閑話 日本
【政府の動揺】
首相官邸、地下深く。
そこには、震災やテロといった国家存亡の危機に際して招集される「危機管理センター」が存在します。現在、この場所に集められていたのは、各省庁から選りすぐられた「理屈」と「現実」を司るエリートたちでした。
「……まずは、この映像を見ていただきたい」
公安調査庁の担当官が、巨大なモニターに衛星画像を映し出しました。
そこには、東京都心の一部――「ことぶき荘」を中心とした半径数百メートルが、まるでそこだけ世界から切り取られたかのように異様なほど鮮明に映っていました。
「都内全域が光化学スモッグや排気ガスで霞んでいるなか、この一画だけが標高3千メートルの山頂よりも澄み切った大気を維持しています。さらに熱源探査の結果です」
画面が切り替わると、そこには暖かなオレンジ色の光が、まるで呼吸するように拍動している様子が映し出されました。
「……まるで、土地そのものが生きているようだな」
内閣官房長官が眉間に深い皺を寄せて呟きました。
「それだけではありません。警視庁からの報告によれば、この一帯の犯罪率は過去一ヶ月で実質『ゼロ』です。喧嘩一つ起きていない。それどころか近隣の病院からは、末期がん患者や長年の持病を抱えていた者が、ある朝突然『寛快した』、あるいは『完治した』という信じがたい報告が上がっています」
室内には、重苦しい沈黙が流れました。
本来、これらは「喜ばしいニュース」であるはずです。しかし、国家を運営する彼らにとって、理由のわからない「奇跡」は計算不能な「最大級の脅威」に他なりませんでした。
「科学班の結論は?」
「……物理法則の無視です。特定の個体、あるいは地点から未知のエネルギーが恒常的に放射されている。それは既存の放射能とも電磁波とも異なり、生命に対して『絶対的な肯定』をもたらす性質を持っている……とのことです」
「つまり、なんだ。……日本に、本物の『神』が降りたとでも言うのかね?」
冗談ともつかない長官の問いに、誰も笑う者は居ませんでした。
彼らはまだ、この「奇跡の源」が、がま口財布を手に居酒屋へ向かう一人の青年であることを知る由もありませんでした。
『現場からの異常報告』
政府が招集した専門部会には、データ上の数値だけでなく実際に「現場」を調査した人間たちの生々しい声が集約されつつありました。
発言したのは、警視庁の公安部から派遣されたベテラン捜査官でした。彼はどこか狐につままれたような顔で報告書を読み上げます。
「……信じがたいことですが、潜入調査を試みた捜査員たちが、ことごとく『任務を完遂できず』に帰還しております」
「完遂できない?警備網に阻まれたのか?それとも何らかの物理的な障壁があったのかね?」
防衛省の幹部が問い詰めると、捜査官は困惑したように首を振りました。
「いえ。……『あまりにも居心地が良すぎて、どうでもよくなった』というのです。対象のアパート『ことぶき荘』の半径五十メートルに入った瞬間、どんなに殺気立っていた捜査員も急に穏やかな気分になり、『こんなに天気がいいのに誰かを監視するなんて虚しい』と、公園で鳩に豆をやり始めたり、道端に咲く花を愛で始めたりして……。挙句には、道に迷った老人の手伝いをしたり、ゴミ拾いを始めてしまう始末です」
会議室に失笑が漏れかけましたが、捜査官の真剣な瞳にすぐに沈黙が戻りました。
それは、暴力や技術による「拒絶」ではありませんでした。人間の根源的な「攻撃性」や「義務感」そのものを無力化し、ただ「善き隣人」であることを強いる、圧倒的なまでの精神的支配――あるいは絶対的な慈愛による「無力化」です。
「また科学班のフィールドワークでも異常が確認されました。大気中の汚染物質が、ことぶき荘の敷地に入った瞬間に『消滅』している。化学反応の結果ではなく、物質そのものが純粋な酸素と水分に書き換えられている形跡があります。これはもう現在の科学が定義する『物質変換』の域を完全に超えています」
報告が進むにつれ閣僚たちの顔は青ざめていきました。
彼らが恐れたのは、この力が「悪用」された時のことではありませんでした。
「……もし、その『力』を持つ存在が、日本という国家そのものを『不必要』だと判断したらどうなる。法や警察、軍事力などという荒々しい仕組みを排除すべきだと見なされたら我々には抗う術がない」
一国の政府が、自分たちの存在意義そのものが揺らぐような恐怖を感じ始めていたのです。
「どんな存在か判明しているのか?」
「……おそらく、なりますが、時期的な観点からの判断になりますが、管理人として入居した若者である可能性が高いです。名は『善吉』。近隣住民の認識はバラバラで、ある者は『親切な若者』と言い、またある者は『昔からここにいる楽隠居』と語る。……実体が曖昧な、不思議な存在です」
モニターに映し出された、スーパーの袋を下げて歩く善吉の隠し撮り写真。
その背中から漂う、あまりにも無防備で、しかし隙のない「平穏」に、エリートたちは息を呑むことしかできませんでした。
会議室の空気はさらに混迷していきます。出された資料は、警察庁の鑑識課と自衛隊の特殊災害担当が合同で作成した「事後調査報告書」でした。
「……例の、郊外にある古い洋館の件です」
担当官が操作すると、モニターには善吉が訪れたあの洋館のビフォー・アフターが映し出されました。
「ここはかつて凄惨な事件が起き、土地一帯が強力な超常現象……いわゆる『呪い』によって汚染されていた場所です。計測器を近づけるだけで故障するほどの異常空間でした。それが一晩でこれです」
アフターの映像には、色鮮やかな花が咲き乱れ、小鳥がさえずる「楽園」のような光景が映っていました。
「特筆すべきは洋館内部の物質的変化です。壁や柱に染み込んでいた血液やカビ、さらには経年劣化による腐食までもが分子レベルで再構築されています。科学班の言葉を借りれば、『時間が数十年巻き戻された』、あるいは『完璧な状態へと書き換えられた』としか説明がつきません」
出席者の一人が震える声で尋ねました。
「……それは、兵器として転用可能ということか?」
「……逆です。あらゆる『破壊』を無効化する力です」
担当官は苦々しく続けました。
「この洋館の周辺、半径数キロでは、当日、ある奇妙な現象が起きています。住民たちの間で、数十年抱えていたトラウマや精神疾患が消失し、家庭内暴力やいじめといった『負の感情』に起因する行動が、完全に停止しました。しかも強制的なマインドコントロールではなく、本人が自発的に納得する形で、です」
政府関係者たちが最も戦慄したのはこの点でした。
この「何か」は、物理的な現象だけでなく、人間の心、ひいては社会の構造そのものを「善意」という名の光で塗り潰すことができる。
「――さらに不可解な報告があります。同日同時刻、上空を通っていた某国の軍事衛星が、この地域を撮影しようとした際、カメラのレンズが『純水』によって洗浄されるという事象が発生しました」
長官が呆然と呟きました。
「……覗き見すら許さぬということか。まさに、神の領域だな」
彼らは、自分たちが向き合っている存在が、核兵器やサイバー攻撃といった現代の脅威とは全く次元の異なる、圧倒的で、あまりにも「潔癖」な存在であることを思い知らされたのです。
「この存在……『善吉』氏が、もしも日本政府のやり方に『穢れ』を見出したとしたら。……我々の権力構造など一瞬で『お掃除』されてしまうのではないか?」
その懸念は、妄想ではなく、現実的な恐怖として会議室を支配しました。
『政府の指針、不可侵条約』
数日間にわたる極秘会議の末、内閣官房長官、警察庁長官、防衛大臣、そして専門家チームによる最終結論が出されようとしていました。
「……結論を申し上げます」
官房長官が、重厚な革張りのファイルに署名を終え、顔を上げました。
「我々日本政府は、ことぶき荘の入居者『善吉』氏に対し、一切の物理的接触、強制的調査、および政治的関与を放棄する。 これを国家の非公式な最高指針とする」
驚きの声は上がりませんでした。誰もがそれ以外に道はないと理解していたからです。
「彼は今のところ、ただの『アパートの管理人』として平穏に暮らしている。仕事をし、ゴミを拾い、居酒屋を巡りをしているだけだ。しかし、その背後にある力は一国家の軍事力をも上回る、文字通りの『天災』だ。仮に我々が彼を管理しようとしたり、兵器として利用しようとしたりすれば、その瞬間に日本という国そのものが『不浄なもの』として排除される可能性がある」
配布された資料には、各国の動きに対する対応策も記されていました。
「アメリカは衛星で監視を続け、中国は仙人として接触を図っているようだが、我々はそれらを黙認する。むしろ、彼らが善吉氏を怒らせた際、日本が巻き添えを食わないよう、一定の距離を保つこと。彼には『八百万の神の一柱が、たまたま現代に受肉して休暇を楽しんでいる』という解釈を適用する」
「監視はどうされますか?」
公安の幹部が尋ねると、長官は苦笑いを浮かべました。
「『監視』ではない。『調和』だ。一定の距離で、今まで通りに暮らしてもらおう。我々も今までと変わらず、国の仕事を全うすること――それが我々にできる最良の国防だろう」
こうして、世界で最も厳重に保護され、かつ「決して手を出してはいけない」聖域が東京の片隅に誕生しました。
日本政府は、善吉に「媚びる」のではなく、ただ「隣人として失礼のないように接する」という極めて日本的な共生を選んだのです。
「……もし彼が、いつかこの国に失望して去るようなことがあれば、それが日本の終わりだ。そう思って、各員、今までと変わらず職務を全うしてくれ」
官僚たちは深く頷きました。
彼らは「ことぶき荘」を、現代日本における最高機密の「聖域」として扱うことを決め、その周辺で起きるあらゆる奇跡を静かに見守る覚悟を決めたのです。
しかし、この事態を「政治的リスク」としてではなく、全く別の視点から見つめている人々が、もう一方の「聖域」にいらっしゃいました。
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【もう一つの聖域での会話】
政府が「リスク管理」と「政治的打算」に奔走していたその頃、千代田の深い緑に囲まれたもう一つの「聖域」――皇居では、全く異なる空気が流れていました。
午後の穏やかな陽光が差し込む御所の庭園。
そこでは、当代の天皇陛下と、その傍らで花を愛でる皇后さまが静かに語らっておられました。
「……陛下、あちらの方角、何やらとても澄んだ気配がいたしますね」
皇后さまが視線を向けられたのは、新宿・中野方面――すなわち「ことぶき荘」がある方角でした。
霊感や予言といった言葉では片付けられない、代々受け継がれてきた「祭祀者」としての血が、離れた場所で拍動する圧倒的な「清浄」を敏感に感じ取っていたのです。
「ああ。私も今朝から感じていた。雲一つない空の向こうに、まるで国中の淀みが吸い込まれていくような……そんな、優しく力強い風の根源をね」
陛下は穏やかに微笑まれましたが、その瞳には政府の官僚たちが抱く「恐怖」とは正反対の、深い「懐かしさ」が宿っていました。
「古の記録にある『常世の国』からの風か。あるいは、八百万の神々が久方ぶりにこの地を直接お歩きになっているのか。……いずれにせよ、あそこにいらっしゃる方は、この国を、そして民を、慈しんでおられる。それは確かなようだ」
政府から提出される「超常現象に関する極秘報告書」を陛下も目にされていましたが、そこに記された数値や危険性の議論など、陛下にとっては些末なことでした。
「神代の昔より、この国は神と人とが共に歩む地。……皇后よ、我々もまたあの方の平穏を祈りましょう。あのような清らかな気がこの地に留まってくださること、それ自体が民の幸いなのだから」
陛下は、官邸が策定した「不干渉」という方針を、別の意味で肯定されました。
政治的な隠蔽ではなく、純粋な「敬意」としての静寂。
日本という国の頂に立つお二人は、誰よりも早く、その存在の「正体」を直感的に理解し、そして受け入れておられたのです。
「……お会いすることは叶わぬでしょうが、あの方の歩む道に、どうか幸多からんことを」
皇后さまの優しい声が、春の風に乗って流れていきました。
その風は、都心のビル群をすり抜け、ことぶき荘のベランダで洗濯物を干していた善吉の鼻先を、ふわりとくすぐりました。
「おや……」
善吉は手を止め、皇居のある方角を眺めて、小さく頭を下げました。
「……なんとも、高貴で清らかな風ですな。わしもまだまだこの国の掃除のしがいがあるというものですわい」
二つの聖域が、目に見えない絆で結ばれた瞬間でした。
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【形なき献上儀礼】
数日後。ことぶき荘の管理人室の前に、一台の質素ながらも手入れの行き届いた黒塗りの乗用車が止まりました。
降りてきたのは背筋の伸びた初老の男性。宮内庁の職員とも、あるいは政府の密使とも取れる、独特の静謐な雰囲気を纏った人物です。彼は周囲を警戒する風でもなく、ただ丁寧に管理人室のドアをノックしました。
「はいはい、どなた様ですかな」
善吉がいつもの姿で顔を出しました。
男は善吉の若々しい姿を見ても驚く風はなく、ただ深く、最敬礼に近い角度で頭を下げました。
「突然の訪問失礼いたします。私は、ある『ご家庭』より日頃の『清掃活動』への感謝を伝えに参りました」
男が差し出したのは、一目で最高級品とわかる桐の箱でした。
「これは……?」
「この国で最も古い歴史を持つ農家が、古来より伝わる特別な手法で醸した『神酒』と、ある高貴な方が自ら手入れされた菜園の初物でございます。『どうか今夜の晩酌の彩りに』とのことです」
善吉はその言葉の裏にある「声」を即座に理解しました。
九十五年の人生経験と神の如き知覚。この贈り物に込められたのが政治的な賄賂ではなく、純粋な「一国民としての敬意」と、この地を守る者への「労い」であることを。
「……ふむ。これはまた、身に余るお心遣いですな」
善吉はいつもの快活な笑みを浮かべ、両手でその箱を受け取りました。
「お伝えください。『おかげさまで、今夜の月は一段と綺麗に見えそうです。この国の風が淀まぬよう、隠居の身なりに、もう一仕事励ませていただきます』と」
男は満足げに、そして安堵したように微笑み、再び深く一礼して去っていきました。
――その日の夜。
ことぶき荘の屋上で、善吉は頂いた神酒の蓋を切りました。
グラスに注がれた透明な滴からは、日本の大地そのものが凝縮されたような清冽で芳醇な香りが立ち上ります。
「うむ。これは……身に染みる味ですわい」
一口含めば、身体の芯から温かな光が溢れるような至高の味わい。
善吉は夜空を見上げました。遠く、千代田の杜の方角に、自分を信じて静かに見守る「人々の祈り」が視えます。
最強の管理人は月明かりの下で独りごちました。
「神様でも救世主でもなくただの『管理人』。……そう扱ってくれるこの国が、わしはやはり大好きです」
善吉が満足げに杯を干すと、日本列島を包む霊的な結界がより一層強固で、柔らかな黄金色の輝きを増しました。
政府がどれほど頭を抱え、諸外国がどれほど探りを入れてこようとも。
この国には、最強のおじいちゃんと、それを信じる古き魂の絆がある。
東京の片隅。アパート「ことぶき荘」から始まる世直しは、今夜も静かに、そして誰よりも温かくこの国を浄化し続けるのでした。




