酒を呑む
その日から、僕は先生の家で月に何回か夕食をご一緒させてもらうようになった。アパート暮らしでバイトもしている身としては、きちんとした食事を頂けるのは大変ありがたいことだった。
最初の頃は行くたびに手土産を持参していたが、その習慣もいつの間にかなくなり、代わりに帰りにおかずを容器に入れていただくようになった。アパートで食べる食事の半分くらいは奥様手製のおかずになり、四分の一くらいはその味を真似て作った自分の手料理になっていった。
先生の家に通う生活は、続いた。
僕が二十歳を過ぎると、先生は「お酒を紹介したい」と言って何種類もの酒を並べてお祝いをしてくれた。
ビールは苦くて臭くてダメだった。赤ワインは渋くて日本酒は甘かった。燗をした日本酒はなお甘かった。先生は燗をした日本酒が好みだった。白ワインは飲みやすく、ジンやウオッカは喉が焼けそうだった。シェリーの香りが僕は気に入った。
「甘くて温かみのある、古い納屋で感じるような香りです」
シェリーの香りをそう表現すると、先生は嬉しそうに笑った。
「面白い表現ですね」と先生は言った。「君は呑んべえになるかもしれません」
「きっとお前とも気があうよ」
先生は、奥様のグラスにもシェリーを注いだ。
「無論、妻はたしなむよ」
奥様は僕に向かって微笑み、グラスを掲げた。酒を飲んで奥様の顔色が変わるのを見たことはなかった。奥様の方が先生よりも酒に強いように見えた。
「ところで、その後大学はどうですか。もう私の講義は終わってしまいましたが、相変わらずですか」
「相変わらずとは」
「今でも最前列で講義を聞いているのですか」
「はい、もちろんです」
この話をするのは何度目なのだろうかと、僕は少しぼんやりしてきた頭で考えた。
「なるほど、相変わらずなのですね」
先生は少し考え込んだ。僕は、今日は洋服を着ている奥様の姿を見た。着物を着ている時と洋服の時と、どういう基準で決めているのだろうかと考えた。最近は洋服の時が多いような気もする。
「初めて君にあった頃、君は学生がバカに見えると言っていましたね」
少し、酔いが覚めた。
この話がどこに向かうのか見極めようと僕は口を閉じて、先生の話に集中した。
「君、自分はどうなんですか」
僕は、先生の言葉に少し首を傾けた。
「周りの学生がバカに見えるって、自分はどうなんですか。自分が周りからどう見えているか、自分ではわからないでしょう。意外と、あなたも自分が思っているほど真面目には見えていないかもしれないですよ。むしろ杓子定規すぎて馬鹿に見えるかもしれない」
顔が熱くなった。余計なお世話ではないかと思った。
「あなた」と奥様が少しおびえた顔で先生をたしなめた。
「いや、これは失敬」と、先生は大して失敬に思ってもなさそうに涼しい顔をして詫びると、奥様に「もう一本つけてくれ」と言った。
奥様が席をはずすと、先生は「君には私はどう見えますか」と尋ねた。
「どうって、立派な大学の先生に見えます」
「バカに見えますか」
「バカには無論、見えません」
頭に上った血はゆっくりと降りてくる道半ばにあり、しっかりとものを考えることができなかった。先生の言葉の意図を汲み取るのは相変わらず難しかった。
「でも私自身はバカだと思っていますよ」
え、と思わず声が出た。
「自分のことは、人にはわからないものです」
先生自身は会話を楽しんでいるようだったが、僕は混乱していた。
「死相は見えますか」
聞き間違いかと思い、問い直した。
先生は同じ質問を繰り返した。僕は、変なことを聞かないでください、もちろん見えません、と答えた。
「ね、人にはわからないでしょう」
そう言った先生は楽しそうだった。




