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その日はそのまま何事もなく夜になった。わたしも相変わらず慣れないダンスだのテーブルマナーだのといったお貴族さまの習い事に忙殺されて、あっという間に時間が過ぎていった。
そうした諸々のことも、前の人生では縁がなかったものなので新鮮ではあったのだが、同時にこんなことをしていていいのかという焦りも胸をよぎった。外では今も、騎士団が八人を惨殺した集団を追っている。彼らがいつ、城壁を破ってこの街へなだれ込んでくるかわからない。いや襲撃犯がもし、ルヴァン商会と結託しているフィールズ一家であれば、その一部はこの街の中にすでに侵入してきているのだ。
それともうひとつ、わたしの本来の目的のことも忘れてはいない。元の世界へ戻るための手がかりを探す。そのためにまず、この世界を知る。しかしそれも、遅々として進んでいないと言わざるを得なかった。そもそも今は、満足に屋敷の外に出ることもかなわない。出られたとしても、せいぜいが城壁に囲まれた街の中を散歩する程度だ。街を出てもっと広い世界を知ろうと思っても、この公爵令嬢という立場ではそれもままならない。こんなことでは、元の世界に戻るなんて夢のまた夢である。
しかし、それならばどうすればいいのかと言われても何も手立てがなかった。なんとももどかしく、焦らずにはいられない。
そんな思いを抱えたまま今日の習い事を終えて部屋に戻ると、アンジュがまだ部屋のしつらえの最中だった。特にベッドのメイクは大の苦手のようで、マリーから詳しく説明を受けてもなかなか思うようにいかないらしい。わたしとしてはかつては署の仮眠室の硬いソファーでも爆睡できたので、ベッドなんてそんなに気にしないでいいと思っているのだが、これもメイドの大事な仕事であるので口出しはしないでおく。
「少し待って……すぐ終わらせる」
「いいよ、急がないで。わたしは構わないから」
「あんたが構わなくても、あのうるさいメイドが……あっ」
またシーツの片方を引っ張りすぎて、反対側がめくれてしまったらしい。大変だな、と思ってもわたしが手伝えるものでもなかった。ベッドメイクなどわたしもやったことがないし、たぶんふたり掛かりでやってももっと大変なことになるだろう。
だから申し訳ないなと思いつつ、彼女の悪戦苦闘をただ見ているしかできなかった。
「でもあなたも頑張るわね。正直に言えば、そんなに真面目にメイドの仕事までしてくれるとは思ってなかったんだけど。あなたの本来の役目でもないわけだし」
「そりゃあ行けって言われたときは『げっ』って思ったさ。でもせっかくだから、ここで色々覚えて兄弟の仲間を驚かせてやりたくてさ。あたしだって、女らしいこともできるんだぜって」
そう語る彼女の声はどこか嬉しそうで、本当に仲間たちを大事に思っているんだということが伝わってくる。ウォレン兄弟という組織は、彼女にとってはそんなに居心地の良い場所なのだろうか。
「ねえアンジュ、聞いてもいい?」
「……ん、何をだよ?」
「あなたはどうして、ウォレン兄弟にいるの。何がきっかけで?」
デリケートなことかもしれないとは思いつつ、それでも尋ねてみた。彼女はわたしの問いの真意を推し量るように、しばし口を噤む。そうして短い沈黙ののち、ぽつりと言った。
「別に。ただ親父に拾われただけだよ」
「拾われたって、それはどういう……?」
「どうもこうも、そのまんまだよ。あたしには親もいないし、居場所もなかった。だから親父に『来るか?』って訊かれたとき、迷わずついて行った。それだけ」
ぶっきらぼうなその口調は、そこから先は訊くなという意思表示のようにも思えた。だからきっかけについてはこれ以上訊かないでおくことにする。
「それで、今は居場所があるのね」
「ああ。兄弟は基本的に気のいいやつらばっかだしね。居心地はいいよ」
札付きのならず者集団が気のいいやつら、ね。そうは思ったが口には出さずにおいた。
「まあどいつもこいつも口は悪いし、暇さえあれば喧嘩して殴り合ってるし、平気で素っ裸で寝るし、ほんと馬鹿ばっかりだけどさ。でもあたしに居場所をくれた。魔術も教えてくれて、こんなあたしでも何かの役に立てるって思えた。今では親父に感謝しかない」
そう語る間もアンジュは手を動かし続け、ベッドもようやく形になったようだった。彼女は小さく「よしっ」とつぶやいて、満足げに頷く。
「それで、その親父さんからは今回の件で何か連絡あった?」
「いや、今のところは何も。こっちからの連絡は確かに届いてるはずだけどね」
彼女の召喚魔術は、喚び出すときには多くの魔力を消費するが、あとはほとんどそれを供給することなく何時間でも維持し続けることができるらしい。けれど対象が情報を受け取り、魔術が解除される際は彼女にもわかるのだとか。
「でも、こちらからの連絡はともかく向こうからはどうやって知らせを受け取るの?」
「ん、それは向こうにも同じ魔術を使える人がいるから。あたしの師匠だし」
なるほど。それなら納得である。そんな風に同じ魔術を教えてくれる人がいるというのもちょっと羨ましいものだ。わたしの場合はまったくの独学で進めるしかないだけに。
「まあ今回のことは兄弟にとっても他人事じゃないし、親父たちも情報収集に駆け回ってるんだと思う。たぶん夜までには何か知らせが来るよ」
「そうね。そしたらわたしにも知らせてね」
「ああ。それがお役目だしな」
アンジュはそう言って、取り替えたシーツを丸めて籠に詰めると、足早に部屋を出て行った。
それから日が暮れるまでは、部屋で本を読んで過ごした。ボールドウィン領。フィールズ一家。それらについて記録されている書物を探してみたが、やはりごくごく少ないようだった。それでもフィールズ一家が、他のならず者集団と同じく元軍人たちが組織したものであることはわかった。
ただしその後の経緯は他と異なり、彼らは元敵国である帝国軍人さえも取り込み、急速に拡大して行ったとのことだ。そして目的のためには手段を選ばず、犯行は残忍を極め、きわめて危険な集団として各領から警戒されている。
そもそもリーダーのフィールズは軍でも問題行動が多かった男で、投降兵の惨殺や配下の兵への過剰な制裁などでたびたび懲罰を受けていたという。おそらくはリーダーの性向が組織全体に伝播して、フィールズ一家の残忍性として現れていると、記録では結論付けられていた。
窓の外が完全に闇に落ちて間もなく、マリーが夕食を持って現れた。屋敷の外の様子を尋ねてみたが相変わらずのようだ。今のところは何も起きてはいないが、騎士団も依然として厳戒態勢を保っている。少なくとも数日は、この状況が続くだろうとのことだった。
「お兄さまからは何か?」
「いえ、特には。ただ騎士団とは密接に連絡を取り合っているようなので、お嬢さまも心安んじて過ごされますようにと」
要するに余計なことはせず大人しくしてろということだ。言われなくてもそのつもりだった。
「わかったわ。お兄さまには、あまりご無理はなさらないようにと伝えて」
「かしこまりました」
食事を終えてマリーが下がって行くと、また静寂の中にひとり残された。その静けさに、再び遣る方ない焦りが膨らんでゆく。今わたしに何ができる。何をすればいい。できることなど何もないのはわかっていても、そう考えずにはいられなくなる。
そんなとき、窓から見える中庭に人影がひとつ見えた。メイド姿の瘦せぎすの影。そのシルエットだけで、アンジュだとわかった。やがてその影のもとに、一羽の烏が舞い降りてゆく。暗闇の中に黒い羽。本来なら闇に溶けて見えないはずのその姿が、なぜか浮かび上がるようにはっきりと見て取れた。それもおそらく、その烏が魔力で形作られたものだからかもしれない。
烏はアンジュの頭上でくるりと円を描くと、彼女が掲げた右手に近づいてゆく。けれどその手にいよいよ触れようかという直前、ぱちんと弾けるように姿を消した。あとには黒い霧のような魔力の無数の粒が残り、それも広げた彼女の掌に吸い込まれてゆく。幻想的ではあるが、やっぱりちょっと気味の悪い光景であった。
おそらくウォレンからの連絡だったのだろう。けれどアンジュは烏が消えたあとも、しばらくその場に立ち尽くしていた。遠目にもかろうじて窺えるその横顔は、どこか戸惑っているかのようにも見える。
「……アンジュ」
わたしが声を落として呼びかけると、彼女は顔を上げた。それから目を巡らせてわたしを見つけると、ゆっくりと窓の下に歩み寄ってくる。
「見てたんだ?」
「うん。ウォレンからの連絡?」
「ああ。あんたへの伝言だった」
そうして彼女は窓の真下に立つと、二階のわたしをひどく真剣な目で見上げた。
「今から兄弟のアジトまで来いって。連れはなし。あなたひとりで。さあどうする、お嬢さま?」
ウォレン兄弟のアジトは近隣の森の中にあると聞いていた。つまり、城壁の外だ。ウォレンからの招待であれば、これは兄アルフォンスから与えられた役目のうちに入るだろう。つまり誰憚ることなく、城門から外へ出てゆくことができる。この町の外側がどうなっているのか、いよいよこの目で確かめることができる。それに心が踊らないわけではなかったが。
「あなたの親父さんは、存外常識がないのね。こんな時間にレディを家に呼びつけようだなんて」
「夜道のひとり歩きは怖いかい。大丈夫だよ、あたしが手を引いてあげるからさ」
どうやらこの誘い、わたしが乗ると確信しているかのような口ぶりだった。もちろんわたしとて、断る気はない。ただしそれならこちらからも、条件をつけさせてもらっても構わないだろう。
「確かにお誘いは嬉しいけれど、わたしはまだあなたの親父さんをそこまで信用してないんだよね」
「まあ、そう言うだろうとは思った。それなら親父もひとりだけ、護衛を付けてもいいと言ってる。ただし、それはこちらの指定する人物を。そいつ以外は認めないって」
「へえ。それは誰?」
「グレインディール騎士団調査隊隊長、ゲンナジー・オハラ」
それは予想外の名前ではあったが、同時に奇妙な納得もあった。なるほど、彼にそれを同意させることができれば、わたしは兄からの命令を果たすことができる。ウォレンもそう言えばわたしが乗ると思っているのだろう。けれどその会談を実現させるなら、あくまで中立な場所でなければならない。一方のホームに単身乗り込ませるなど無茶もいいところだ。
「それはさすがに無理じゃないかなぁ。あの人はあなたたちウォレン兄弟にとって天敵みたいなもんでしょう。そんな人が罠かもしれない誘いに乗ると思って?」
「あの男が罠を怖がるほど臆病とも思わないけどね」
「自分ひとりなら怖がりはしないでしょうね。でもあなたたちの本当のお客はわたしなんでしょう。たぶん、それは許してくれそうにないなぁ……それならいっそ、自分がひとりで行って殺される方がマシだと考えるはず」
「それは駄目。あんたの同行は絶対だよ、お嬢さま」
アンジュもそこは強情なようだった。確かにわたしとしても、この機会は逃したくない。あまり駆け引きに時間をかけるべきではなさそうだった。
「……用件は?」
わたしのその問いに、アンジュは困惑するように表情を曇らせた。どうやら、あまりいい話ではないらしい。嫌な予感は膨らむが、それでも確かめないわけにはいかなかった。
「用件、かぁ……。それもやっぱり、言わなきゃダメかな?」
当たり前だ。確かに公爵家はウォレンの武力をアテにはしたが、決して屈服したわけではない。呼びつけられてはいそうですかと従うなら、それ相応の理由を示してもらわないと。
しばしの逡巡ののち、アンジュも意を決したように小さく頷いた。そうしてまたわたしを見上げて、挑発的に唇を歪める。
「ドニ・ルヴァンの引き渡しをしたい。そういう用件なら、どう?」




