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22話 俺は無力だ

 地面に転がったままナルシュはひっそりと息を潜めていた。

 1分、2分と時間が過ぎていく。秒を数える合間にもアリスは遠くへと連れ去られていく。

 

 今すぐ走り出さないと、アリスが危ない、なのに、なのに彼は立ち上がり始められなかった。

 多少打撲がある程度で、骨は折れていない。動こうと思えば動けるはず。

 

 なのに動けない。それは獣人としての本能だろうか。

 今すぐにでも物陰に隠れたい、朝までじっとやり過ごしたい。危険から遠ざかりたい、そうやって生き延びたいと身体が、心が訴えている。

 

 彼にとって屈辱的な本能だった。涙が溢れる。どうしようもない感情も一緒に溢れた。

 

「(俺は弱いだけじゃなく、こんなにも臆病で意気地無しで最低なんだ)」


 ミステクタ北部の大森林。奥深くの小さな集落がナルシュの生まれ故郷だった。

 平和に暮らしていた彼の元にある日突然、武装した人間が襲ってきた。

 

 ミステクタ狩りが横行していると噂はあったが、こんな僻地にまでこないだろうという油断があったので対応が遅れた。

 幸いにも人間の数が少なかったのですぐに制圧できた。

 

 だが不幸にもナルシュは逃げ遅れてしまい、また病弱な母を庇ったせいで人間に囲まれてしまった。

 奮戦するも背後から殴られ気絶してしまい、連れ去られアスタルト首都の奴隷商に売り飛ばされた。

 

 道中や奴隷商館で、暴行などの酷い扱いを受ける彼は、逃走用ないし復讐の機会を常にうかがっていた。

 そんなときに出会ったのが、同じ猫型獣人の少女であるアリスだった。

 

 世の中には、こんなにも可愛い女の子がいるんだなって。ナルシュにとって初恋にも、一目惚れにも似た心の揺らぎがあった。

 薄汚い檻に閉じ込められても、アリスの周囲だけが輝いていて、まるで光の精霊がいるみたいに眩しかった。

 

 檻同士が近かったから会話もした。小さくて細くて、透明で綺麗な声だった。無垢そのものの少女だった。

 アリスがまた人間に奪われてしまった。俺の目の前で、何も出来ないまま。

 

 アリスを見殺しにしてしまうこと。ナルシュにとってそれは、奴隷商に売られたことなど比べ物にならないショックだった。

 いっそ誰か殺してくれ。もう血の味がする砂利を吐き捨てる気力すらない。

 

 誰かが倒れ伏すナルシュへと近づいてくる。

 ああ、あの変態主人か。

 

「(アリスに着せる性的なコスプレをアリス自身に選ばせたキモい野郎)」


 内心で屑野郎と罵ってたけどなんてことない、アリスを見殺した俺のほうが何万倍も最低の屑野郎じゃないか。

 起き上がらせてもらいながら、そう彼はひどく冷静に己を分析した。

 

「アリスはどうした」

「……誘拐された」

「そうか」


 応える声は、冷静。身長差があるためラズウェルの表情はナルシュから伺えない。だが彼はその声色を許すことが出来なかった。

 

「何でだよ」


 頭に血が昇ってラズウェルの胸倉を掴む。身長差があるせいで背伸びしながら。

 無礼どころではない行為だし、即座に斬り殺されても文句は言えない。たとえそうでも、叫ばずにはいられなかった。

 

「アンタはアリスの飼い主なんだろ。なんでアリスが誘拐されなくちゃならないんだよ」

「……」

「俺達は好きで奴隷になったんじゃない、アンタにとっちゃ奴隷1匹死のうが痛くも痒くもねえだろう」


 一筋の涙がナルシュの頬を伝う。無力な自分を殺したくなる位恨めしい、無力ゆえに八つ当たりしか出来ることがない自分に。

 

「けど俺達だって血肉通った生物なんだ。死にたくないんだ、望む物が何でも手に入る英雄様には永遠に解らねえだろうがな!」


 必死で止めようとした、何度近付いても殴られ蹴られ吹き飛ばされた、けど何も出来なかった。アリスが連れ去られるのを黙って眺めることしか出来なかった。

 これからアリスは酷い目に遭わされる。遠いどこかに売り飛ばされて、慰み物にでもされるか、鉱山奴隷として死ぬまで酷使されるか。

 でも力無いナルシュには何も出来ない。

 

「俺は無力だ」


 ラズウェルは静かに呟いた。

 

「何も出来ない。消えていく、全てが掌から零れ落ちていく。俺は無力だ。ただ斬り殺すことしか出来ない」


 何言ってやがるコイツ。そう思い見上げたラズウェルは無表情にじっと、己の汚れた両手を見つめている。

 

「小さなこの掌ではアリスを包めない」


 ラズウェルの瞳から光が消えた。瞬間、ナルシュの全身に鳥肌が立ち、体毛が何本か抜け落ちていく。自身に向けられた殺意ではないのに。

 

「最愛の妹を奪う奴は許さない。皆殺しだ」


 抑揚なく淡々と話すラズウェルの瞳を見上げ、ナルシュは底冷えした。

 殺意ではない。ただ世界すら呑み込みそうな虚無しかなかった。

 

 奴らは全員死滅するだろう。そう確信してしまえる迫力があった。

 辺境出身の彼でも知っている、ここ数年でその名を轟かせ恐れられる傭兵集団。

 喧嘩を売ったのは、最強にして最凶最悪の傭兵集団。誘拐犯は決して開けてはならない禁断の箱に手を付けてしまったのだと。

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