32.走り出した『非日常』
十二月中旬の、よく晴れた有給休暇の午後。
冬の冷たい空気の中を歩き、俺は、数日前にレイさんと約束した『アイアンスポーツクラブ』の自動ドアをくぐった。
新築特有の真新しい建材と、微かに漂う柑橘系の芳香剤の匂い。受付の清潔感のある女性に社割の体験会用チケットを提示し、簡単な手続きを済ませる。
笑顔で丁寧な対応だった。そう言えば、ここ数日レイさんの笑顔が増えたような気がしていた。
エルさんやティアさんも不思議がっていたが、俺にも心当たりが無い。
「ガズくん、お待たせっす!」
メンズ用の更衣室で貸し出されたハーフパンツとTシャツに着替え、ロビーに戻ったところで、背後から弾んだ声がした。
「……レイさん?」
「そうっすよ?到着したってメッセージ入れてたっすよね?
あ、既読になってない。というか到着の連絡欲しかったっすよ、ガズくん」
腰に手を当てて少しこちらを咎めるように唇を尖らせる彼女は、いつもの黒鉄重工の作業着姿でも、先日の居酒屋で見せた少し大人びたスーツ姿でもなかった。
髪は高い位置できゅっとポニーテールに結ばれ、うなじが健康的に露出している。
上は体にぴったりとフィットしたミントグリーンのスポーツタンクトップで、驚くほど綺麗な鎖骨や、引き締まった二の腕のラインが露わになっていた。下は黒いショートパンツに、脚のラインを強調するスポーツレギンス。
会社では作業着に隠れて分からなかったが、彼女のスタイルが予想以上に健康的で、なおかつ「出るところは出ている」という事実に、俺の視線は行き場を失った。
とっさに頭を掻き、軽く頭を下げる。
「あ、いや……すいません。今日はその…すごく、スポーティーですね?」
「そりゃそうっすよ、ジムの体験会なんだから!
それに自分、形から入るタイプなんっすよね。これ、今回のために新調しちゃったっす!」
えへへ、と嬉しそうに胸を張るレイさん。その拍子に、タンクトップ越しに豊かな胸元が小さく揺れ、俺は慌てて視線を壁のポスターに避難させた。
そこに居たのはハンバーグショップの黒マッチョ。どうやら提携サービスをやっているらしい。少し冷静になれた。サンキューマッチョ。
「あ、インストラクターさんが呼んでるっす。行くっすよ、ガズくん!」
頭が冷えたのもつかの間、レイさんは俺の手首を軽く掴むと、ぐいぐいとマシンエリアの方へと引っ張っていった。
掴まれた手首から伝わる体温が、冬の寒さで冷えていた俺の肌にやけに熱く感じられた。
「はい、それでは本日担当させていただきます、インストラクターの東です。よろしくお願いいたします!」
「よろしくお願いしまっす!」
「よろしくお願いします」
爽やかなマッチョの男性、インストラクターの東さんに挨拶をされ、レイさんは体育会系の良い返事をする。俺は会社で培った要領で頭を下げた。
「お二人は同じ会社の方なんですね。今回は器具の使用が1時間と、その後にスタジオレッスンが1回となっています。まずは軽い有酸素運動から始めましょうか」
東さんの案内で、窓際にずらりと並んだルームランナー、ランニングマシンの前へと移動する。先日、外からチラリと見上げたあの場所だ。
「では、こちらのマシンに乗ってください。まずは時速五キロくらいのウォーキングから始めて、徐々にペースを上げていきましょう」
言われるがままにマシンに乗り、スタートボタンを押す。足元のベルトコンベアが動き出し、俺とレイさんは並んで歩き始めた。
最初はぎこちなかったものの、三分もすれば歩調が掴めてくる。窓の外には十二月のオフィス街が広がっており、普段なら必死にシミュレーターを動かしている時間帯に、こうして平日の昼間からのんびり身体を動かしているという事実に、なんだか奇妙な贅沢感を覚えた。
「いやー、やっぱり平日の昼間のジムは空いてて最高っすね!」
隣のレイさんは、すでに余裕の表情で時速を七キロまで上げ、軽快にジョギングを始めていた。ポニーテールがリズムよく左右に揺れている。呼吸に乱れがないあたり、やはり運動慣れしているのだろう。
「そうですね。有給を取れって言われた時はどうしようかと思いましたけど、来て良かったです」
「でしょ? ニワさんのお小言を回避できて、健康にもなれて、一石二鳥っす。……あ、そういえばガズくん、最近のデータ整理、進んでるっすか?」
「レイさん、守秘義務…」
「あ、いけねっす。つい平日だからうっかりしてたっすよ。ははは…」
誤魔化すように笑うレイさん。無理も無い。この時間帯は普段なら職場で仕事の時間だ。それに職場の俺も一緒だしな。
日常と非日常。よくある対比だ。
日常が巨大ロボット開発と非日常がスポーツジムなのだから、俺達は少し変わっているのかも知れない。
だが、それを共有出来る相手との時間は、心地いい。
「じゃ、会社近くの飯屋の話でもしましょうか」
「お、いいっすね!肉関連ならいい情報あるっすよ!」
そんな会話に夢中になっているうちに、十五分の有酸素運動はあっという間に終了した。じんわりと額に汗がにじみ、身体が中から温まっているのを感じた。




