定食と講義
朝の由比ヶ浜で先生と言葉を交わした後でも、先生の講義の時は僕は最前列に座っていた。他の学生たちは後ろの席から講堂を埋めるので、満席でもない限り僕とその他の学生の間には自然と空間が生まれることになる。そして難解な先生の講義が満席になることは少なかった。
何回目かの講義の時のことだった。講義が終わると先生が僕に近づき、「このあと用事はありますか」と聞いた。
いいえ、と答えると、「それでは少しお話ししましょう」と言って僕を先生の部屋に連れて行った。
「あなたは、いつも最前列で講義を聞いていますね」
僕は、先生がなぜまた同じ質問をするのかわからないまま「はい、当たり前です」と答えた。
その時先生はそこで会話を止めてしまわずに、質問を重ねた。
「なぜなのですか」
「なぜって」
僕は困惑した。
「講義を真面目に聞くのは当たり前ではないでしょうか」
「そうでしょうか」
先生の言葉は挑発的だった。
「先生は、講義を真面目に聞いていない学生がいて、悔しくないのでしょうか。僕は、連中がバカに見えて仕方がないんです」
「悔しくないですよ」
先生は涼しい顔で言った。
「大学は教育機関ではなくて研究機関です、私はそう思います。自分で学ぶところです、学びたくないことは学ばなくていいし、学びたいことはいくらでも学べる。大体、興味を持っていない人間にいくら説いても馬の耳に念仏です」
僕は自分の口が大きく開いていることに気がついて慌てて引き締めた。
「しかし」
「興味を持てないことを人は聞かないものです。講義というのは、小説を書いて売るようなものです。買ってくれれば御の字です。聞いた人の何人かの心に刺さって、何かが残ったらそれこそ存外の喜びです」
「しかし先生は先生ではないですか。講義をする対価として給料をもらっているのに、そのような態度を見せられて腹が立たないのでしょうか。そんなことで悔しくないのですか、バカにされているとは思わないのですか」
そう言ってもらえる気持ちはありがたいのですが、とつぶやいた先生はしばらく言葉を探していた。
「定食屋の親父さんは、毎日食事を作ってお金を稼いでいるけれど、彼の作った食事について誰も何も言わないでしょうね、多分。それでも定食屋に来た客の一人か二人くらいは、その味や店の雰囲気に何かを感じて、自分も定食屋をやろうと思う人がでてくるかもしれないですね。そういうものです。私は学生に栄養を供給しているのです、真面目も何もありません。もしもそれを糧にして学びたくなったら、自分で学べばいいのです。私は自分が研究したいことを研究するためにここにいるのです」
「それは何なのですか」
「君には、関係のないことです。私の研究なので」




