わたしをいったいどんな清らかなご令嬢だと思っているのか。
ただオハラのその反応で、あの夜兄とウォレンが言及を避けた過去二度の『懸案の処理』が、どのようなものだったのかの想像はついた。それはまさに暗部と呼ぶにふさわしい、陰惨で血腥い行為だったのだろう。
「そのことをわたしに伝えられたのは、兄がそれはわたしが知るべきことだと判断したからよ」
それでもわたしは、目の前の男をまっすぐ見返して言った。気圧されてなどいられない。
「兄のその判断が正しかったのかどうか、正直わたしにはわからない。でもわたしは兄に感謝してるの。わたしを公爵家の一員として扱い、役目を与えてくれたことに。オハラ隊長、あなたもそうしてくれないかしら」
わたしはそこまで言って、彼との距離を一歩詰めた。そうしてはじめて、オハラは戸惑うように目を一、二度瞬かせる。
「そうしろ、とは」
「だから、子供扱いしないで」
彼は何かを言いかけるように口を開いたが、結局何も言わずに黙り込んだ。そうしてそのまましばし沈黙し、やがて諦めたように目を閉じる。
「これは失礼しました、レディ・ヴァイオレット。では私もあなたに対し、正しくグレインディール公爵家のひとりとして接することといたしましょう」
恭しく、どこかわざとらしく、オハラは胸に手をやって頭を垂れた。その仕草に、ふと彼との距離が開いてしまったかのような寂しさを覚える。言うところの暗部とやらをわたしが受け入れたことが、やはり彼を失望させてしまったのだろうか。
「しかしそれならばなおのこと、あなたのことをお止めせねばなりますまい。公爵家の一員とおっしゃられるならば、どうかその自覚をお持ちください。マーカス・ウォレンは危険な男です。たとえ今は協力関係にあるとしても、決して気を許してはなりません」
「それはわかっているわ。あの男は悪党。気を許すなんてとんでもない」
「わかっていても、それでも行かれると?」
ええ、とわたしは頷いた。オハラはいったいなぜと目だけで尋ねてくる。
「ウォレンは、わたしたちにドニ・ルヴァン氏の身柄を引き渡したいと言っているわ」
わたしのその言葉に、彼はわずかに目を瞠って驚きの表情を見せた。
「お嬢さまは、その意味がわかっておいでですか。それは荷馬車を襲撃し八人を殺害したのが、ウォレン兄弟である可能性を示しているのですよ」
「それはどうかしら。もしも彼らが犯人なら、もっと自分たちの犯行を誇示しているはず。それもせずに、疑われるのも覚悟でドニ氏の身柄を抑えていることをわたしたちに伝えてくる。彼らの行動に理屈が通らない」
「悪党というのはそういうものです。彼らのすることに理屈など求めるだけ無駄でしょう」
「そんなことはないわ。悪党も結局、悪党の理屈で動くもの。ないように見えるのは、ただそれをわたしたちが理解できていないだけよ」
これでは、いつまで経っても平行線のままだった。せめて今だけでもいい、どうすればこの人を納得させることができる。
「もちろんそれはあの連中の勝手な理屈で、わたしたちとは相容れないものかもしれない。それでも確かに、彼らには彼らの理屈がある」
「なるほど。確かにそうかもしれません。しかしそれが我々の理屈と相容れないものである以上、危険であることは変わりませんよ」
「だからそれもわかってるって。でも、ここは行かないという選択肢はないの。それにあなたがいれば、少々の危険は問題ないはずよ」
かつて『ニミッツ連隊』を、ほぼひとりで壊滅させた英雄。それが護衛として傍にいてくれるなら。
「死にたがる人を守り切れる自信はありませんよ」
オハラは小さくため息をついて、首を振った。
「もちろんわたしだって、別に自殺したいわけじゃないわ。危険を冒しても行くべきだと思うから行くのよ」
「こんな誘いに乗ることに、いったいどんな価値があると?」
「ドニ・ルヴァン」わたしはもう一度、その名を口にした。「彼の話を聞くことは、それだけの価値があるわ。おそらくこの一連の事件の謎は、すべて彼が答えてくれる」
今ではもう、それは確信だった。だからこそ、彼の身柄を抑えられるかもしれないこのチャンスを逃す手はない。
「そういえばお嬢さまは、最初からあの男にこだわっていましたね。いったいあなたには何が見えているのか、それを教えてくださいませんか」
オハラのガードが少しだけ下がるのがわかった。少なくとも、わたしの話を聞く姿勢にはなってくれている。ならばここは、わたしの考えをすべて明かすしかなかった。薄々頭の隅にありながら、確信には至らず口にできなかったことも、すべて。
「あの事件の現場、隊長さんもよく覚えているはずよね」
「ええ。一緒に踏み込みましたからね。あのときお嬢さまは、我々が止めるのも聞かずにずいぶん色々と観察されていましたね」
「そうね。それで隊長さんは、あの現場がおかしいとは思わなかった?」
「おかしい、とはどのように。殺人現場など、おかしいと言いだしたらおかしいものだらけですがね」
「その中でもとびきりおかしなことよ。あの現場は、どうしてあんなに派手だったのかしら」
壁一面に飛び散った血。おそらくはのたうち回った末に倒れた被害者。首の付け根に深く穿たれた致命傷。
「背後から近付いて背中を刺すなり、胸を突くなり、確実に殺す方法はいくらでもある。なのによりにもよって犯人は、最も出血の激しい首を刺すなんて方法で殺害した。それでも被害者が絶命するまで刃物を抜かなければ、出血はさほどでもなかったはず。けれど、すぐに凶器を抜いた。まるでわざと激しく出血させて、あの派手な殺人現場を作り出したみたいじゃない」
そうなのだ。あの派手な現場、第一発見者である少年サパタが恐怖で絶叫するほどの凄惨な現場は、意図してそう作られたのだ。ではいったい、何のために?
「つまり、あの事件は見せしめであったとおっしゃりたいので?」
「そう。なのにあの倉庫は密室だった。あの子……エンリコ・サパタが逃亡のためあそこに侵入することがなければ、あなたたちに通報されることもなかったかもしれない。だったらいったい、誰に対する見せしめだったの?」
オハラはしばし思案するように、顎に指を当てて黙り込んだ。けれどとっくに答えは出ているはずだ。おそらくはその先、わたしが言わんとしていることを先んじて推測しようとしているのだろう。
「……ルヴァン商会か」
「そう。たとえ事件が隠蔽されたとしても、ルヴァン商会だけはあの現場を目にすることになる。特にあの倉庫の管理を任されている、副会頭のドニ・ルヴァンはね。つまりあの事件は、ルヴァン商会に対する見せしめ、または警告だったとしか考えられない」
「なるほど。お嬢さまの言いたいことがわかってきましたよ」
険しかった彼の口元に、わずかに笑みが覗いた。
「フィールズ一家、騎士団上層部、ルヴァン商会。こいつらは決して一枚岩ではない、と」
「ええ。見せしめが必要ということは、ルヴァン商会は揺れているということでもある。おそらくは騎士団との関係上やむなく巻き込まれたけど、ことの大きさに及び腰になってる」
「だから、ドニ・ルヴァンというわけですか……」
あるいは今回の荷馬車襲撃も、ドニが標的だったのかもしれない。しかし彼はどうにか逃げ延びて、ウォレンの元へと駆け込んだ。そんな目に遭ってもなお、秘密を守り続ける義理もあるまい。今の彼からなら、重要な証言が得られる可能性が高い。
オハラは諦めたかのような深いため息をついて、天井を仰いだ。
「そう言えば、何かひとつだけお願いを聞いて差し上げなければいけませんでしたね」
「そうね。正直、そのお願いはもっと美味しいところで使いたかったけど」
彼がきつく目を閉じ、またしばし黙り込む。それでも彼も警察官だ。事件を解決に導くかもしれない重要な証言を取るためには、ときとして危ない橋を渡る必要もある。それはわかっているはずだった。
「……わかりました、ご一緒しましょう。ただしこの街を出てからは、すべて私の指示に従ってもらいますよ」
そうしてオハラはついに折れた。しかし達成感はなかった。もしかしたらわたしの行動が、この人に危険をもたらすことだってありうる。それを思うと身が引き締まる。
「オーケー、ボス」
わたしは背を伸ばして答えた。




