29.黒鉄重工健康運動増進制度
12月。冬の賞与の支給や年末調整、年内の仕事納め、忘年会など、公私ともに1年で最も忙しく、お金の動きも激しくなる節目の月。
しかし、黒鉄重工先端重機開発室にとっては、一休みの月となりそうだった。
まず、ニワさんとエルさんが開発室設立以来よく社内外で行っていた挨拶行脚も一段落した。
次に、二回の運用実験から出来てきた問題点や課題を設計からフィードバックする段階に入った。
最後に、2回目の運用実験では顧客、つまりフェリドゥンの導入を検討していた各企業団体からの否定的な問い合わせ対応が激減した。
寄せられる意見も、好意的なものが多くなり、なんだかご機嫌伺いをされているとさえ感じる程だった。
俺については、相変わらずシミュレーターを動かす日が大半を占めるものの、これまでのデータのファイリングや整理をする事務作業をする日も多くなっていた。
無論、暇とまでは行かないが、少なくとも先の二ヶ月、運用実験に向けた開発室全体の必死さ、というものはなくなったように思える。
そして、そうなれば、これまで眼が向いてなかった所にも眼が向けられるもの必然である。
「単刀直入に言おう、上からお叱りを受けた」
朝礼の後、ニワさんは声を上げる。まぁ、そのこと自体はよくあることなのだが、内容が内容だっただけに、俺達は身構える。
「我が開発室の黒鉄重工健康運動増進制度の利用率と有給取得率の低さに!」
構えを解いた。力を抜いたとも言ってもいい。
「……健康運動増進制度って、なんだったっすかね?」
「スポーツ用品の購入の支援や、ジムの利用に対しての金銭的支援。簡単に言うと、運動するならお金を出します、ってとこかしら?」
「そう言えば、申請書の棚にそんな書類があったような…」
レイさんが疑問を呈し、エルさんが答え、俺も今思い出したところだった。
入社時のオリエンテーションで、分厚い冊子の片隅にそんな福利厚生が書いてあった気がする。
だが、これまでの怒濤の二ヶ月間、そんなものを利用する心の余裕など誰も持ち合わせていなかったのだ。
「まぁ、運動は各自、家で筋トレでもしていると言い訳が立つ。ちなみに使い切らないと、お小言が入るので、頼むよ、キミ達。
ワタシは去年、年度末になってプロテインバー購入で使い切ったよ。……味はいまいちだったけどね」
苦い顔、いや不味い顔をしたニワさん。しかし、気を取り直して言葉を続けた。
「問題は有給取得率だね。先月、先々月と全員の取得日数が、見事に『ゼロ』を更新している。
人事部から『過重労働の温床になっているのではないか』と突っ込まれた。特に室長であるワタシの管理責任が問われているさ」
頭を抱えるニワさんの姿に、開発室の面々は顔を見合わせる。
「だってニワさん、実験前はそれどころじゃなかったじゃないっすか」
「うむ、レイくんの言うとおりだ。だからこそ、この落ち着いた12月だ。キミたち、年内に必ず2日以上、有給を取ってくれ。これは業務命令とも言っていい。
……我が黒鉄重工の事務員は怖いぞ、皆重機免許を持っている」
はたしてそれをどう利用すれば、割と自由人なニワさんをここまで怖がらせることができるのだろう。
それを知る日が来ないことを祈るばかりだ。
ちなみに、アメリカからの帰国子女、ティアさんは…
「有給ってフィクションの中以外でもあるんですね」
先進国で唯一、法律上の有給休暇の義務がない国、アメリカ。そこでディープな日本オタクをやっていた彼女にとって、この開発室での日々は毎日が新鮮な『異文化交流』の連続なのだった。
この後、エルさんが改めて各制度の説明を行うことになった。
そこには、もちろんレイさんと俺も参加し、それから僅かな時間ではあるが賑やかしとばかりにニワさんまで同席していた。
業務に余裕がある時で良かった。
ロッカールーム。業務中の作業着から通勤用のスーツに着替え、後は帰るばかりなのだが、俺の目線は手元の紙面を追っていた。それは、退勤時間にニワさんが配ったチラシ。
「……アイアンスポーツクラブ、か」
黒鉄重工傘下のスポーツジムだ。今年の夏にオープンしたばかり、会社からのアクセスも容易。しかも…。
「特別キャンペーン、年内の申し込みで入会費無料……社員割利用で4ヶ月分の月額で丁度、補助金と同額、か。
体験会は社割込みで500円。靴レンタル、1時間の器具使用、スタジオレッスン一回が無料…」
かなりお得だよな。お、体験会の日はシャワーも使っていいのか。これなら仕事終わりでも…。
気付けばかなり前向きに検討している俺がいた。
「……帰りに雰囲気だけでも、見ていくか」
ほんの少し遠回りになるが、散歩と考えればこれも健康増進の一環だろう。
携帯端末で調べれば、ご飯屋も近くにある。たまの外食も悪くない。高カロリーは散歩で相殺ということで。
そして、俺は『アイアンスポーツクラブ』近くまでやって来た。
雑居ビルの2、3階を占有しているらしく、客層は見えないものの、3階部分窓際ではルームランナーを使用してる様子が見えた。あまりジロジロ見るのも気まずい、チラリと見てすぐ通り過ぎた。
スポーツジムと言えば、筋肉質な男性のイメージがあったが、走っていたのは中肉中背の男女、今年入社の俺よりやや上の世代と言った印象だった。
もしかしたら、社割もあるし、黒鉄重工の社員だったのかもしれない。
「あれ?ガズくんじゃないっすか?」
『アイアンスポーツクラブ』からさほど離れない内に、声を掛けられた。
声の主はレイさん。顔合わせからしばらく経ったが、そのスーツ姿はあまり見慣れないものだった。




