34.慣れないこと
スタジオを出てロビーの自販機前へ移動し、スポーツドリンクのボタンを押す。
心地よい疲労感が全身を包んでいたが、今の俺には妙な熱が残っていた。
それぞれのロッカールームに戻る前に、二人で飲み物でも飲もうという流れだった。
財布をロッカーに入れてきたのはお互いだったが、ここの自販機は俺の携帯端末でも購入可能だったので、今日の案内のお礼代わりに、俺が出させてもらうことになった。
「飲み物あざっす!そんで、お疲れさまっす、ガズくん。しっかり動けててびっくりしたっすよ」
「レイさんこそ。最後のストレート、キレが凄かったです」
そんな会話を交わしていると、背後から軽い足音が近づいてきた。
先ほどスタジオの隅で途中から自主的に休んでいた、例の男子大学生の二人組だった。
「ねえ、お姉さん。めちゃくちゃ動けててカッコよかったわ。ここのジム通ってんの?」
「てかさ、この後ひま? すぐ近くに美味いスムージーの店あるんだけど、一緒にどう?」
あからさまなナンパだった。
彼らの視線は、汗でウェアが肌に張り付いたレイさんの身体を、いやらしく値踏みするように舐め回している。
「あー……自分ら、この後仕事の戻りなんで、そういうの結構っすわ」
レイさんはいつもの調子でかわそうとしたが、奴らは引くどころか、さらに一歩距離を詰めてきた。
「えー、いいじゃんケチケチしないでさ。そっちの地味な彼氏も、別にいいよね?」
鼻で笑うような視線が、俺に向けられる。
その瞬間、頭の芯がカッと熱くなった。いつもなら、波風を立てないように愛想笑いでも浮かべて、レイさんを促してその場を去るのが『正しい』俺だ。
だが、今は違った。
ボクシングレッスンで高まったアドレナリンが、まるでフェリドゥンの機内のような戦うときのスイッチを入れていた。
自分の限界重量を押し切った筋肉が、闘争本能のままに硬く引き締まる。
レイさんが何かを言い返そうと口を開きかけたが、それより先に、俺の身体が動いていた。
レイさんの前に一歩踏み出し、『敵』のいやらしい視線を完全に遮るように立ちはだかる。
「――おい」
低く、冷え切った声が出た。
自分の声なのに、驚くほど容赦のないトーンだった。
「お前ら、目ぇついてんのか? 嫌がってんだろ。失せろよ」
「……あ?」
大学生の一人が一瞬、怯んだように肩を揺らす。
もう一人がムッとして凄もうとしてきたが、俺はそれを値踏みするように見下ろした。
「スタジオでも、ステップについていけずにチンタラ休んでただろ。体力が余ってて暇なら、外の道路でもう一周走ってこいよ。邪魔だ」
普段の俺なら絶対に口にしない、剥き出しの拒絶。
一歩も引かない俺の体勢と、一切目をそらさない好戦的な視線に気圧されたのか、奴らはあからさまに動揺し始めた。
「チッ……なんだよ、ノリ悪ぃな……」
捨て台詞を残し、二人組は逃げるように足早に去っていった。
「……ふぅー」
奴らの背中が見えなくなって初めて、俺は肺の空気をすべて吐き出した。
急激に頭の芯が冷えていく。
それと同時に、自分がたった今しでかした暴挙の中身を理解して、ゾッとした。
「(……待て。俺、今なんつった……!?)」
あの口調、フェリドゥンの外では会社の誰にも、もちろんレイさんにも聞かせていない。
最悪だ。引かれたかもしれない。恐る恐る振り返り、レイさんの様子を窺う。
「す、すみませんレイさん……! なんか、まだボクシングの勢いが残ってて、変な口調に――」
「…………」
言葉が途切れた。
レイさんは、両手を胸の前で小さく握りしめたまま、完全に固まっていた。
レイさんが『ガズくん、今のウケるっすね!』と笑い飛ばしてくれれば良かったのだが、その顔は耳の付け根まで真っ赤に染まっている。
「レ、レイさん?」
「……あ、いや……」
レイさんは視線を激しく泳がせ、自分の熱い頬を隠すようにパタパタと手で煽った。
最終的に先ほどのペットボトルをその頬に当てた。
どうすればいいか分からず、なんとなく差し出した俺の分のペットボトルもひったくられ、そちらももう片方の頬を冷ます任につくことになった。
「その…わざと、やってる、っすか?」
「え?」
「何でもないっすー!」
そして、ロッカールームに駆けていくレイさん。
「……もう一本、買うか」
このスポーツジムのシャワーは冷水も選べたはずだ。とにかく頭を冷やそう。
冷水シャワーを浴びて、頭を冷やしてから私服に着替えた。
ロビーに戻ると、すでにレイさんはソファーに座って待っていた。
髪の毛先が少し濡れていて、いつものオフィスカジュアルとは違う私服姿のレイさんを前にすると、シャワーで冷ましたはずの頭がまた少し熱くなる。
「あ、ガズくん。遅いっすよ」
立ち上がったレイさんは、すでにいつもの調子に戻っているように見えた。
……見えたのだが、俺と目が合った瞬間、不自然にバッと視線を泳がせる。
「あー、その、お腹空いたっすよね! 運動した後はタンパク質補給が大事っすから!
ほら!自分は先輩だから、後輩に栄養のあるものを奢ってあげなきゃいけない義務があるっていうか!
ほら!ジュースも貰ちゃったっすし!」
やたらと『先輩』と『後輩』という単語を強調しながら、レイさんは早口でまくしたてた。
両手で自分のバッグの紐をぎゅっと握りしめている。
まだ耳の裏がほんのり赤い。
「……あ、じゃあ、お言葉に甘えてもいいですか?」
「応っす! 先輩の特権っすから、遠慮はいらないっすよ!」
どうやら、『先輩としての威厳』を強調したいらしい。
そのどこか必死な様子がおかしくて、俺の口元から自然と笑みがこぼれた。
「なんかっすか?」
「いえ。レイさん、やっぱり頼りになるなと思って」
「……ふんっ。今更気づいても遅いっすよ!」
少しだけ誇らしげに胸を張るレイさんを見て、俺の緊張も完全に解けた。
いつもの、少し締まらないけれど居心地のいい、俺たちの空気が戻ってきた。




