契約
「では何なのですか」
「契約です」
婚前契約書については、聞いたことがあった。
「しかし、それは家事の分担や離婚した時などについての取り決めではないですか」
僕の言葉に手を上げて遮ると、先生は続けた。
「私はあれに衣食住を保証する。そのかわりにあれは私と一緒に過ごす。そしてあれに好きな人ができて、私もそれを認めれば、契約は終了するのです。私たちを一対の夫婦としてみてもらっては困るというのはそういうことです。いずれは破綻するのですから」
あまりにも身勝手な言い分だった。奥様の気持ちを考えていないように思えた。
「奥様は先生を愛しているように見えます」と僕は言った。
「あれが私を愛したことはありません」
先生の言葉は強いものだった。
僕は反論しようと思って口を開いたが、先生の言葉に遮られた。
「あれは、あなたを愛しています」
あまりのことに、僕は口を開いたまま黙った。
「そして、あなたもあれを愛している」
怒りがこみ上げてきた。
ではどうして、奥様と一緒にいるのですか、と声が大きくなるのを抑えて僕は言った。
「観察するためです」
「なぜです。なぜそんなことを」
「話したらあれを受け入れてくれますか」
先生の表情はすっかり落ち着いていた。そんな馬鹿げた条件を飲むわけにはいかない、と僕は思った。
しかし、口から出た言葉は違っていた。
「そんなことはわかりません」
先生は満足げに頷き、「なるほど。ではお話ししましょう」と話を始めた。
「私とあれの間には子供がいたことがあります。しかし亡くなりました。一年に満たない命でした。私たちは道を誤ったのです。息子が生きていれば、もしかしたら状況は違ったかもしれません。しかし、そうはならなかった。だから私はそのことに対する罰を受け入れることにしたのです。しかし、あれを道連れにしたくはない。それが一緒にいる理由です」
どこから質問を始めていいのか、わからなかった。先生の考えはあまりにも杓子定規で、感情の入る隙間を見つけることもできないほどだった。
「それはどのくらい前のことなんでしょうか。それに契約とどういう関係が」
混乱して質問をした僕の顔を、先生は観察するように眺め、満足そうな笑みを浮かべて、「もう遅いから帰りなさい」と言った。僕の質問には答えなかった。




