手紙
そして応接間の扉を開けると奥様を呼び、「お帰りだよ」と声をかけた。その声も振る舞いも、すっかりいつもの先生に戻っていた。
僕は奥様と目を合わせることなく、玄関に向かった。僕の後ろを歩く彼女が、僕のシャツの袖をそっとつまみ、引いた。
僕は気がつかないふりをした。
玄関で靴を履くと僕は二人に向かって挨拶をした。彼女は先生の少し後ろに立っていた。
「こちらにお伺いすることはもうないでしょう」
「いえ、あなたはまた来ます。あなたは私ととてもよく似ているのだから。一点だけ、違うところがありますが」
そう先生は言った。
それ以来僕が先生の居宅を訪れることはなかった。大学で先生を見かけることもなかった。
そして昨日、奥様から手紙が届いたのだ。
一晩考えて、僕は手紙を持って三年前に先生に初めて会ったこの海にやってきた。
砂浜に腰を下ろした僕の眼の前で、夏の海は同じリズムで波を起こし、引いていた。僕はジーンズの後ろポケットから彼女から届いた手紙を取り出して、もう一度見た。
便箋は二枚あった。
一枚には先生が亡くなったという事実が、短い言葉で記されていた。彼女の書く文字を僕は初めて見た。そして彼女の名前が静子だということも初めて知った。
もう一枚の便箋は白紙だった。顔を近づけると香水の匂いがした。
僕は海に目を向けた。あの大きな煌きがまた見えないかと、目を凝らした。
散歩をする人の数がだんだんと増えてきた。子供を連れた夫婦が波打ち際で波を避けながら散歩をしていた。子供が我慢しきれなくなったのか嬌声を上げながら波に向かっていき、胸まで波をかぶって「冷たい」と、嬉しそうに叫んだ。
僕は砂を払いながら立ち上がり、手紙をポケットに戻すと、歩きだした。
(完)




