閑話 各国
【アメリカ、ペンタゴンの戦慄】
ワシントンDC、国防総省の最深部にあるブリーフィングルーム。
そこには、国家安全保障会議《NSC》のメンバーやCIAの長官、そして最先端の科学技術を操る国防高等研究計画局《DARPA》の顧問たちが集まっていました。
正面の大型スクリーンに映し出されているのは、日本の東京、中野区周辺の衛星画像。しかし、それは通常我々が目にする地図ではありませんでした。
「……信じられるか。これは最新の偵察衛星キーホールが捉えた『存在しないはずの空白』だ」
統合参謀本部の将軍が忌々しそうに葉巻を置きました。
画像の一部を中心とした半径数百メートルだけが、赤外線、電磁波、重力波に至るまで、あらゆるセンサーが「完璧なゼロ」を示していたのです。
「光学的には視認できます。しかし、エネルギー測定を行うと、そこには『何の歪みも何の摩擦もない』という熱力学第二法則を真っ向から否定するデータが返ってくる。……まるで、神がPhotoshopでその一画だけを『修正』したかのようだ」
CIA長官が冷徹な声で付け加えました。
「さらに問題なのは現地に送り込んだ潜入工作員たちの報告です。昨日、エージェントのスミスから最後の通信がありました。内容はこうです。『この街のドーナツはあまりに旨い。私は任務を辞め、この平和を守る守護者になりたい。探さないでくれ』。……以上です」
会議室に衝撃が走りました。
スミスは過去にいくつもの独裁政権を転覆させてきた非情なエリート工作員です。その彼がドーナツと平和のために「引退」を宣言した。
「――マインドコントロールか?それとも未知の化学兵器か?」
「いえ、もっと厄介です。我々の科学チームの分析によれば、これは『幸福による無力化』。対象の半径内に入ると人間の脳内から闘争心や野心が根こそぎ削ぎ落とされ、原始的な『満ち足りた幸福感』に塗り替えられてしまう。軍隊を送り込めば翌日には全員がボランティア活動を始めていることでしょう」
アメリカにとって、これは「兵器」以上の脅威でした。
自由と民主主義の名の下に力を振るう超大国にとって、力そのものを「無意味」にする存在は世界のパワーバランスを根底から破壊しかねないからです。
「大統領への報告書はこうまとめる。――『トウキョウ、ナカノ・シティに、物理法則と人間の野心を強制終了させる制御不能の超常個体が存在する』と」
ペンタゴンのエリートたちはかつてない焦燥感に駆られていました。
彼らはこれを「エリア51」以来の最大機密に指定し、あらゆる手段を用いた「接触と捕獲」、あるいは「排除」のシミュレーションを開始したのでした。
一週間後。ホワイトハウスの大統領執務室。
極秘の最終報告書を読み終えた大統領は、深い溜息をついてペンを置きました。
「……つまり、我々が手を出せば出すほど我が国の軍事資産は『綺麗に洗われて』使い物にならなくなる、ということか」
「はい。現在、接触を試みたエージェントの半数は日本で農業に従事し、残りの半数はホワイトハウスに『平和の尊さ』を訴える手紙を毎日送ってきています。物理的な攻撃もおそらく不可能かと。ミサイルの攻撃目標に指定しただけで危機に異常が起きていましたので――」
アメリカは悟りました。
これは軍事的な脅威ではない。抗うことのできない超常的存在《何か》なのだと。
「……静止衛星による恒常的観測、直接介入の無期限凍結、あとは日本政府との情報共有くらいしか手は打てないか」
アメリカ合衆国。世界最強の超大国は、かつてないほど謙虚に、そして慎重に、東京の片隅でビールを飲む「最強のおじいちゃん」を見守り続けることになったのでした。
@@@@@
【中国、至高の仙人への渇望】
中南海の奥深く、古色蒼然とした会議室。
そこでは、科学アカデミーの物理学者と国家安全部の情報将校たちが、信じがたい報告書を前に激論を交わしていました。
「……間違いない。これは古の文献に記された『真の仙人』、あるいは『真人』の振る舞いだ」
老科学者が震える指で指し示したのは、善吉が厚揚げを食べている隠し撮り写真――ではなく、その周囲で渦巻く「気の流れ」をシミュレートした画像でした。
「通常、高エネルギー体は周囲を破壊し、熱を放出する。だが、この個体は周囲の負のエネルギーを吸収し、完全なる秩序へと変換している。これは我が国が数千年の歴史の中で追い求めてきた『不老長寿』と『環境制御』の究極の完成形だ!」
中国政府にとって、善吉は単なる警戒対象ではありませんでした。それは国家の悲願を一身に体現した存在に見えたのです。
「もし、あの『浄化の術』を我が国のスモッグ地帯や汚染された河川に応用できれば……。いや、それ以上に指導者層にあの『若返り』の恩恵をもたらすことができれば、我が国の覇権は永遠のものとなる!」
野心に燃える幹部たちは即座に「勧誘」の作戦を立案しました。武力による拉致ではなく、あくまで「敬意を持った招待」という名の確保。彼らは、中国が誇る最高級の茶葉、そして国宝級の美女工作員、さらには「現代の錬金術」とも言える莫大な資産を提示し、善吉を大陸へ招き入れようとしたのです。
――しかし、彼らは「ことぶき荘」の敷居をまたぐことすら叶いませんでした。
北京から派遣された、洗練されたマナーと知略を兼ね備えた特使たち。彼らはことぶき荘の前に到着した瞬間、自分たちが抱いていた野心や策略が、あまりにも無作法で薄汚れたものに感じました。
「……何だろうこの気持ちは。あのお方に何かを要求するなど、天に向かって唾を吐くようなものではないか?」
一人の工作員が持ってきた貢ぎ物の最高級茶葉を見つめて涙を流しました。
「こんな人間の欲にまみれた茶葉を差し出すなんて……。今の私にできるのは、このアパートの前の溝掃除をすることだけだ!」
気がつけば、エリート工作員たちはスーツを脱ぎ捨て、近所のホームセンターで買ったデッキブラシを手にことぶき荘周辺の清掃に励んでいました。彼らの脳裏には、善吉が放つ徳の波動が有無を言わさぬ説得力で響いていたのです。
@@@@@
【ロシア、それどころではない北の大国】
モスクワ、クレムリンの地下深く。
ウクライナとの消耗戦が続く中、情報の奔流に溺れかけている参謀本部のデスクに一通の場違いな報告書が投げ置かれました。
「……極東、日本の中野区におけるエネルギー異常?くだらん。そんな報告を上げている暇があるなら前線に送る砲弾を一発でも多く確保しろ!」
将軍は苛立たしく怒鳴り散らしました。現在のロシアにとって、日本の一角で起きている「街が綺麗になった」だの「犯罪が消えた」だのという奇跡は、あまりにも優先順位の低い「おとぎ話」に過ぎませんでした。
しかし、情報局《GRU》の分析官は引き下がりません。
「閣下、問題はその性質です。アメリカの衛星網がこの区域に対してのみ『無力化』されています。さらに我が国の潜伏工作員からも奇妙な通信が届いています。『正体不明の青年に肩を叩かれた瞬間、母国への忠誠心と共に積年の神経痛が消失した。私は今日からこの地でボルシチ屋を開業する』と――」
「……なんだと?」
「現在、極東の工作員ネットワークが、次々と『平和的な自営業』へと転身しており、壊滅の危機にあります。これは新手の精神兵器である可能性が極めて高いかと」
戦争でリソースを使い果たしているロシアにとって、新たな脅威の出現は頭痛の種でしかありませんでした。
――数週間後。ロシア政府が出した結論は、驚くほど投げやり、かつ現実的なものでした。
「接触は一切禁止。……というか、そんな予算も人員も残っていない」
それが、独裁者の下した非情な、しかし正しい判断でした。
アメリカのように調査に乗り出す余裕もなく、中国のように仙人に憧れるロマンもない。今のロシアにあるのは、「自国に害がないなら見なかったことにする」という乾いた合理主義だけです。
@@@@@
【ヨーロッパ、多種多様な静観と好奇】
古き歴史と伝統、そして現代の複雑な政治事情を抱えるヨーロッパ。
日本で観測された「ことぶき荘の奇跡」に対し、各国はそれぞれの国情を色濃く反映した反応を示しました。彼らにとってそれは、海を越えた極東の異変であると同時に、自国のアイデンティティを再確認する鏡のような出来事でもありました。
『イギリス、騎士道精神と静かなる共犯』
秘密情報局《MI6》は、アメリカから共有されたデータを精査した後、極めて英国らしい結論を出しました。
「……要するに、UMAくんは最高の『ジェントルマン』だということだろう?」
彼らは善吉を「敵」とも「兵器」とも見なしませんでした。むしろ、混沌とする世界において唯一、完璧な秩序を維持し続ける存在として敬意を払ったのです。
首相は「彼がパブでエールを楽しんでいる間は、我々も自国の紅茶を楽しもうじゃないか」と冗談を飛ばし、積極的な干渉を拒否。その代わり、彼に不敬を働く不届きな工作員が欧州から出ないよう、裏で静かに目を光らせることにしました。
『フランス、美と自由への無関心』
国内のデモや政情不安で手一杯のフランス政府は、この報告を鼻で笑いました。
「日本が清潔になった?素晴らしい。だが我が国のパンの焼き上がりに影響しないならそれは政治の仕事ではない」
彼らにとって、利益が見えない超常現象に割くリソースはありません。「もし経済的な恩恵があるなら、その時に介入すればいい」という、極めてドライで傲慢なスタンスを維持しました。
『イタリア、ヒーローを信じる首相のジレンマ』
日本の総理と個人的な親交のあるイタリア首相は、極秘ルートで送られてきた善吉の「お掃除データ」を見て、執務室で一人拳を握りしめていました。
「……これは、まさに日本のアニメーションで見た『守護者』そのものではないか!素晴らしい、実にグラッツェだ!」
オタク的な魂が疼き、今すぐにでも自ら日本へ飛び、善吉と「友情」の握手を交わしたいという衝動に駆られます。しかし、そこは一国のリーダー。公私の区別をつけ「今は調査に留め、時期を待つ」と自分を律するのでした。
『ドイツ、スピリチュアル物理学の暴走』
ドイツには、古くからオカルトと科学を融合させて研究する奇妙な機関が存在します。彼らは善吉を「量子力学的な浄化フィールドを維持する高次元個体」と定義し、熱心に分析を開始しました。
「彼の『リズム』には宇宙の真理が隠されている。これこそが未来のエネルギー革命だ!」
中国寄りの思想を持ちつつも、純粋な探究心から「善吉の波動を再現する装置」の開発に没頭。しかし、実験すればするほど、なぜか研究所内がピカピカに掃除され、研究員たちが清々しい気分で帰宅してしまうという、謎の副作用に悩まされることになります。
『スペイン、賢者の待ち伏せ』
情熱の国スペインは意外にもしたたかでした。
「アメリカが怯え、中国が崇め、ドイツが分析している。ならば我々は、彼らが失敗するのを待って最後に一番美味しい果実を頂くだけだ」
特に関与はせず、各国の動きを肴にシエスタを楽しみながら時代の潮流が変わる瞬間を静かに待つという、伝統的な「賢者のスタンス」を選びました。




